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2009年11月19日 (木) 06:00時点における版

 
今川氏真
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文7年(1538年[1]
死没 慶長19年12月28日1615年1月27日
改名 龍王丸(幼名)[2]通称)、氏真、宗誾(法名)
別名 彦五郎、五郎[2]通称)、仙巖斎(斎号)
戒名 仙岩院殿豊山泰栄大居士[3]
墓所 萬昌院観泉寺
官位 従四位下、上総介、刑部大輔[4]
幕府 室町幕府御相伴衆
駿河守護職・遠江守護職?[5]
主君 北条氏康氏政徳川家康
氏族 今川氏
父母 父:今川義元、母:定恵院武田信虎女)
兄弟 氏真嶺松院武田義信室)、一月長得 ほか
正室:早川殿北条氏康女)
娘(吉良義定室)、今川範以品川高久
西尾安信、澄存、猶子:北条氏直
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今川 氏真(いまがわ うじざね)は、駿河戦国大名。駿河今川氏10代当主で、大名としての今川家の最後の当主である。

父・義元が桶狭間の戦い織田信長によって討たれたためその領国を受け継いだが、武田信玄徳川家康の侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は北条氏を頼り、最終的には徳川家康の庇護を受けた。今川家は江戸幕府のもとで高家として家名を残した。

生涯

家督相続

天文7年(1538年)、今川義元定恵院武田信虎の娘)との間に嫡子として生まれる。天文23年(1554年)、17歳の折に北条氏康の長女・早川殿と結婚し、甲相駿三国同盟の成立に寄与した。

弘治2年(1556年)から翌年にかけて駿河を訪問した山科言継の日記『言継卿記』には、若い日の氏真も登場している。言継は、弘治3年(1557年)正月に氏真が自邸で開いた和歌始に出席したり、氏真に書や鞠を送ったりしたことを記録している。

氏真は永禄元年(1558年)より駿河・遠江に文書を発給しており[6]、 この前後に義元から氏真に家督が譲られたとするのが、研究上の主流の見解である(#家督継承について)。この時期の三河への文書発給は氏真ではなく義元の名で行われていることから、義元が三河国の掌握と西方への軍事行動に専念するため、氏真に駿河・遠江の経営を委ねたとする見方が提示されている[7]

永禄3年(1560年)5月19日、尾張に侵攻した義元が桶狭間の戦い織田信長に討たれたため、氏真は名実ともに今川家の領国を継承することとなった。

相次ぐ離反

桶狭間の戦いでは、今川家の重臣(由比正信一宮宗是など)や国人松井宗信井伊直盛など)が多く討死した。三河遠江の国人の中には、今川家の統治に対する不満や当主死亡を契機とする紛争が広がり、今川家からの離反の動きとなって現れた。

三河の国人は、義元の対織田戦の陣頭に動員されており、その犠牲も大きかった。松平元康(1563年家康に改名)は桶狭間の合戦後に旧領岡崎城に入り、西三河地域は元康の勢力下に入った。東三河でも、国人領主たちは今川氏真が新たな人質を要求したことにより不満を強め、離反して松平方につく国人と今川方に残る国人との間での抗争が広がる(三州錯乱)。永禄4年(1561年)、今川家から離反した菅沼定盈野田城攻めに先立って、小原鎮実は人質十数名を龍拈寺で処刑するが、この措置は多くの東三河勢の離反を決定的なものにした。松平元康は永禄5年(1562年)正月には織田信長と清洲同盟を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにする。永禄5年(1562年)2月、氏真は自ら兵を率いて牛久保に出兵し一宮砦を攻撃したが、「一宮の後詰」と呼ばれる元康の奮戦で撃退されている。このとき、駿府に滞在していた外祖父武田信虎の動きが不穏であり、氏真は途中で軍を返したともいう[8]。 永禄7年(1564年)6月には東三河の拠点である吉田城が開城し、今川氏の勢力は三河から駆逐される。

遠江においても家臣団・国人の混乱と離反が広がった(遠州忩劇、遠州錯乱)。永禄5年(1562年)には謀反が疑われた井伊直親を重臣の朝比奈泰朝に誅殺させている。ついで永禄7年(1564年)には曳馬城主・飯尾連竜が家康と内通して反旗を翻した。氏真は、重臣三浦正俊らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させることができず、逆に正俊が戦死してしまう。その後、和議に応じて降った飯尾連竜を永禄8年(1565年)12月に謀殺した。飯尾氏家臣たちが籠城する曳馬城には再び攻撃がかけられ、翌9年(1566年)4月に開城する。しかしこれらの措置も事態を収拾することはできず、国人たちを徳川方に走らせることになった。

氏真は祖母寿桂尼の後見を受けて政治を行っていたと見られる。永禄3年(1560年)後半から永禄5年(1562年)にかけて氏真は活発な文書発給を行い、寺社・被官・国人のつなぎ止めを図っている。外交面では北条氏との連携を維持し、長尾景虎(後の上杉謙信)の関東侵攻に対して援兵を送っている。また、永禄4年(1561年)以前と推定される時期に室町幕府御相伴衆の格式に列しており、幕府の権威によって領国の混乱に対処しようとしたと考えられる[9]。 内政面では、永禄9年(1566年)4月に富士大宮六斎市楽市とし[10]徳政の実施を命じたり、役の免除などを行ったりした[11]。 しかし、これらの政策も、衰退をとどめることはできなかった。

甲陽軍鑑』など後世に記された諸書には、氏真が遊興に耽るようになり、家臣の三浦義鎮(右衛門佐、小原鎮実の子)を寵愛して政務を任せっきりにしたとする。また、政権末期にはこうした特定家臣の寵用や重臣の腐敗などの問題が表面化しつつあったと指摘されている[12]

里村紹巴が永禄10年(1567年)5月に駿河を訪問した際に記した『富士見道記』では、氏真をはじめ領内の寺社や公家宅で盛んに連歌の会や茶会を興行していることが記録されている。この時期も三条西実澄冷泉為益が駿府に滞在しており、氏真政権末期にも歌壇は盛んであった。『校訂松平記』によると、永禄10年7月には駿河に風流踊が流行し、翌年の夏にも再発した。この際、氏真はみずから太鼓を叩いて興じたという。同書は、三浦右衛門佐が氏真に勧めて風流踊を流行させたとし、亡国の兆しとして描いている。

戦国大名今川氏の滅亡

今川氏の衰退を見た甲斐国武田信玄駿河国への南進を画策する。信玄の嫡男で氏真の妹・嶺松院の夫である武田義信はこれに反対したが、信玄は永禄8年(1565年)に義信を反逆の罪で幽閉して廃嫡。永禄10年(1567年)には義信を自害させ、嶺松院を今川家に送り返して婚姻同盟を破棄した。これにより今川氏は外交的にも不利な立場に陥った。氏真は越後上杉謙信と盟約を交わして対抗し、相模国北条氏康とともに甲斐国への塩留を行った[13]が、信玄は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗したため、これは決定的なものにはならなかった。

永禄11年(1568年)12月6日、信玄は甲府を発して駿河への侵攻を開始した。12月12日、で武田軍を迎撃するため氏真も興津清見寺に出陣したが、瀬名信輝葛山氏元朝比奈政貞三浦義鏡など駿河の有力国人21人が信玄に通じたため、12月13日に今川軍は潰走し、駿府もたちまち占領された。氏真は朝比奈泰朝の居城遠江掛川城へ逃れた。しかし、遠江にも今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、泰朝をはじめとした家臣たちの奮闘で半年近くの籠城戦となった。

早川殿の父・北条氏康は救援軍を差し向け、薩峠に布陣。戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強めたため、家康は氏真との和睦を模索する。永禄12年(1569年)5月17日、氏真は家臣たちの助命と引き換えに掛川城を開城した。この時に今川氏真・徳川家康・北条氏康の間で、武田信玄の勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。

しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真およびその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城をもって戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。

駿河旧国主の流転

掛川城の開城後、氏真は妻の実家である北条氏を頼り、蒲原を経て伊豆戸倉城に入った。のち小田原に移り、早川に屋敷を与えられる[14]。 永禄12年(1569年)5月23日、氏真は北条氏政の嫡男・国王丸(後の氏直)を猶子とし、国王丸の成長後に駿河を譲ることを約した(この時点で氏真の嫡男・範以はまだ生まれていない)。また、武田氏への共闘を目的に上杉謙信のもとに使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ(実態は越相同盟)。駿河では、岡部正綱が一時駿府を奪回し、花沢城の小原鎮実が武田氏への抗戦を継続するなど今川勢力の活動はなお残っており、氏真を後援する北条氏による出兵も行われた。抗争中の駿河に対して氏真は多くの安堵状や感状を発給している。これらの書状の実効性を疑問視する見解もあるが、氏真が駿河に若干の直轄領を持ち、北条国王丸の代行者・補佐役として北条氏の駿河統治の一翼を担ったとの見方もある[15]。 しかし、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川家臣も順次武田氏の軍門に降るなどしたため、元亀2年(1571年)頃には大勢が決し、氏真は駿河の支配を回復することはできなかった。

元亀2年(1571年)10月に北条氏康が死ぬと、氏政は外交方針を転換して武田氏と和睦した(甲相一和)。12月に氏真は相模国を離れ、徳川家康の庇護下に入った[16]。 掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河統治の大義名分を得るものであった。元亀3年(1572年)に入ると、氏真は興津清見寺に文書を下すなど、若干の動きを見せている。天正元年(1573年)には伊勢大湊の商人に預けていた氏真の茶道具を信長が買い上げようとしたことがあり、その際に信長家臣と大湊商人の間で交わされた文書から、氏真が浜松に滞在していたことがわかる。

天正3年(1575年)の行動は、この年1月から9月頃までに詠んだ歌428首を収めた私歌集『今川氏真詠草』(内閣文庫蔵)に書き残されている。氏真は1月に(おそらく浜松から)吉田・岡崎などを経て上洛の旅に出、京都到着後は社寺を参詣したり三条西実澄ら旧知の公家を訪問したりしている[17]。 3月16日には徳川家康の同盟者にして「父の仇」でもある織田信長と京都相国寺で会見、信長は氏真に蹴鞠を所望し、同20日に相国寺において公家たちとともに信長に蹴鞠を披露している[18]。 4月、武田勝頼が三河長篠に侵入したことを聞くと(長篠の戦い)京を出立して三河に戻り、5月15日から牛久保で後詰を務めている[19]。 氏真に仕えていた朝比奈泰勝は、家康の許に使者に訪れた際に設楽原での戦闘に参加し、内藤昌豊を討ち取り、家康の直臣になったという[20]

長篠の合戦後、氏真も残敵掃討に従事したのち、5月末からは数日間旧領駿河にも進入し、各地に放火している[17]。 7月中旬には遠江諏訪原城(現:静岡県島田市)攻撃に従った。諏訪原城は8月に落城して牧野城と改名する。天正4年(1576年)3月17日、家康は牧野城主に氏真を置き、松平家忠松平康親に補佐させた[13]。 しかし、天正5年(1577年)3月1日に氏真は浜松に召還されている。1年足らずでの城主解任であった。また、城主時代に剃髪したらしく、牧野城主解任時に家臣・海老江弥三郎に暇を与えた文書では宗誾(そうぎん)と号している[13]。 この文書が、今川家当主として氏真が発給した現存最後の文書となる。

後半生

牧野城主解任後の動向は不明であるが、氏真は浜松周辺にいたのではないかと推測され、松平家忠の『家忠日記』に断続的に登場している。天正7年(1579年)10月には浜松城の家忠の詰所を氏真が訪問しており、その後家康の饗応も受けている。また「氏真衆」と呼ばれる家臣がおり、『家忠日記』には彼らとの交際も記されている。天正11年(1583年)7月、近衛前久が浜松を訪れ、家康が饗応した際には、氏真も陪席している[21]。 この後しばらくの消息は再びわからなくなる。

天正19年(1591年)9月、山科言経の日記『言経卿記』に氏真は姿を現す。この頃までには京都に移り住んだと推測される。仙巌斎(仙岩斎)という斎号を持つようになった氏真は、言経はじめ冷泉為満冷泉為将ら旧知・姻戚の公家などの文化人と往来し、冷泉家の月例和歌会や連歌の会などにしきりに参加したり、古典の借覧・書写などを行っていたことが記されている。文禄4年(1595年)の『言経卿記』には言経が氏真と共に石川家成を訪問するなど、この時期にも徳川家と何らかのつながりがあることが推測される[22]

京都在住時代の氏真は、豊臣秀吉あるいは徳川家康から与えられた所領からの収入によって生活をしていたとも推測される[23]。 のちの慶長17年(1612年)に、徳川家康から近江国野洲郡長島村(現:滋賀県野洲市長島)の「旧地」500石を安堵されているが[24]、この「旧地」の由来や性格ははっきりしていない[25]

慶長3年(1598年)、氏真は次男・品川高久徳川秀忠に出仕させる。慶長12年(1607年)には長男・範以が京都で没する。慶長16年(1611年)には、範以の遺児・範英が徳川秀忠に出仕した。

『言経卿記』の氏真記事は、慶長17年(1612年)正月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した記事が最後となる。氏真は住み慣れた京都を去り、4月に郷里駿府で大御所徳川家康と面会している[26]。 氏真の「旧地」が安堵されたのはこの時で、また家康は氏真に対して品川に屋敷を与えたという。そのまま子や孫のいる江戸に移住したものと思われ、慶長18年(1613年)に長年連れ添った早川殿と死別した。

慶長19年(1614年12月28日、江戸で死去。享年77。

葬儀は氏真の弟の一月長得が江戸市谷萬昌院で行い、同寺に葬られた。寛文2年(1662年)に萬昌院が牛込に移転するのに際して、武蔵国多摩郡井草の自領にあった宝珠山観泉寺(現・東京都杉並区今川二丁目)に正室・蔵春院早河殿の墓とともに移された。

研究

家督継承について

氏真の家督継承時期について、米原正義は弘治3年(1557年)正月の氏真邸の歌会始を今川家の歌会始とし、義元生前の家督譲渡の可能性をはじめて指摘した[27]有光友學は「如律令」朱印の文書発給から永禄2年(1559年)5月段階で家督が継承されていたとする[28]長谷川弘道は『言継卿記』弘治3年正月の記載を「屋形五郎殿」と解釈し、この時点で家督継承がなされていたとする[29]。 ただし、時期を確定する上ではいずれも決定的とはいえない。

人物

交友関係

言綱の義母(山科言綱の正室)・黒木の方が寿桂尼の姉という関係で、黒木の方は妹を頼って駿河に下向していた。弘治2年(1556年)から翌年にかけての駿河下向の際の『言継卿記』は、貴重な史料となっている。言継の子・山科言経との交友も深かった。
永禄10年(1567年)に駿河を訪問した際の『富士見道記』では、氏真が連歌を興行していることが記録されている。
長善寺住持。武田信虎の庶子あるいは猶子とも伝える。
深溝松平氏当主。『家忠日記』には「氏真様」と敬称付きで記されている。
交友があったらしく、『明暗双々記』に氏真の死を悼む詩を残している。

文化人としての氏真

和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じた文化人であったという。

和歌

氏真は生涯に多くの和歌を詠んだ。観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』には1658首が収録されている。

氏真の少年時の文化的な環境から、駿河に下向していた権大納言冷泉為和や、詩歌に通じていた太原雪斎などから指導を受けたとも考えられるが、具体的なことは知られていない[30]。紹巴の『富士見道記』には、氏真が冷泉為益(為和の子)から作法の伝授を受けたと記されている[27]

『今川氏と観泉寺』を編纂した一人であり、中古・中世和歌史の研究者である井上宗雄は、氏真の作品を優美平明を旨とする中世和歌の伝統的手法に則った作品と評している。「その作品は、すべてが勝れたものでなく、全体的に当時の水準を抜くものではなかったにしろ、時には水準に迫り、また少数ながら新しみのある歌、個性的な歌が存することは注目される。なお多くの平凡な歌が全く無駄だったとは思われない。常に歌に精神の中心を置いていればこそ、緊張感のみなぎった時には、調べの張った、個性的な歌を生んだのである」[30]。氏真は、後水尾天皇選と伝えられる集外三十六歌仙にも名を連ねている(集外三十六歌仙は連歌師や武家歌人が多いことが特徴であり、ほかに武田信玄や北条氏康・氏政も数えられている)。

蹴鞠

織田信長の前で蹴鞠を披露したエピソードで知られる。『信長公記』の記載では、氏真が蹴鞠をすることを聞き及んでいた信長が所望したという[31]。 同時代の史料で確認できる氏真と蹴鞠との関わりは、この『信長公記』の記載と、青年期の氏真に山科言継が鞠を送ったという『言継卿記』の記載程度しかない。

駿河に下向していた飛鳥井流宗家飛鳥井雅綱から手ほどきを受けたとされる。江戸時代初期に成立した笑話集『醒睡笑』には、氏真が賀茂神社神官の松下述久に師事したことが記されている。

剣術

塚原卜伝新当流剣術を学んだ[32]

なお、江戸時代の剣・居合・棒術の流派に、駿河の今川越前守義真(義直、吉道とも)を始祖と称する「今川流」、仙台藩に伝わる剣・居合の流派に今川越前守重家(吉道とも)を始祖と称する「今川兼流」がある。綿谷雪・山田忠史編『武芸流派大事典』(新人物往来社、1969年)は、義真を氏真と同一人物と推測しているが、根拠は示されていない。笹間良彦『図説日本武道辞典』(普及版:柏書房、2003年)が引く『撃剣叢談』によると、今川越前守義真は駿河今川氏庶流の人物という。

後世の評価・逸話

  • 江戸時代初期に成立した『甲陽軍鑑』品第十一では、「鈍過たる大将(馬嫁なる大将)」として氏真が挙げられている。氏真は心は剛毅であり戦闘も下手ではなかったと描かれているが、譜代の賢臣を重んじず、三浦義鎮のような「奸臣」を重用して失政を行ったという点に批判の重点が置かれている。
  • 松平定信が随筆『閑なるあまり』に「日本治りたりとても、油断するは東山義政の茶湯、大内義隆の学問、今川氏真の歌道ぞ」と記しているように、江戸時代中期以降に書かれた文献の中では、和歌蹴鞠といった「文弱」な娯楽に溺れ国を滅ぼした暗君として描かれていることが多く、このイメージは今日の歴史小説や歴史ドラマにおいてしばしば踏襲されている人物像である。
  • 続武家閑談』は以下の逸話を載せる。天正10年(1582年)、武田氏が滅ぼされた際、家康が信長に「駿河を氏真に与えたらどうか」と言ったところ、信長は「役にも立たない氏真に駿河を与えられようか、不要な人を生かすよりは腹を切らせたらいい」と答えた。これを伝え聞いて氏真は驚き、いずれかへ逃げ去っていたが、そのうちに本能寺の変が発生したという。家康と信長の間のやりとりについて真偽のほどは定かではない。
  • 及聞秘録』には、晩年家康を頼った氏真が江戸城をたびたび訪れて長話をしたために家康が辟易し、江戸城から離れた品川に屋敷を与えたと記されている。家康が氏真を江戸城で引見したかについては疑わしい。
  • 故老諸談』には、氏真と家康が和歌について談じたことが記される。氏真が和歌の道の奥深さや言葉選びの難しさを語るのに対して、家康は技法にこだわるよりも思いのままに詠むのがよいと返している。

肖像画

  • 妻の早川殿と対になった肖像画(遺像)があり、現在米国の個人が所蔵している。元和4年(1618年)2月に著された雲屋祖泰(妙心寺107世)の讃から、没後間もない時期に遺族によって供養・追慕のために描かれたものとみられる[33]。『静岡県史研究』9(1993年)に口絵として掲載されているほか、近年発行された入手しやすい書籍では有光(2008年)が図版として載せている。

系譜

父母
兄弟姉妹
妻妾
子女
生年は明らかではないが、子・義弥(天正14年、1586年)の生年から、駿河時代の子と推測される。氏真が北条氏を頼って逃れた際の文書に「氏真・御二方」を引き取ったという文言があることから、氏真は早川殿とともに娘を伴っていたと考えられることも、推測を補強する[34]
伝十郎と称した。生年は不詳。慶長18年(1613年)11月3日没。
天正7年(1579年)生まれの末子。聖護院准后道澄の弟子となる。若王子住職・熊野三山修験道本山奉行となり、承応元年(1652年)に没した。

今川氏真を題材にした作品

小説
  • 天下を汝に―戦国外交の雄・今川氏真(赤木駿介、新潮社)
氏真が登場するテレビドラマ

参考文献

  • 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)
  • 米原正義『戦国武士と文芸の研究』(桜楓社、1976年)
  • 有光友學『今川義元』(吉川弘文館、2008年)

脚注

  1. ^ 没年齢からの逆算。
  2. ^ a b 大石泰史「今川氏真の幼名と仮名」『戦国史研究』23(1992年2月)
  3. ^ 『今川氏と観泉寺』p.74「近世今川家歴代法号一覧表」による。この他、以下のような記載もある。
    「仙岩院豊山泰永居士」(『北条氏過去帳』高野山高室院本〔『大日本史料』第十二編之十七所収〕)、
    「仙岩院殿量山泰栄大居士」(『牛込御殿山久宝山万昌院鬼簿』〔『朝野旧聞襃藁』七百五十四所載〕)、
    「仙巌院殿機峯宗峻大居士」(『今川家略記』)、
    「仙巌院殿機峯俊貌大居士」(今川氏真肖像画の雲屋祖泰著賛)
  4. ^ 瑞光院記』によると、永禄3年(1560年)5月8日、義元が三河守に遷任された際に氏真は治部大輔に任官されたとあるが、永禄4年1月20日の足利義輝御内書では氏真が「上総介」と呼ばれている。また『寛政重修諸家譜』で「従四位下刑部大輔」とされるが、四位五位の叙位記録簿たる歴名土代にはこのような記載はない。
  5. ^ 両国の守護は祖父氏親以来今川氏が世襲しているが、氏真の守護職補任を確認できる史料は残されていない。
  6. ^ 初見文書は永禄元年閏6月24日付の遠江国河匂庄老間村の寺庵中宛安堵状。
  7. ^ 有光(2008年)273~275ページ。
  8. ^ 『校訂松平記』による。この合戦については永禄7年(1564年)に起こったものとするもの(『三河物語』など)もあり、細部も異なる話も伝えられている。
  9. ^ 平野明夫「今川氏真と室町将軍」『戦国史研究』40(2000年8月)。
  10. ^ 大宮司富士家文書
  11. ^ 若林淳之「今川氏真の苦悶―今川政権の終焉―」『静岡大学教育学部研究報告』6(1955年)。若林は、氏真が国人的土豪層を基盤とする従来の守護大名的秩序の行き詰まりを受け、直接年貢負担者(本百姓)を基盤とする戦国大名的秩序への脱皮を図ったが、再編の混乱の中で侵攻を受け成果を見なかったと評価している。
  12. ^ 若林淳之「今川氏真の苦悶」
  13. ^ a b c 『史料綜覧』。
  14. ^ 『校訂松平記』
  15. ^ 久保田昌希「懸川開城後の今川氏真と後北条氏」『駒沢史学』39・40合併号(1988年9月)、酒入陽子「懸川開城後の今川氏真について」『戦国史研究』39(2000年2月)。
  16. ^ 『校訂松平記』によると、信玄が氏真の殺害を図って小田原に人を送ったためという。『北条五代記』にも同様の記事があり、氏真が「中々に世をも人をも恨むまじ 時にあはぬを身の科にして」という一首を詠んだと記されている。
  17. ^ a b 『今川氏真詠草』
  18. ^ 信長公記』。氏真は16日の会見以前に「千鳥の香炉」「宗祇香炉」を献上しており、この日の会見で、信長は宗祇香炉のみを氏真に返却している。『今川氏真詠草』にはこの会見に関する感慨は記されていない。
  19. ^ 『今川氏真詠草』。おそらく家康に従ったものと思われる。『続武家閑談』『紀伊国物語』にも氏真が家康に同道していたことが記されている。
  20. ^ 『校訂松平記』
  21. ^ 『景憲家伝』、『明良洪範』
  22. ^ 井上宗雄「今川氏とその学芸」、『今川氏と観泉寺』p.671
  23. ^ 志士清談』によると、氏真は秀吉の頃に400石の捨扶持を与えられ、京都四条で世捨て人のような暮らしをしていたという。
  24. ^ 『寛政重修諸家譜』、『略譜』(大日本史料所収)
  25. ^ 今川家の衰微を見かねた若王子が分けたもの(『甲子夜話続編』)、建武年間に今川範国が領主だった由来のもの(『観泉寺と今川氏』p.125が引く『神社明細帳』所収の長島神社由緒)、室町時代に今川家が在京費用のために領有していたもの(『観泉寺と今川氏』p.11が引く野洲郡西運寺所蔵「御位牌之縁起」)など諸説ある。
  26. ^ 駿府記』慶長17年4月14日条
  27. ^ a b 米原正義「今川氏の文芸」、同著『戦国武士と文芸の研究』(桜楓社、1976年)所収。
  28. ^ 有光友學「今川義元-氏真の代替りについて」『戦国史研究』3(1982年)、「今川義元の生涯」『静岡県史研究』9(1993年)。
  29. ^ 「今川氏真の家督継承について」『戦国史研究』23(1992年)。
  30. ^ a b 井上宗雄「今川氏とその学芸」、『今川氏と観泉寺』
  31. ^ 「今川殿鞠を遊ばさるゝの由聞食及ばれ、三月廿日、相国寺において御所望」。
  32. ^ 綿谷雪・山田忠史編『武芸流派大事典』(新人物往来社、1969年)。
  33. ^ 小林明「紙本著色今川氏真・同夫人像について」『静岡県史研究』9(1993年)
  34. ^ 長谷川弘道「今川氏真没落期の家族について」『戦国史研究』27(1994年2月)