「米沢藩」の版間の差分

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== 藩職 ==
== 藩職 ==
【藩主直属】
【藩主直属】
*[[奉行]](他藩の[[家老|国家老]]に相当)
*[[奉行]](他藩の[[家老|国家老]]に相当、二~三人


*江戸家老
*江戸家老(二~三人)


*侍頭
*侍頭(五人)


*役屋将
*役屋将
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*小姓頭
*小姓頭


米沢藩の重職は、奉行(二~三人)、江戸家老(三人)、侍頭(五人)からなる。奉行職は上杉定勝の代に新設された。これらの重職には藩内の上士階級である侍組の中でも特に家柄の高い家である分領家のみが就ことができる。分領家は全部で十四家あるが、信濃衆と[[揚北衆]]出身の家が多い。しかし、奉行職については[[寛政]]10年([[1798年]])に馬廻組出身の[[莅戸善政]]が奉行に登用され、慣行が破られることになる。[[宝暦]]元年([[1751年]])に中老職が新設された。中老職は一時期廃止されていたが[[寛政]]3年([[1791年]])に復活する。
米沢藩の上層部は、奉行(二~三人)、江戸家老(二~三人)、侍頭(五人)の計十人からなる。奉行職は上杉定勝の代に新設された。これら上層部の重職には藩内の上士階級である侍組の中でも特に家柄の高い家である分領家のみが就任することができる。分領家は全部で十四家あるが、信濃衆と[[揚北衆]]出身の家が多い。しかし、奉行職については[[寛政]]10年([[1798年]])に馬廻組出身の[[莅戸善政]]が奉行に登用され、慣行が破られることになる。[[宝暦]]元年([[1751年]])に中老職が新設された。中老職は一時期廃止されていたが[[寛政]]3年([[1791年]])に復活する。


小姓頭は当初、侍組しか就任できなかったが、与板組出身で侍組に昇格した森利貞(平右衛門)の登用で慣行が破られる。役屋将は、藩境の5箇所の要地に置かれた[[陣屋]]の[[城代]]を上杉綱憲が改称したものである。
小姓頭は当初、侍組しか就任できなかったが、与板組出身で侍組に昇格した森利貞(平右衛門)の登用で慣行が破られる。役屋将は、藩境の5箇所の要地に置かれた[[陣屋]]の[[城代]]を上杉綱憲が改称したものである。
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*大目付
*大目付


*仲之間年寄
*仲之間年寄(三人)


*勘定頭
*勘定頭
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*役所役
*役所役


*町奉行
*町奉行(二人)


*[[郡奉行]]
*[[郡奉行]](二人)


なお、仲之間年寄は三人、町奉行は二人、郡奉行は二人であった。郡奉行は一時期廃止される。また[[寛政]]3年([[1791年]])年の改革で郡奉行は六人年寄の兼務とし、勘定頭は桜田屋敷将と桜田納戸頭を兼務することになった。仲之間年寄は六老とも言われる。なお、江戸中期以降の武鑑では仲之間年寄と大目付は「[[用人]]」として表記されている。
なお、仲之間年寄は三人、町奉行は二人、郡奉行は二人であった。郡奉行は一時期廃止される。また[[寛政]]3年([[1791年]])年の改革で郡奉行は六人年寄の兼務とし、勘定頭は桜田屋敷将と桜田納戸頭を兼務することになった。仲之間年寄は六老とも言われる。なお、江戸中期以降の武鑑では仲之間年寄と大目付は「[[用人]]」として表記されている。

2009年10月11日 (日) 12:48時点における版

戦国時代から江戸時代初期にかけての上杉氏系図。米沢藩の初代藩主・上杉景勝から第3代藩主・上杉綱勝まで。

米沢藩(よねざわはん)は、羽前国(旧出羽国置賜郡にあって現在の山形県東南部(置賜地方)を治めた。藩庁は米沢城米沢市)。藩主は上杉氏。家格は外様国主石高は30万石、のち15万石から18万石。

歴史

米沢は戦国時代である1548年から1589年1590年から1591年の間に伊達氏の本拠地であったが、豊臣秀吉によって伊達政宗陸奥岩出山に転封された後、会津に入った蒲生氏、ついで上杉氏の支配下に入った。上杉景勝は家老・直江兼続に30万石(一説には甘粕氏の刈田郡白石城を含め32万石)を与えて米沢に入れ、伊達氏及び山形最上氏に対する抑えとした。

しかし上杉氏は関ヶ原の戦いに先立って徳川家康に敵対したため、1601年慶長6年)、景勝は120万石(陸奥国会津白河郡田村郡安達郡信夫郡伊達郡出羽国田川郡飽海郡置賜郡越後国東蒲原郡佐渡国)から30万石に減封され、居城も米沢に移した。兼続は米沢城を景勝に譲り、米沢藩が成立する。藩領は、上杉氏の旧会津領120万石のうち、出羽国置賜郡(置賜地方)18万石と陸奥国伊達郡(現伊達市伊達郡福島市)および信夫郡(現福島県福島市)12万石からなっており、米沢からは峠を隔てた陸奥側の抑えとして福島城に重臣・本庄氏を城代として置いた。

1664年寛文4年)に3代綱勝が嗣子を定めないまま急死する。本来なら改易となるところ、綱勝の舅である会津藩主保科正之の尽力によって、綱勝の妹と高家吉良義央の間に生まれた綱憲末期養子に認められ、半減の置賜郡内15万石での存続が認められた。

相次ぐ減封にも拘らず、家臣の数は120万石当時とほぼ変わらなかったため、当然のごとく財政難に苦しめられて民衆も困窮した。これに心を痛めた8代藩主重定は幕府へ領地を返上しようと真剣に考えるほどであったが、9代藩主治憲(鷹山)の藩政改革で財政の再建を果たした。また、置賜郡内の旧領のうち3万石(斉憲の代に上杉領となる)、越後国内に1万石の天領幕府から預かっている。

戊辰戦争では、会津藩の討伐をはかる新政府軍に対し、保科正之への恩義もあることから仲介に務めるが、果たせずに奥羽越列藩同盟に加わり、仙台藩とともにその中核を担うこととなった。仙台藩が奥州街道・常磐方面を担当したのに対し、米沢藩は故地でもある越後を担当したが、最終的には新政府軍に敗北を重ね、羽越国境の大里峠まで迫られたところで降伏した。その後、新政府軍の命により庄内藩討伐のために兵を出し、会津藩に対しても降伏を説得した。

米沢藩は戦後の処分で14万7,000石に減封。翌1869年明治2年)に蔵米支給の支藩米沢新田藩を併合した。米沢藩は宮島誠一郎の指導のもと、版籍奉還などの新政府の改革を積極的に支持していく事で「朝敵」としての汚名返上に務めた。1871年(明治4年)廃藩置県によって米沢県となり、置賜県を経て山形県に編入された。

藩主家は1884年(明治17年)、伯爵となり華族に列せられた。

藩政

貢租は蒲生氏時代以来、半石半永制をとる。これは貢租納入の半分を貨幣で納入するもので幕末まで踏襲された。また貢租の貨幣にあてる分は一定の米や紅花青苧、真綿といった特産物の買い上げ代金を廻すという方法がとられた。このため、早くから藩の買上制が実施された。

米沢藩は120万石からの大減封を受け、しかも佐渡金山を失って大幅な収入減を受けたが、越後時代から付き従ってきた家臣の召し放ちを極力行わず、6000人と言われる家臣団を維持し、針小棒大な表現ではあるが、上杉家は、120万石規模の家臣団を維持したと云われている。そのために、江戸時代初期から厳しい財政難に苦しめられた。

米沢城は、伊達氏時代からの三階櫓を中心とした平城であったが殆ど拡張を行わず、下級武士は手狭な城下町の外に住まわせて、半農半士の生活を送らせた。このような下級武士のことを原方衆という。

それでも初期の米沢藩は直江兼続の執政によって新田開発に努め、表高30万石に対して内高51万石と言われるまでに開発を進めたが、1664年(寛文4年)の15万石への半減で藩財政は再び大きな打撃を受けた。これ以降の実高は30万石程度(幕末の18万石への加増時には35万石前後)であるが、依然として家臣団は減らさなかったので、財政はますます厳しくなった。因みに、明治初年の史料を持って比較すると、加賀102万石の前田家の場合は、内高が120万石で、士族7077戸、男12414名、卒族戸数9474戸、男14029人、であった。一方の米沢藩14万7千石(列藩同盟処分の削封後)の上杉家の場合は、内高が30万石で、士族3425戸、男7565名 卒族戸数3308戸、男11980人であった。この比較から、米沢藩の厳しさは一目瞭然である。

深刻な財政難にも拘らず、綱憲は実父・吉良義央夫妻の浪費による負債を立て替え、麻布藩邸などの新築、参勤交代などでの奢侈を行ない、藩貯金を一般会計に流用するまでにいたる。

7代藩主宗房の代では領内農村の荒廃がすさまじく、年貢未納も嵩んでいたため、1738年元文3年)には当年分完納を条件にそれ以前7ヶ月の未納分の延納を許可する有様であった。重定の代になると、派手好きで奢侈に走ったことに加え、寛永寺普請手伝いによる5万7千両超の工事費や1755年宝暦5年)の凶作損毛高7万5千8百石超の被害も重なって借財が莫大な額に上ったので、竹俣当綱(美作)の進言に従って1764年明和元年)に幕府に15万石の返上を願い出ようとして、舅の尾張藩藩主徳川宗勝に諭される始末であった。

1767年(明和4年)、17歳で重定の後を継いだ養子の治憲(鷹山)は竹俣当綱と莅戸善政らを登用して藩政改革に乗り出した。倹約令発布、農村統制の強化、織物の専売制実施等の財政再建と、や漆の植樹、縮織技術の導入や黒井忠寄による灌漑事業などの殖産興業政策を行って藩財政を立て直した。また、先述のとおり特産品の青苧、紅花、蝋等も藩財政を助けた。また、儒学者細井平洲を招いて藩校の興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)を設け、藩士の教育にあたった。一方で、1773年安永2年)7月には家老須田満主や奉行の色部照長千坂高敦らによる竹俣一派排除訴訟(七家騒動)も起こる。

米沢藩では藩主上杉家の実質上の祖である上杉謙信が藩祖として祀られ、その遺骸を納めた甕は遠く越後春日山新潟県上越市)から米沢に運ばれて米沢城本丸内に安置されていた。上杉謙信崇拝に基づいた藩風は越後以来の家臣の召し放ちが少なかったこともあって独特の誇り高い気風を生んだが、その一方で体面を重んじ、頑固で保守的な面があって、そのことが鷹山の藩政改革の障害となったという見方もある。しかし、鷹山隠居後も藩政改革に取り組む名君が続いたため、治憲・治広の代には借財を返済して5千両の囲い金(備蓄)を有するに至る。

最期の藩主茂憲は、戊辰戦後に3万両を新政府に献上して三条実美らによる改易論を封じ込め、また、奥羽越列藩同盟参加の責任を戦死した家老色部久長に転嫁することによって藩存続の危機を乗り切った。廃藩置県の際は、旧藩士らに囲金や備金などから10万両余を分与するなど、沖縄県令としての治績に対する評価も高い。

米沢藩のPLまたはSI(フロー/歳入の部)
=米納高+金納額/年
米沢藩のBS(ストック/資本の部)
=資産-負債
30万石時代…5万石+1万両(綱勝相続時)
15万石時代…3万石+3万両(治憲相続時)
14万7千石時代(列藩同盟処分の削封後)…6万石+15万両
綱勝相続時…13万両
治憲相続時…マイナス10万両余
治広相続時…5千両
斉憲相続時…5万両
  • 絹・綿(疋)は米(石、斗)、銀(貫、匁)・銭(文)は金(両、分)に換算(江戸中期には、一両=60匁。1貫文=1000文。ただし、米価は時代により相場変動あり、上記金額は概算)
  • (参考文献:「御家建て直し」「上杉鷹山の失敗(成功の誤記ではない)に学ぶ」「日本史地図」「武田一族」「米沢藩」「羽前俗謡抄」ほか)

藩法

天正9年(1581年)から弘化4年(1847年)までの歴代藩主の法令を編纂した法令集に『御代々御式目』(全41冊)がある。また、諸役職の沿革については『紹襲録』、勤務規定については『御役成勤式』がある。町奉行の職務手鑑的なものに正徳4年(1714年)の『当官紀事』がある。

米沢藩は刑法典を制定することなく、判例に準拠して処罰を行った。主要な判例集には『御呵附引合』、『中典類聚』、『御裁許鈔』などがあり、それらを繋ぐと江戸時代全期の刑事判決が明らかとなる。それらに記録される刑種は約60種ほどで、中には闇打、郷替、出奉公、定価屋渡など、他藩ではあまり見られないものも含まれる。

歴代藩主

  • 上杉(うえすぎ)家

外様・国主・大広間 30万石→15万石→18万石→14万7千石

  1. 景勝(かげかつ)〔従三位・中納言、弾正少弼のち越後守〕長尾政景の次男。母方の叔父である上杉謙信の養子となる
  2. 定勝(さだかつ)〔従四位下・左近衛少将〕
  3. 綱勝(つなかつ)〔従四位下・播磨守、侍従〕
  4. 綱憲(つなのり)〔従四位下・弾正大弼、侍従〕吉良義央の長男(定勝の孫)。綱勝の末期養子 15万石に減知
  5. 吉憲(よしのり)〔従四位下・民部大輔、侍従〕
  6. 宗憲(むねのり)〔従四位下・弾正大弼、侍従〕
  7. 宗房(むねふさ)〔従四位下・民部大輔、侍従〕同母弟
  8. 重定(しげさだ)〔従四位下・大炊頭、侍従〕同母弟
  9. 治憲<鷹山>(はるのり)〔従四位下・弾正大弼のち越前守、侍従〕秋月種美の次男(綱憲の曾孫)
  10. 治広(はるひろ)〔従四位下・弾正大弼、少将〕重定の次男
  11. 斉定(なりさだ)〔従四位下・弾正大弼、少将〕上杉勝煕長男(重定の孫)
  12. 斉憲(なりのり)〔従四位上・弾正大弼、中将〕 18万石に加増
  13. 茂憲(もちのり)〔正二位・式部大輔、侍従〕 14万7千石に減知 伯爵

支藩

米沢新田藩

米沢新田藩(よねざわしんでんはん)は米沢藩の支藩。外様。柳間詰。享保4年(1719年)に5代藩主吉憲が弟の勝周に領内の新田分1万石を分与して成立した。藩主は2代目の勝承以降、男子がなく本藩の藩主から養子を迎えている。代々駿河守を称し、駿府城加番役を務めた。

特定の領地や城地を持たず、また支配機構や財政、家臣団は全て宗藩の米沢藩に依存した藩内分家であった。米沢城内二の丸に藩庁を置き居所としていた。武鑑では江戸藩邸は麻布の飯倉片町に上屋敷があったとしているが、これは宗藩の中屋敷の一部を与えられたものである。

明治維新後、本藩の所領削減もあって存続が難しくなり、明治2年(1869年)に本藩に併合された。

歴代藩主

  • 上杉(うえすぎ)家

外様 1万石 (1719年 - 1869年)

  1. 勝周(かつちか)〔従五位下、駿河守〕綱憲の四男
  2. 勝承(かつよし)〔従五位下、駿河守〕
  3. 勝定(かつさだ)〔従五位下、駿河守〕重定の三男
  4. 勝義(かつよし)〔従五位下、佐渡守〕上杉勝煕の四男(重定の孫)
  5. 勝道(かつみち)〔従五位下、駿河守〕斉定の四男

藩邸及び江戸での菩提寺

江戸藩邸文政年間当時、外桜田御堀通り(現在の法務省敷地内)に上屋敷、麻布に中屋敷、芝白金に下屋敷があった。また京都藩邸は境丁通り二条下る丁にあった。

麻布藩邸は上杉綱憲により新築された。京都藩邸は一時、森利真(平右衛門)が売却したが竹俣当綱(美作)が買い戻している。また、1788年天明8年)の京都の火事で一時焼失。

江戸における菩提寺は浅草新鳥越にあった真言宗寺院、金知山宝蔵院で、米沢新田藩も同様であった。

藩職

【藩主直属】

  • 江戸家老(二~三人)
  • 侍頭(五人)
  • 役屋将
  • 儒者
  • 小姓頭

米沢藩の上層部は、奉行(二~三人)、江戸家老(二~三人)、侍頭(五人)の計十人からなる。奉行職は上杉定勝の代に新設された。これら上層部の重職には藩内の上士階級である侍組の中でも特に家柄の高い家である分領家のみが就任することができる。分領家は全部で十四家あるが、信濃衆と揚北衆出身の家が多い。しかし、奉行職については寛政10年(1798年)に馬廻組出身の莅戸善政が奉行に登用され、慣行が破られることになる。宝暦元年(1751年)に中老職が新設された。中老職は一時期廃止されていたが寛政3年(1791年)に復活する。

小姓頭は当初、侍組しか就任できなかったが、与板組出身で侍組に昇格した森利貞(平右衛門)の登用で慣行が破られる。役屋将は、藩境の5箇所の要地に置かれた陣屋城代を上杉綱憲が改称したものである。

【奉行配下】

  • 大目付
  • 仲之間年寄(三人)
  • 勘定頭
  • 役所役
  • 町奉行(二人)

なお、仲之間年寄は三人、町奉行は二人、郡奉行は二人であった。郡奉行は一時期廃止される。また寛政3年(1791年)年の改革で郡奉行は六人年寄の兼務とし、勘定頭は桜田屋敷将と桜田納戸頭を兼務することになった。仲之間年寄は六老とも言われる。なお、江戸中期以降の武鑑では仲之間年寄と大目付は「用人」として表記されている。

【大目付配下】

  • 御使番(八人、寛政3年に五人)

【勘定頭配下】

  • 次勘定

【郡奉行配下】

代官は上杉定勝の時に新設されたが、当初は世襲制であった。安永元年(1772年)に代官世襲制が廃止される。

【小姓頭配下】

  • 側役
  • 近習

家格

※石高は15万石時代のもの

【上士】

侍組分領家

千坂景親=高信(満願寺仙右衛門)-高治(高信次男)-高房-尚親-安親-興親=高敦(広居清応長男)-清高-高容=興高(高容弟)-高明(興高次男)-高雅智次郎(高雅次男)

色部光長(色部長真嫡男、色部勝長の孫)=利長(安田俊広次男)=清長(武田勝信次男)=安長(長尾景光次男)-隆長-政長-照長=至長(政長五男)-致長=篤長(香坂好昌次男)-久長-康長

本庄繁長充長(繁長次男)=重長(繁長六男)-政長-英長-義長=職長(平林恒広次男)-祇長=精長(職長三男)-為長-寛長-昌長-勝長=孝長(昌長三男)

中条三盛(中条景泰嫡男、中条藤資の曾孫)-盛直-知資=清資(島津通忠次男)-親資-備資-総資=至資(竹俣秀周三男)=達資(色部至長次男)-明資(達資孫)-宮吉

竹俣利綱(竹俣慶綱養子)=房綱(市川房綱次男)-吉忠=義澄(竹俣義秀長男)-充綱-本綱(不家督)-当綱-厚綱=良綱(竹俣秀賢次男)-紀綱-久綱

  • 竹俣西氏(藩内600石)竹俣氏分家、初め保科氏を称する。

竹俣義秀(竹俣房綱次男)-斉秀-森秀=英秀(鮎川近長長男)-寿秀-周秀-忠秀=保秀(周秀弟)=陳秀(本間秀豊次男)-有秀=順助(斎藤篤信次男)

安田能元(安田顕元の弟)=俊広(那波顕宗次男)-清元-通広-宦元-貞広-毛利雅元(貞広四男)=隆元(芋川正令弟)-方元-興元-業広

長尾景広=景泰(中条三盛次男)-景光-景貞-景将=景風(岩井組織次男)-景好=景明(景好弟)=景保(芋川正令四男)-景敏-景直-景孝-国丸

清野長範-秀範-重範=範佑(長尾景貞次男)-秀佑-祐将(不家督)-邦秀-秀将-秀貞-秀雅-秀趨(秀雅次男)=秀彪(秀趨弟)

須田長義(須田満親次男)-秀満-義当-義宣-義成=知義-満主-満清-満照=満親(計見伝右衛門次男)-義比-義遥=義道(本間高純次男)

芋川正親=元親(芋川守親長男)-綱親(正親嫡男)-高親-正親-正処-英親-正令延親-親生-親和=尊親(竹俣秀興の弟)-愛親=憑親(下条親喜三男)-宗親

平林正恒-正興(正恒次男)-正信-正包-恒広-正相-正村-正在-正賀-正亮-正名-正国

島津忠直-義忠=利忠(岩井信能の子)=通忠(中条盛直次男)-友忠-房忠=行忠(房忠弟)-昌忠-知忠-親忠-玖忠-教忠-容蔵

市川房綱-房忠(房綱三男)-房則-房行-英房-兼雄-盛房-英房-房郷-房隆-房煕-慎一郎


侍組平侍

志駄義秀-義繁(義秀次男)-義知-義尭-義尉-義貴=義和(岩井央親三男)-和義=義勝(斎藤庸信の弟)=義立(色部篤長次男)-竜雄

春日元忠-続元-元重-方元-元直-元著(元直次男)-好元-元聴-元長-元龍-元定

岩井信能-相高(信能三男)=元則(相高の甥)-信門-元農-信政-信全-相信-信喜(相信次男)-信興-信賢

大石綱元-兼扶-兼徳-兼高-兼般=兼豊(長尾景貞三男)-尚綱-綱豊=徳綱(森長延次男)=維綱(清野秀貞次男)-紀綱

樋口兼豊(直江兼続の父)-秀兼(兼豊三男)-長兼(秀兼次男)-兼久-兼置-兼信-兼喜-兼当-兼通-兼隆=兼利(平林正賀三男)-兼春

大国実頼(直江兼続の弟)=光頼(樋口秀兼長男)=頼高(蓼沼恒高長男)-頼屋-頼継=頼端(竹俣充綱三男)-頼泰-頼昆-頼及-頼隣-頼重

(藩内250石)甘粕景持-重政-忍重-重親-栄重-景豊-景元(景豊次男)-景武-景通-景弘-景任-春吉-正彦

(藩内200石)甘糟景継-吉継=安継(甘粕長継次男)=正継(長継三男)-継信=忠公(栗林政盛三男)-継慶=継武(芋川正令の弟)=継光(仁科盛大次男)-継寛-継善-継成

斎藤景信(斎藤朝信嫡男)-信成-安信-真信=清信(本庄政長次男)-滋信-尊信-朝安=英信(須田知義次男)-寿信-庸信-篤信

柿崎憲家(柿崎景家の子)-正家-家永=家重(家永弟)-家親(不家督)-家豊-家孝-家斉-家審-家範-家成-家教

安田堅親(河田元親三男、安田長秀養子)=家親(福島秀重三男)-信親-秀積-秀精-秀村=栄秀(岩井安親四男)-秀俊-秀政-秀疑

水原親憲=憲胤(下条正親次男)=杉原忠親(正親三男)=次親(平林正興次男)=方親(下条繁親次男)=全親(平林正包次男)-親宣=芳親(仁科盛寿三男)=皆親(夏井範風弟)-親好=美親(莅戸政以次男)-親賢-親徳

  • 下条氏(藩内250石:勧進代新地)

下条忠親-正親-守親=繁親(宇留賀忠右衛門長男)-豊親-秀親-富親-親貞=親全(親貞弟)-親明=親喜(島津知忠次男)-親義-親英

鮎川信重(本庄長房長男、鮎川盛長養子)=高長(千坂高治次男)-房長-近長-尚長-亮長-朗長=光長(中条至資次男)-輔長=寿長(輔長弟)

黒川為実(黒川清実の孫)-義周=義実(為実次男)=義忠(春日元忠三男)=義元(本村利盛次男)-義治-義直-義知-義肥-義陳-義真-義住=義質(清野秀貞の弟)-義府=義挙(義府弟)-義道

新保盛喜(新発田重家の弟)-長之(盛喜次男)-重之-定之-正之-村綱-利綱-一綱=光綱(松木秀尋次男)=綱領(色部篤長叔父)=朝綱(篤長三男)

吉江長忠(吉江景資三男、吉江宗信の孫)-長次=長延(安田清元四男)-長逸-長軌-輔長=長直(栗林政純弟)-長重-長民-長発

上泉泰綱上泉信綱の孫)-秀綱=秀富(志駄義秀三男)-秀風-秀就-秀賢(秀就次男)-秀一=秀栄(清野秀秋次男)=秀厚(大国頼端次男)=秀時(毛利隆元次男)=秀寿(毛利方元弟)=秀雅(市川房郷次男)-秀俊

  • 広居氏(藩内500→850石)後に侍組分領家。

広居忠家-忠佳=忠清(広居忠房長男)-忠良-佳康-清応-忠起-忠通=忠良(毛利方元次男)=忠益(松木秀実次男)-忠善=徳丸(本庄昌長次男)

上松義次-(略)


高家衆

武田信清(武田信玄六男)-勝信=信秀(本庄重長次男)-信安(信秀次男)-信全-信久-信福-信順-信明-信篤-信一

畠山景広(上条政繁長男)-政利-政束=政永(二本松国隆長男)-茂知-茂寛=茂輔(色部政長次男)-忠茂-茂卿-義方

山本寺勝長(山本寺景長の子、山本寺定長の孫)=勝政(長尾景光三男)-勝興-勝安-勝紀-勝称-勝久-勝茂-勝強

山浦景国光則(上杉定勝の従弟)-(略)=康長(色部久長嫡男、一時的措置)


【中士】

三手組

馬廻組》 上杉謙信の直臣で構成、組名は上杉謙信馬前に由来

  • 莅戸氏(藩内150→550石)後に侍組分領家。

莅戸秀政-政吉-政長-政共-英政(不家督)-善政政以-政在-政養-政寛

《五十騎組》 上田長尾衆で構成、組名は上杉景勝の直参五十騎に由来

  • 黒井氏

黒井繁之-忠寄

  • 山吉氏(分家)

山吉盛侍

《与板組》 直江兼続の直臣・与板衆で構成

  • 森氏(後に侍組、改易)

森直義=利真(森平太夫の次男)


三扶持方

《猪苗代組》 侍組から漏れた越後の国人衆及び信濃衆で構成、組名は会津移封後に猪苗代で知行地を与えられたことに由来

《組外》 関ヶ原の戦いの際に集められた浪人で構成

《組付》 侍組・三手組の分家で構成


【下士】

三扶持方並

訴文組

足軽

  • 神保氏(後に五十騎組)

神保忠昭神保綱忠

上杉家一門

藩士
幕臣
高家

参考文献

  • 大石学『近世藩制・藩校大事典』吉川弘文館
  • 横山昭男『上杉鷹山』吉川弘文館
  • 小野榮『米沢藩』現代書館、2006年
  • 『上杉家御年譜 第23・24巻』米沢温故会

関連項目

外部リンク