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2009年11月4日 (水) 05:00時点における版

畠山 政国(はたけやま まさくに、? - 天文19年(1550年)?)は戦国時代武将紀伊河内守護大名戦国大名本姓源氏家系清和源氏の一家系 河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の子 源義国を祖とする足利氏庶流 畠山氏。畠山尾州家の出身。畠山尚順の子で、畠山稙長長経の弟。晴熈の兄。畠山高政政尚昭高の父。三郎。上総介、修理大夫、播磨守、尾張守。後昌院、花園宗貞。高屋城主。

畠山氏は室町幕府三管領のひとつであり、政国はその嫡流筋である。しかし、幕政においては曾祖父畠山政長細川政元に自害に追い込まれてより参画の機会を失い、また、畠山氏は嫡流の座をめぐって総州家と尾州家に分裂。尾州家有利といえども分裂状態は政国の代になってもなお解消されず、下剋上さえも起きる戦国時代にあって、守護の実権をめぐって重臣の権力争いに悩まされていた。

兄の稙長が畠山総州家の家臣木沢長政によって追放され、続いてもう一人の兄である長経が暗殺されると、長政により当主として擁立され、総州家の畠山在氏と協調して統治にあたった。しかし政国は在氏と同様傀儡であり、実権は長政や遊佐長教が握っていた。

1542年、木沢長政が太平寺の戦いで戦死すると後ろ盾を失い、重臣によって河内から追放され紀伊国で出家した。1545年に当主として復帰した稙長が没すると、長教が推す弟の畠山晴熈が当主となり、政国はその後見にあたった。晴熈の引退後は政国の嫡男である畠山高政が当主となっている。

1550年(天文19年)に没したといわれているが、1552年(天文21年)の段階で隠居として健在であった記録が存在する。そのため、現在では天文年間末期頃の死没とする見方もある。

先代
畠山稙長
河内畠山氏 (尾州家)
畠山政国
次代
畠山晴熈