「佐奈田義忠」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
7行目: 7行目:
父の岡崎義実は[[三浦義明]]の弟で[[相模国]][[大住郡]]岡崎([[神奈川県]][[平塚市]]岡崎)に住した。[[中村氏 (相模国)|中村氏]]と血縁を持ち、その一族で頼朝の重臣となる[[土肥実平]]と関係が深い。嫡男の義忠は岡崎の西方の真田(佐奈田)の地(平塚市真田)を領した。
父の岡崎義実は[[三浦義明]]の弟で[[相模国]][[大住郡]]岡崎([[神奈川県]][[平塚市]]岡崎)に住した。[[中村氏 (相模国)|中村氏]]と血縁を持ち、その一族で頼朝の重臣となる[[土肥実平]]と関係が深い。嫡男の義忠は岡崎の西方の真田(佐奈田)の地(平塚市真田)を領した。


治承4年(1180年)8月、父岡崎義実とともに頼朝の挙兵に参じ、[[山木兼隆]]館襲撃に加わる。
治承4年(1180年)[[8 (旧暦)|8月]]8、父岡崎義実とともに頼朝の挙兵に参じ、[[山木兼隆]]館襲撃に加わる。


8月23日、頼朝の軍勢300余騎は[[大庭景親]]率いる[[平家]]方3000余騎と相模国石橋山で対陣した。
[[8月23日 (旧暦)|8月23日]]、頼朝の軍勢300余騎は[[大庭景親]]率いる[[平家]]方3000余騎と相模国[[石橋山]]で対陣した。


佐奈田義忠(与一)の奮戦は『[[平家物語]]』や『源平盛衰記』に詳しい。父義実の推挙により、頼朝は武勇優れる与一に「大庭景親と[[俣野景久]](景親の弟)の二人と組んで源氏の高名を立てよ」と先陣を命じた。
佐奈田義忠(与一)の奮戦は『[[平家物語]]』や『[[源平盛衰記]]』に詳しい。父義実の推挙により、頼朝は武勇優れる与一に「大庭景親と[[俣野景久]](景親の弟)の二人と組んで源氏の高名を立てよ」と先陣を命じた。


与一は討ち死にを覚悟し、57歳になる老いた[[郎党]]の[[文三家安]]に母と妻子の後事を頼もうとするが、家安は与一が2歳の頃から親代わりにお育てしたのだから最後までお伴をして討ち死にすると言い張り、与一もこれを許した。
与一は討ち死にを覚悟し、57歳になる老いた[[郎党]]の[[文三家安]]に母と妻子の後事を頼もうとするが、家安は与一が2歳の頃から親代わりにお育てしたのだから最後までお伴をして討ち死にすると言い張り、与一もこれを許した。
25行目: 25行目:
石橋山の戦いは頼朝の大敗に終わり、頼朝は山中を敗走し、[[安房国]]へ逃れている。
石橋山の戦いは頼朝の大敗に終わり、頼朝は山中を敗走し、[[安房国]]へ逃れている。


頼朝が[[治承・寿永の乱]]で勝利し、[[武家政権]]をほぼ確立させた[[建久]]元年([[1190年]])正月20日、頼朝は[[三島大社|三島]]、[[箱根権現|箱根]]、[[伊豆山神社|伊豆山]]参詣の帰りに、石橋山の与一と文三の墓に立ち寄り、哀傷を思い出し涙を流したという。
頼朝が[[治承・寿永の乱]]で勝利し、[[武家政権]]をほぼ確立させた[[建久]]元年([[1190年]])[[1月20日 (旧暦)|正月20日]]、頼朝は[[三島大社|三島]]、[[箱根権現|箱根]]、[[伊豆山神社|伊豆山]]参詣の帰りに、石橋山の与一と文三の墓に立ち寄り、哀傷を思い出し涙を流したという。


与一の戦死した地には[[佐奈田霊社]](神奈川県[[小田原市]])が建てられている。与一が組み合っていたとき、[[痰]]がからんで声が出ず助けが呼べなかったという言い伝えがあり、この神社は喉の痛みや[[喘息]]に霊験があるという。
与一の戦死した地には[[佐奈田霊社]](神奈川県[[小田原市]])が建てられている。与一が組み合っていたとき、[[痰]]がからんで声が出ず助けが呼べなかったという言い伝えがあり、この神社は喉の痛みや[[喘息]]に霊験があるという。
39行目: 39行目:
{{DEFAULTSORT:さなたよしたた}}
{{DEFAULTSORT:さなたよしたた}}
[[Category:平安時代の武士]]
[[Category:平安時代の武士]]
[[Category:三浦氏|よしたた]]
[[Category:岡崎氏|岡崎氏]]
[[Category:1155年生]]
[[Category:1155年生]]
[[Category:1180年没]]
[[Category:1180年没]]

2009年11月7日 (土) 23:21時点における版

歌川国芳作、佐奈田与一義忠と俣野五郎景久

佐奈田 義忠(さなだ よしただ 久寿2年(1155年) - 治承4年8月23日1180年9月14日))は平安時代末期の武士岡崎義実の嫡男。通称は与一、余一。諱は義貞とも(『源平盛衰記』)。名字は真田とも(『吾妻鏡』)。

源頼朝の挙兵に参じ、石橋山の戦いで奮戦し討ち死にした。

生涯

父の岡崎義実は三浦義明の弟で相模国大住郡岡崎(神奈川県平塚市岡崎)に住した。中村氏と血縁を持ち、その一族で頼朝の重臣となる土肥実平と関係が深い。嫡男の義忠は岡崎の西方の真田(佐奈田)の地(平塚市真田)を領した。

治承4年(1180年)8月8、父岡崎義実とともに頼朝の挙兵に参じ、山木兼隆館襲撃に加わる。

8月23日、頼朝の軍勢300余騎は大庭景親率いる平家方3000余騎と相模国石橋山で対陣した。

佐奈田義忠(与一)の奮戦は『平家物語』や『源平盛衰記』に詳しい。父義実の推挙により、頼朝は武勇優れる与一に「大庭景親と俣野景久(景親の弟)の二人と組んで源氏の高名を立てよ」と先陣を命じた。

与一は討ち死にを覚悟し、57歳になる老いた郎党文三家安に母と妻子の後事を頼もうとするが、家安は与一が2歳の頃から親代わりにお育てしたのだから最後までお伴をして討ち死にすると言い張り、与一もこれを許した。

頼朝は与一の装束が華美で目立ちすぎるだろうから着替えるよう助言するが、与一は「弓矢を取る身の晴れの場です。戦場に過ぎたることはありますまい」と言うと白葦毛の名馬にまたがり、15騎を率いて進み出て名乗りを上げる。大庭勢はよき敵であると見て大庭景親、俣野景久、長尾新五新六ら73騎が襲いかかった。

この合戦は夜間に行われ、その上に大雨で敵味方の所在も分からず乱戦となった。与一は郎党の文三家安に自分は大庭景親か俣野景久と組まんと思っているから、組んだならば直ちに助けよと命じた。すると、敵一騎が組みかかってきた、与一はこれを組み伏せて首をかき切るが、景親や景久ではなく岡部弥次郎だった。義忠は残念に思い、首を谷に捨ててしまった。

闇夜の乱戦の中、敵を探していると目当ての俣野景久と行き会った。両者は馬上組みうち、地面に落ちてころげ、泥まみれの格闘の末に与一が景久を組み伏せた。暗闇のためにどちらが上か下か分からず、家安も景久の郎党も手が出せない。敵わじと思った景久は叫び声を上げ、長尾新五が駆け付けるがどちらが上下か分らない。長尾新五は「上が敵ぞ?下が敵ぞ?」と問うと、与一は咄嗟に「上が景久、下が与一」と言う。驚いた景久は「上ぞ与一、下ぞ景久、間違えるな」と言う。とまどった長尾新五は手探りで鎧の毛を触り、上が与一と見当をつけた。これまでと思った与一は長尾新五を蹴り飛ばし、短刀を抜いて景久の首をかこうとするが刺さらない。不覚にも鞘ごと抜き放ってしまった。鞘を抜こうとするが先ほどの岡部の首を切った時の血糊で鞘が抜けない。そうこうしているうちに長尾新五の弟の新六が背後から組みかかり、与一の首を掻き切ってしまった。享年25。

主人を失った文三家安は奮戦して稲毛重成の手勢に討たれた。

石橋山の戦いは頼朝の大敗に終わり、頼朝は山中を敗走し、安房国へ逃れている。

頼朝が治承・寿永の乱で勝利し、武家政権をほぼ確立させた建久元年(1190年正月20日、頼朝は三島箱根伊豆山参詣の帰りに、石橋山の与一と文三の墓に立ち寄り、哀傷を思い出し涙を流したという。

与一の戦死した地には佐奈田霊社(神奈川県小田原市)が建てられている。与一が組み合っていたとき、がからんで声が出ず助けが呼べなかったという言い伝えがあり、この神社は喉の痛みや喘息に霊験があるという。

江戸時代に入ると佐奈田与一は美男の人気者になり、多くの錦絵が描かれている。

関連項目

外部リンク