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== 参考資料 == |
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2009年9月23日 (水) 08:24時点における版
東京ヤクルトスワローズ #5 | |
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基本情報 | |
国籍 | カナダ |
出身地 | ブリティッシュコロンビア州バンクーバー |
生年月日 | 1972年10月5日(51歳) |
身長 体重 |
5' 10" =約177.8 cm 200 lb =約90.7 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1992年 21巡目 |
初出場 |
MLB / 2002年6月22日 NPB / 2007年3月30日 |
年俸 | 4,400万円(2009年) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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国際大会 | |
代表チーム | カナダ |
WBC | 2006年 |
この表について
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アーロン・ガイエル(Aaron Colin Guiel , 1972年10月5日 - )は、東京ヤクルトスワローズに所属するプロ野球選手(外野手)。カナダ・ブリティッシュコロンビア州出身。
来歴
MLB時代
ブリティッシュコロンビア州バンクーバーに生まれる。10歳の時に祖父からゴルフクラブやホッケースティックと共にキャッチャーミットをプレゼントされ、野球を始める。同時にアイスホッケーもプレーしており、ホッケーのスティックの持ち方が野球の左打ちに近かったため、左打者になった。ウッドランズ高校時代は学校に野球チームがなかったため、地域のクラブチームに所属。高校卒業時までは捕手であった。卒業後は不動産メンテナンスの職に付くが、1年後カナダの選抜チームに選ばれ、そこでの実力が評価されクワントレン大学に奨学金で進学、同時に外野手に転向する[1]。1992年、カリフォルニア・エンゼルスからドラフト21巡目(全体580位)で指名され契約。身体能力の高さ、野球選手としての伸びしろを評価されての指名であった[1]。その後1997年にサンディエゴ・パドレスへトレードされ、2000年にFA選手としてオークランド・アスレチックスと契約。2000年3月に解雇され、4月1日にメキシカンリーグのオアハカ・ウォーリアーズに入団。メキシコ時代には「カナダに帰ることも考えた」というが、我慢してプレーを続け[1]、同年6月13日にカンザスシティ・ロイヤルズに移籍。ロイヤルズ傘下の3Aタコマ所属時は抜け目のないプレースタイルで人気者だったという[2]。
2002年6月22日、29歳で念願のメジャーデビュー。翌2003年は99試合に出場し、自己最高の打率.277、15本塁打、52打点を記録。2004年8月12日のシカゴ・ホワイトソックス戦で、当時ホワイトソックスに在籍した2007年ヤクルトで同僚となる高津臣吾と1度だけ対戦している。結果は空振り三振であった[3]。2005年頃までメジャーとマイナーを往復する日々が続いたが、ジョージ・アリアス(元阪神タイガース)から日本球界についての話を聞き、イチローの活躍を目にしたことで、日本球界への興味が湧いていったという。2006年のワールド・ベースボール・クラシックにはカナダ代表として出場。1次リーグ3試合で9打数2安打6三振という成績だった[4]。7月5日にロイヤルズからニューヨーク・ヤンキースに移籍。松井秀喜がケガで戦列を離脱した後の外野を守ったが、シーズン終了後解雇された。ヤンキース所属時に、松井秀喜のひたむきな練習姿勢に感銘を受け、日本球界への熱意が湧いたと語っている[1]。
NPB時代
1月に東京ヤクルトスワローズと契約、入団した。開幕当初は一ヶ月で2割そこそこの打率にわずか2本塁打と、期待外れの低調なスタートだった。バットをほとんど振らず四死球が非常に多く、低打率とかけ離れた高出塁率が話題になり、4月の終わりには1番を任された時期もあった。しかし5月には3割近い打率と8本塁打を打ち、5月後半からシーズン最後まで、過去数年間4番を打っていたアレックス・ラミレスを3番にし、4番を任された[5]。8月1日の対阪神タイガース13回戦の5回表には、1イニング2死球のプロ野球最多タイ記録をマーク。衣笠祥雄が1976年8月31日の中日戦で記録して以来、31年ぶり2度目の記録となる[6]。最終的にシーズン最多記録にあと1個と迫る23死球であった。9月以降に11本塁打を放つ活躍を見せた(ただし打点は15と少なかった)。本塁打王争いでは村田修一を1本差で追いかけ、シーズン最後の2試合はその村田のいる横浜戦であった。ガイエルは最終戦で2四球と勝負を避けられてしまい、本塁打王まであと1本の35本塁打でシーズンを終了した[7]。また、10月7日の広島戦・古田敦也選手兼任監督の引退試合では平凡なショートフライを打った際にボールが風に煽られ遊撃手の梵英心が深追いし左翼手の井生崇光が激突し落球。ボールはそのままフェンス前まで転がり、その間にガイエルはホームインし34号ランニングホームランとなる。記録は「左ゴ本」。また、来日してからそれほど足の速さを伺えるようなプレーを一切していなかった為、このランニングホームランの際に野球中継では凄まじいスピードでダイヤモンドを駆け抜けるガイエルの姿が映し出されファンの度肝を抜いた。打率は結局シーズン通して.250前後と低いままだったが、四死球が非常に多く、リーグ32位の打率ながら出塁率はリーグ4位だった。また、来日1年目でヤクルト以外の11球団からホームランを打った[8]。20本塁打以上で翌年も契約延長になる条項で契約しており、2008年も残留する事となった。
前年の好結果に加え、日本野球に慣れたことから更なる活躍が期待され、開幕直後はクリーンナップを任された。開幕から順調にホームランを積み重ね、打率も一時は3割台を残していたが、4月25日の中日ドラゴンズ戦での小田幸平との本塁クロスプレーの際に右肘を痛める。その後も試合にこそ出続けたものの、ホームランも激減し打率2割前後という前年以上の低打率にまで落ち込み、6月には登録抹消されてしまう。長打力を重視した前任の古田敦也監督と異なり、この年から就任した高田繁は機動力野球を好み、福地寿樹、飯原誉士、川島慶三といった俊足好守の外野手を重用。彼らが結果を残したことにより、ガイエルの出番はさらに失われた。シーズン終盤になってようやく一軍に復帰するも成績は上がらず、79試合で打率.200、11本塁打という期待を大きく裏切ったシーズンになった。シーズン終了待たずに帰国し、右肘の骨片(ネズミ)を取り除くクリーニング手術を行った。
10月5日付の日刊ゲンダイに「ヤクルトというチームが大好きだから、チームが必要としてくれるならばこのチームで頑張りたい」とコメントしており、ヤクルト球団にも「このチームで優勝したいんだ」という直筆の手紙を送って残留を希望していた。その経緯等から、一部のファンからも残留を望む声が多数あがった。一時は来期の契約を結ばない方針であるという旨の報道もなされたが、後に契約保留リスト入り。球団側は今期の状態や成績を総合的に考えた上で今後も経過を観察し、年内にも結論を出すとしていた。12月18日、手術した右肘の回復状況やチームプレー精神などが評価され、再びヤクルトと1年契約を結んだことが発表された。
春季キャンプから調整も順調に進み、オープン戦20試合で打率.420、本塁打5本という好成績を残した。シーズン開幕から主に5番ライトで出場していたが、対左投手打率が一時1割台前半と低迷した事もあり、相手先発投手が左投げの試合ではスタメンを飯原誉士に譲る事も多かった。しかし、5月頃から打撃が上向きになってきた事や、それまで4番であったジェイミー・デントナの不振などから、一時は畠山和洋と日替わりで4番に据わることもあった。6月14日のオリックス戦で、自身初の満塁ホームラン、6月18日のロッテ戦でも自身初のサヨナラホームランを放つなど、貴重な大砲としてチームを牽引している。
人物
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
- 弟のジェフ・ガイエルはかつてマイナーリーグでプレーした外野手で、アテネオリンピックの野球カナダ代表にも選ばれている[9]。
- しかしこの際、日本メディアは名前を「ガイエル」ではなく「グイエル」と表記していた。
- メジャーでも話題になるほど真面目な練習好きであった。ヤンキースへ移籍した際、松井秀喜の練習を参考にしようと自ら会いに行ったほどであった[10]。
- 応援歌本編歌詞に、出身国であるカナダの国歌を原曲とした前奏がつけられた。ベネズエラ国歌を原曲とするラミレスと同じく、前奏に歌詞がついている。
- 死球を受けることが非常に多い選手であるが、ガイエルは当てられた時に他選手に見られる怒りを表す仕草や挑発する様子もなく、無表情で淡々と一塁に向かう。これは本人の「死球も野球の一部である」「死球の出塁もヒットと同じ」「投手は打者を抑えようとし、投げ損なって死球になるだけだから(当てられたからといって)怒ってはいけない」という独特の紳士的な野球観によるものである。[11]。
- チーム内では「A.G.(エー・ジー)」と呼ばれている[12]。つば九郎のブログでも「え~じ~」と書かれている。
- ロールプレイングゲームの「ラングリッサー」シリーズのキャラクター「魔将軍ガイエル」と同じ名前であり、ガイエルという名前の語感がいかにも悪役風の名前(似た名前の悪役キャラには「イナズマンF」のガイゼル総統などがいる)であったため、シーズン前からネット上では「魔将」というあだ名で呼ばれていた。2008年5月10日付の東京スポーツ紙上において、この件に関するインタビュー記事が掲載された。”一部のファンの間でMagical Generalという呼び名が広まっている”と通訳が伝えると「(いい意味であるならば)ニックネームで親しんでもらえるのはうれしい」と答えている。なお記者は「(打率が低いのに)OPSが高いから」とevilな意味での真の由来は本人には伏せて、やや歪曲して伝えているようである。
- 四死球の多い「待ち」の打撃スタイルから、対戦型格闘ゲーム『ストリートファイター』シリーズにおける待機戦法「待ちガイル」にひっかけて「待ちガイエル」と書かれる事もあった。2007年のシーズン直前に伊集院光がラジオ番組で新外国人選手のあだ名を募集したところ、機動戦士ガンダムの端役に「ガイエル少佐」というキャラがいるため「少佐」とあだ名つけられた事もある。このように何故か野球以外が由来となったネタが多く付随している。
- 2008年以降、本塁打を打ちホームに戻ってきた後、カメラに向かってエド・はるみのギャグ「グ~」をパフォーマンスとして行っている。これは前年に退団した元チームメイトのアレックス・ラミレスを意識してのもので、当時の同僚であるアダム・リグスも猫ひろしのギャグ「にゃー!」を行っていた。さらに2009年からは、ヒーローインタビューで北島康介の「チョーキモチイイ!」という決め台詞をパフォーマンスとして行っている。
- 2007年5月27日に放送されたJ-SPOの企画、「メジャーを超えろ 日本握力バトル」にラミレスと共に登場。当初はラミレスの付き添いという事で、ラミレスが握力を計る際に左手を握ってあげるなど微笑ましい一面を見せたが、ラミレスが暫定トップの75.2kgを記録した直後にガイエルも握力計測に挑戦。そして78.5kgを記録し、ラミレスの記録をまたたくまに塗り替えてしまった。
- 非常に人柄が良い人物であるが、2007年オフに退団し東京読売ジャイアンツに移籍したセス・グライシンガーに対しては「ブー!!グライシンガーは投げる前に、腐った鳥を食べさせて病気にしてしまえばいいのさ。」と冗談交じりにではあるがバッシングしている。
空間歪曲説
ガイエルは2007年シーズンに入団してから低打率と掛け離れた高出塁率や四死球の多さ、守備の名手達がガイエルの打った平凡なフライを落球してしまうことなど話題となる。そして2007年5月21日付の東京スポーツ紙には「ガイエルは(超能力で)空間を歪めている」という内容の記事が掲載され、さらに「センター定位置から動いていないはずなのに、気が付くとライトを守るガイエルの方向に吸い寄せられていた」という青木宣親の証言をはじめ、「ガイエルが半透明に見えたことがあった」などチームメイトによる証言もあり、この事からネット上を中心に「ガイエルは空間を歪めて四死球やエラーを誘発しているのではないか?」という噂が囁かれるようになる。
当初はネット上でのみ囁かれていた噂であったが、この他にも様々なメディアでこの説の特集が組まれた為、この噂はファンを中心に広まっていくことになる。2008年にガイエル本人がこの事に関して取材を受けた際、2007年の四死球の多さに関しては「来日一年目の年だから日本の野球を学ぶ為に投手を忍耐強く観察していた」と話し、空間歪曲説に関しては「偶然だよ」と笑いながら語っていた。
空間歪曲説に関するエピソード
この節の加筆が望まれています。 |
- 2007年4月12日の横浜戦、ファーストゴロを打った際にボールと折れたバットがファーストを同時に襲いタイムリーエラー。
- 2007年4月29日の巨人戦、ボールをインパクトした際にバットが根元から折れながらもホームランを放つ(相手投手は久保裕也)。[13]
- 2007年5月11日の阪神戦、平凡なセカンドフライをアンディ・シーツが目測を誤り落球。
- 2007年5月20日の広島戦、ホームランを打ったにもかかわらず球場内が静まりかえる。
- 2007年10月7日の広島戦、平凡なショートフライが風に煽られ梵英心が深追いし井生崇光と激突し落球。その間にホームインしランニングホームランとなる。
- 2008年5月15日の中日戦、平凡なサードフライを中村紀洋が目測を誤り落球。
- 2009年6月4日の楽天戦、FC東京とのコラボレーションイベントとして、FC東京の平山相太が始球式を行い、ガイエルが打席に入ったが、平山の投げた球がワンバウンドしてガイエルの上半身に命中してしまった。これを「死球式」と見出しを付けるスポーツ紙もあった。
- 2009年7月28日の広島戦、平凡なセカンドフライを東出輝裕が目測を誤り落球。
- 2009年8月28日の中日戦、平凡なサードフライを森野将彦がグラブに当てながらも落球。なお、当日は国立競技場で嵐のコンサートが開かれており、ガイエルの当該打席中には花火が打ちあがっており、花火の音と場内のどよめきの中でのプレーであった。
プレイスタイル
バットスピードが速くコンパクトなアッパー気味のスイングのため、引っ張り時の長打力に優れる。選球眼は良く、ボール球にほとんど手を出さずに四死球を量産、甘く入ったボールをスタンドに叩き込むスタイルであるため打率・打点の割に出塁率・本塁打数が異常に多い。(若干トーマス・オマリーのバッティングフォームに似ている。)また、外角の球を追う悪い癖がある。足もそれなりに速く、強肩であるが送球モーションが大きく捕ってから投げるまでが遅い。さらに何でもない平凡なフライを落球してしまうこともあり、守備に関しては若干不安な面も残る。しかし、練習量に裏打ちされた送球の正確さはチームでもトップクラス。そのため多くの補殺を記録をしており、ライトを守ることが多い。 また、元同僚のアダム・リグスは「選球眼はよく、守備も素晴らしい。5つの長所(スピード、ヒッティング、パワー、肩、守備)を持っている」と評していた[14]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2002 | KC | 70 | 269 | 240 | 30 | 56 | 13 | 0 | 4 | 81 | 38 | 1 | 5 | 2 | 4 | 19 | 1 | 4 | 61 | 3 | .233 | .296 | .338 | .634 |
2003 | 99 | 401 | 354 | 63 | 98 | 30 | 0 | 15 | 173 | 52 | 3 | 5 | 2 | 5 | 27 | 0 | 13 | 63 | 3 | .277 | .346 | .489 | .835 | |
2004 | 42 | 157 | 135 | 15 | 21 | 4 | 0 | 5 | 40 | 13 | 1 | 1 | 1 | 1 | 17 | 0 | 3 | 42 | 3 | .156 | .263 | .296 | .559 | |
2005 | 33 | 121 | 109 | 18 | 32 | 5 | 0 | 4 | 49 | 7 | 1 | 0 | 0 | 1 | 6 | 1 | 5 | 21 | 3 | .294 | .355 | .450 | .805 | |
2006 | 19 | 59 | 50 | 9 | 11 | 3 | 0 | 3 | 23 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | 2 | 11 | 1 | .220 | .339 | .460 | .799 | |
NYY | 44 | 92 | 82 | 16 | 21 | 3 | 0 | 4 | 36 | 11 | 2 | 1 | 0 | 0 | 7 | 0 | 3 | 20 | 2 | .256 | .337 | .439 | .776 | |
'06計 | 63 | 151 | 132 | 25 | 32 | 6 | 0 | 7 | 59 | 18 | 2 | 1 | 0 | 0 | 14 | 0 | 5 | 31 | 3 | .242 | .338 | .447 | .785 | |
2007 | ヤクルト | 142 | 611 | 497 | 78 | 122 | 18 | 0 | 35 | 245 | 79 | 2 | 1 | 0 | 3 | 88 | 4 | 23 | 147 | 3 | .245 | .381 | .493 | .874 |
2008 | 79 | 265 | 225 | 27 | 45 | 11 | 0 | 11 | 89 | 35 | 2 | 1 | 0 | 4 | 25 | 0 | 11 | 56 | 6 | .200 | .306 | .396 | .702 | |
MLB:5年 | 307 | 1099 | 970 | 151 | 239 | 58 | 0 | 35 | 402 | 128 | 8 | 12 | 5 | 11 | 83 | 2 | 30 | 218 | 15 | .246 | .322 | .414 | .736 | |
NPB:2年 | 181 | 876 | 722 | 105 | 167 | 29 | 0 | 46 | 334 | 114 | 4 | 2 | 0 | 7 | 113 | 4 | 34 | 203 | 9 | .231 | .358 | .463 | .821 |
- 2008年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
NPB記録
- 初出場・初先発出場:2007年3月30日、対中日ドラゴンズ1回戦(ナゴヤドーム)、5番・右翼手として先発出場
- 初安打:同上、8回表に川上憲伸から右前安打
- 初打点:2007年4月10日、対横浜ベイスターズ1回戦(横浜スタジアム)、1回表に寺原隼人から左前適時二塁打
- 初本塁打:2007年4月22日、対中日ドラゴンズ6回戦(明治神宮野球場)、4回裏に中田賢一から右越ソロ
- 初盗塁:2007年8月25日、対横浜ベイスターズ14回戦(明治神宮野球場)、8回裏に二盗(投手:加藤武治、捕手:鶴岡一成)
背番号
- 45 (2002年 - 2006年途中)
- 46 (2006年途中 - 2006年シーズン終了)
- 5 (2007年 - )
参考資料
- ^ a b c d 週刊ベースボール,4月27日号(ベースボールマガジン社刊)
- ^ カンサスシティ・スター紙
- ^ “August 12, 2004 Kansas City Royals at Chicago White Sox Play by Play and Box Score” (英語). Baseball-Reference.com. 2008年3月31日閲覧。
- ^ “World Baseball Classic: Statistics” (英語). MLB Advanced Media. 2008年3月31日閲覧。
- ^ スポーツ報知によれば、この打順変更はラミレスの進言によるものである。
- ^ スポニチ 2007年8月2日付
- ^ 村田はその事を「辛い。相手の立場であったら」と気にするコメントを残している[1]
- ^ 日本野球機構オフィシャルサイト(公式戦結果)[2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12]
- ^ “Jeff Guiel - BR Bullpen” (英語). Baseball-Reference.com. 2008年3月31日閲覧。
- ^ サンケイスポーツ 2007年1月30日号
- ^ “ガイエル(2007年8月3日 )”. Ballplayers.jp (2007年8月13日). 2008年3月31日閲覧。
- ^ “5 アーロン ガイエル”. 東京ヤクルトスワローズ公式サイト. 2008年3月31日閲覧。
- ^ 過去に松中信彦が同じような記録を残しているが、当時はラピッドボール全盛期であった。
- ^ 東京ヤクルトスワローズ公式サイト
外部リンク
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- NPB成績
- “魔将”ガイエルの超能力?ヤクルトの大砲が見せる職人芸。[13]