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この原則は、西ドイツが「[[ドイツ]]地域で唯一民主的に選出され、ドイツ人民を代表する正統性を持つ国家である」と位置づけ、「[[ソビエト連邦]]以外で[[ドイツ民主共和国]](東ドイツ)を[[国家の承認|国家承認]]した[[国家]]とは、[[国交]]を断絶する」とし、[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]を経済的に孤立させること目的としていた。 |
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2009年9月26日 (土) 15:02時点における版
ハルシュタイン原則(ハルシュタインげんそく)は、東方外交が始まる前の、西ドイツにおける主要な外交方針である。ハルシュタイン・ドクトリンともいい、1955年9月22日に、西ドイツのアデナウアー首相により表明された。名称は、当時の西ドイツの政治家であるヴァルター・ハルシュタイン(欧州経済共同体(EEC)初代委員長もつとめた)の名前に因む。
内容
この原則は、西ドイツが「ドイツ地域で唯一民主的に選出され、ドイツ人民を代表する正統性を持つ国家である」と位置づけ、「ソビエト連邦以外でドイツ民主共和国(東ドイツ)を国家承認した国家とは、国交を断絶する」とし、東ドイツを経済的に孤立させること目的としていた。 1957年、東ドイツと国交を結んだユーゴスラビアに対して最初にこの原則が適用され、ユーゴスラビアと西ドイツは断交状態へ突入した。
しかしながら、1960年代に入り、東ドイツが第三世界の新しく独立した国々の多くと国交を結んだことや、デタントの潮流が強まったため、この原則に固執することが西ドイツ外交にとって不利益をもたらすことが多くなった。
1969年5月30日、ハイネマン大統領の声明によりハルシュタイン原則は事実上破棄され、同年西ドイツはルーマニアと国交を樹立した。この年に首相に就任したヴィリー・ブラントは、同年10月28日に二つのドイツの存在を認める発言を行い、ハルシュタイン原則を完全に否定した。