「パット・シモンズ」の版間の差分

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'''パット・シモンズ'''('''Patrick "Pat" Bruce Reith Symonds''', [[1953年]][[6月11日]] - )は、[[フォーミュラ1|F1]]の[[ルノーF1|ルノー]]チームのエグゼクティブエンジニアリングディレクターである。
'''パット・シモンズ'''('''Patrick "Pat" Bruce Reith Symonds''', [[1953年]][[6月11日]] - )は、[[フォーミュラ1|F1]]の[[ルノーF1|ルノー]]チームのエグゼクティブエンジニアリングディレクターである。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
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私事としては、この間、2002年に[[オックスフォード・ブルックス大学]]から博士号を授与されている。
私事としては、この間、2002年に[[オックスフォード・ブルックス大学]]から博士号を授与されている。


1996年以降、チーム代表はたびたび変わり、2002年にはチームがベネトンからルノーに変わるなど、この時期に同チームでは小さくない数々の変化が生じたが、シモンズはトールマンのF1参入から今日に到るまで、一時レイナードに所属していた例を除けば、一貫して同チームに留まり続けてい
1996年以降、チーム代表はたびたび変わり、2002年にはチームがベネトンからルノーに変わるなど、この時期に同チームでは小さくない数々の変化が生じたが、シモンズはトールマンのF1参入から今日に到るまで、一時レイナードに所属していた例を除けば、一貫して同チームに留まり続けてい

しかし2009年、[[2008年シンガポールグランプリ]]でのクラッシュゲート事件の公聴会の直前、チーム代表の[[フラビオ・ブリアトーレ]]と共に、ルノーF1チームを離脱した。


== 評価 ==
== 評価 ==

2009年9月16日 (水) 18:31時点における版

パット・シモンズPatrick "Pat" Bruce Reith Symonds, 1953年6月11日 - )は、F1ルノーチームの元エグゼクティブエンジニアリングディレクターである。

経歴

イングランド出身。

初期の経歴

フォード社の見習いとして自動車業界でのキャリアを始め、後にクランフィールド工科大学で自動車工学を学び、1976年に修士号を取得し卒業。

卒業と同時にホークレーシングに加入し、チーフデザイナーとしてフォーミュラ・フォードの設計に携わり、2年後の1978年にはやはりチーフデザイナーとしてロイヤルに移籍。ここでロリー・バーンと知己を得た。

当初、バーンとともにロイヤル社でフォーミュラ・フォードの設計に関わったが、1979年にバーンがF2カー設計のため、トールマンチームから誘われると、バーンが引き上げる形で、シモンズもトールマンでの職を得た。

トールマン時代(1980年-1985年)

1980年のヨーロッパF2選手権において、トールマンとハートの組み合わせは戦闘力を発揮し、ドライバーのブライアン・ヘントンデレック・ワーウィックは計4戦で1-2フィニッシュを達成し、ヘントンはチャンピオンを獲得した。シモンズは、この年は研究開発部門のスタッフとして関与した。

この活躍を引っさげ、1981年にトールマンはF1にステップアップし、シモンズは、その年ステファン・ヨハンソンを擁していたトールマンのF2での開発を継続するとともに、F1でも研究開発、この年はとりわけ空力部門で関与し、風洞プログラムなどを手がけた。

翌1982年以降は、フルタイムでF1に関わるようになり、1982年にテオ・ファビとワーウィック、翌1983年にはブルーノ・ジャコメリ、1984年にはその年デビューの新人アイルトン・セナのレースエンジニアとして任にあたった。

ベネトン&ルノー時代(1986年-)

ミハエル・シューマッハ加入以前

1985年には、チームは、イタリアの衣料品メーカーベネトンに買収されたことにより、ベネトンとなったが、シモンズは引き続き残留した。

1991年にジョン・バーナードをテクニカルディレクターに迎えることをチームが決めると、シモンズはチームを離脱し、バーンとともにエイドリアン・レイナードと契約し、エンジニアリングディレクターとしてレイナードのF1参戦計画に携わった。

このレイナードによる参戦計画は結果として失敗に終わり、また、時期を同じくして、バーナードがフラビオ・ブリアトーレによって更迭されたこともあって、シモンズはバーンとともにベネトンに復帰した。

ミハエル・シューマッハとの共闘

ベネトンに復帰したシモンズは、研究開発部門に戻りチーフとして統括するとともに、ミハエル・シューマッハのレースエンジニアも務め、1994年と1995年のシューマッハのドライバーズタイトル獲得に貢献した。翌1996年にシューマッハはフェラーリへと移籍していき、その後を追う形で、長年を共にしてきたロリー・バーンがベネトンを去っていったが、シモンズはその後もベネトンに残り、バーン同様にチームを去ったロス・ブラウンの跡を受けて、1996年11月にテクニカルディレクターに就任した。

ミハエル・シューマッハ離脱後

2001年に、新たにチームに加入したマイク・ガスコインにテクニカルディレクターの座を譲って以後、自らはエンジニアリングディレクターとなり、2002年以降はエグゼクティブエンジニアリングディレクターの称号を帯びるようになった。

私事としては、この間、2002年にオックスフォード・ブルックス大学から博士号を授与されている。

1996年以降、チーム代表はたびたび変わり、2002年にはチームがベネトンからルノーに変わるなど、この時期に同チームでは小さくない数々の変化が生じたが、シモンズはトールマンのF1参入から今日に到るまで、一時レイナードに所属していた例を除けば、一貫して同チームに留まり続けていた。

しかし2009年、2008年シンガポールグランプリでのクラッシュゲート事件の公聴会の直前、チーム代表のフラビオ・ブリアトーレと共に、ルノーF1チームを離脱した。

評価

ロス・ブラウンの影に隠れがちだが、シモンズもミハエル・シューマッハのベネトン在籍時からレース戦略の立案に関わっており、レース戦略の分野で一定の評価がある人物の一人である。実際、ブラウンらの離脱後も、ベネトン、ルノーはしばしばその優れた作戦によって他チームに対して優位に立っている。ミハエル・シューマッハはフェラーリ在籍時にロリー・バーンロス・ブラウンとともにシモンズの獲得をフェラーリに要請していた。