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2009年8月5日 (水) 12:43時点における版

ロス・ブラウン

ロス・ブラウン(英語読みでロス・ブローン、Ross Brawn、1954年11月23日 - )は、ブラウンGP・フォーミュラ1チームのチーム代表である。イギリスマンチェスター出身。

F1テクニカルディレクターとして所属したベネトンで1回、フェラーリで6回のコンストラクターズタイトルをもたらした。また、ミハエル・シューマッハワールドチャンピオン7回獲得にも貢献した。

現在は、2009年に初参戦を果たしたブラウンGPのオーナーであり、同年の開幕戦から数々の新記録を更新した。

経歴

F1前

1970年代初頭はイギリスのオックスフォードシャー近郊の英原子力エネルギー研究所に勤務後、1976年には他社でミルオペレーターに従事後、レース界に入りF3チームのメカニックとなった。

1978年フランク・ウイリアムズに請われ、新生F1チームのウィリアムズのメカニックとなる。ちょうどウィリアムズの戦闘力が徐々に上昇カーブを描き始めたころで、また同チームのテクニカルディレクターパトリック・ヘッドにさまざまなことを学ぶことになる。

1985年にはカール・ハースローラのシャシーでF1に参戦したチーム・ハースに移籍し、ブラウンはチーフ・デザイナーのニール・オートレイのもとで働いた。当時まだ珍しいメス型モノコックを採用するなど意欲作だったTHL1の製作に携わったが、成績の不調によりこのチームはわずか2年で破綻し、1987年アロウズに移籍[1]。ブラウンが設計し、メガトロンエンジン(実質前年と同様のBMW)を載せたA10・A10Bは、1988年のコンストラクターズランキングで4位を得る成績を残し、ターボが禁止された1989年のA11では空力を意識したアグレッシブな設計と安定した走りを両立させた。フットワークのスポンサードが始まる1990年シーズンを前に、ブラウンはアロウズを離脱した。

同年、SWCに参戦していたトム・ウォーキンショー率いるTWR(トム・ウォーキンショー・レーシング)に移籍したブラウンは、エンジンレギュレーションが大幅に変更された1991年のSWCに参戦するジャガー・XJR-14のデザインを手がけた[2]。F1での経験が設計に遺憾なく発揮されたシャーシと、この年F1でベネトンに供給されたのと同じフォード・コスワース・HBエンジンというパッケージは強力で、レギュレーション対応に追われるメルセデスなど大ワークスチームを尻目に、TWRとジャガーは同年のSWCシリーズチャンピオンを獲得した。

ベネトンに加入し、F1へ

1990年からデザイナー兼テクニカル・ディレクターとしてベネトンチームの改革を目指したジョン・バーナードが、新設計のB191の熟成を待つ間もなく、1991年シーズン前半のカナダGP後に内紛によって同チームを離脱した。シーズン後半に入って間もなく、同チームと関係の深かったトム・ウォーキンショーがエンジニアリング・ディレクターとして参画すると同時に、ブラウンもベネトンチームに加入した。同じ頃、後の名コンビとなるロリー・バーンレイナードのプロジェクトから同チームへ復帰し、またブラウンはこの年、ジョーダンでF1デビュー後わずか2戦目でベネトンが獲得し、ミハエル・シューマッハとブラウンのコンビネーションがここからスタートした。1992年ベルギーGPでの天候の変化に対応したピット作戦により、ナイジェル・マンセルウイリアムズをかわし、シューマッハがF1初勝利をあげ、同シーズンもコンストラクターズタイトルで2位となった。1993年はウィリアムズの独走に及ばなかったが、B193は戦闘力を増し、表彰台に上がる回数も増えた。第14戦ポルトガルGPでは、アラン・プロストが2位に入ればワールドチャンピオンになることから深追いされなかったものの、シーズン初勝利を収めた。

1994年レギュレーション変更により再給油が11年ぶりに解禁された。これがベネトン飛躍のきっかけとなる。B194の戦闘力とSWC時代に培ったブラウンの戦略が面目躍如と、シューマッハの経験[3]により、ベネトンは勝利を重ね始めた。1994年、1995年にシューマッハは2年連続でワールドチャンピオンとなり、1995年にはベネトン初のコンストラクターズタイトル獲得を成し遂げた。

1996年は、シューマッハがフェラーリに移籍し、入れ替えでゲルハルト・ベルガージャン・アレジが加入したが、1勝もあげることができず、コンストラクターズランキングは2位に入ったものの、ウィリアムズの独走状態となった。

スクーデリア・フェラーリ時代

1996年シーズン終了後、ジャン・トッドミハエル・シューマッハからの要請でフェラーリに移籍する。その際ブラウンは1996年シーズン限りでF1引退を宣言していたロリー・バーンを慰留し、バーンもフェラーリに引き入れた。この体制で翌年から毎シーズンタイトル争いをするチームとなり、要所要所でブラウンの緻密なピット作戦が勝利を導き、マシンの戦闘力もシーズン毎に上がる相乗効果も出ていた。

1997年ウィリアムズ1998年1999年にはマクラーレンとチャンピオンシップ争いをしたが、1999年に16年ぶりにコンストラクターズチャンピオンに返り咲いた。なお、同年第8戦イギリスGPでミハエル・シューマッハが事故により欠場後、同シーズンのF399の風洞開発を止め、マシンの熟成をそれ以上行なわないで、代わりにF1-2000の開発に注力する決断をして、それが功を奏し[4]2000年は、3年連続でマクラーレンとチャンピオンシップ争いを繰り広げ、最終的にミハエル・シューマッハが21年ぶりにドライバーズチャンピオンとなり、コンストラクターズタイトルも2年連続で得て、ダブルタイトルを独占した。

その後のフェラーリは2004年シーズンまで両タイトルを獲得し続け、ブラウンは、トッド、シューマッハとともにフェラーリ黄金時代を築いた。しかし、2005年はチャンピオンシップ争いに絡めず、2006年ルノーとタイトル争いをしたが、最終戦までもつれ込んだもののルノーに奪われた。

ブラウンは2006年シーズン終了後、1年間の長期休暇に入った。同年はミハエル・シューマッハが引退したシーズンでもあった。ブラウンがF1に復帰する時はフェラーリとの交渉が優先とされていた。休暇明けに新たなモチベーションを掻き立てるポジション(チーム代表と云われている)を望んだブラウンとフェラーリとの交渉は成立しなかった。

ホンダ時代

ブラウンは2007年11月13日にホンダのチームプリンシパル兼チーム代表となることが発表された。それまでニック・フライが受け持っていたマーケティング・財務を除く全権が委譲された。初采配を振るった2008年は、このシーズンに多かったレインレース時のタイヤ選択に光るものがあったが、翌2009年に大幅なレギュレーション変更があることを見越して、2009年用のマシン開発に専念していたこともあり、2007年同様マシンバランスの悪さに翻弄され続けるかたちでチームの成績は低迷した。

ブラウンGP時代

ブラウンによるチーム改革が進む最中の2008年12月、ホンダが突然F1からの撤退を発表した。ブラウンは株式買取りによりチームを取得し、2009年3月6日にブラウンGP・フォーミュラ1チームの設立を発表、自らオーナーとしてF1に参戦した。 デビュー戦のオーストラリアGPでは、ホンダから引き続き残留したジェンソン・バトンルーベンス・バリチェロが予選全セッションを圧倒、決勝ではバトンがポールトゥーウィンを達成、バリチェロとワン・ツーフィニッシュとなった。新規参入チームのデビュー戦ポールポジションは1970年ティレル、開幕戦優勝は1977年ウルフ、デビュー戦ワン・ツーフィニッシュは1954年メルセデスワークスチーム以来の偉業となった。また次戦マレーシアGPもバトンがポールから勝利し、史上初の新規チーム開幕連勝を果たした。

人物

  • 常に冷静でチームを勝利に導く戦略家のブラウンだが、「勝利を確信した時にピットウォール(プラットフォームとも)でバナナを食べる」という、F1関係者の間ではよく知られた癖がある。フェラーリのリードでレースが残り10周前後になると、彼はジャン・トッドらが座っているチームのピットウォールで必ずバナナを口にした[5]。後のブラウンGPにおいても、この癖は続いている[要出典]エラー: タグの中に無用な文字が含まれていないか、{{要出典範囲}}と{{要出典}}を間違えていないかを確認してください。貼り付け年月は「date=yyyy年m月」、チップテキストに表示する文字列は「title=文字列」と指定してください。

脚注

  1. ^ アロウズ時代はブラウンがF1マシンのデザイン、主任設計をした数少ない時期である。
  2. ^ TWRで在籍した時期はわずかだったものの、後にベネトンやフェラーリのお家芸と言われた巧妙なピット作戦、的確な給油戦略はこのスポーツカー時代に培った。
  3. ^ シューマッハもブラウン同様スポーツカー選手権の経験者だった。
  4. ^ Sports Graphic Number』 688号、文藝春秋2007年、45頁。
  5. ^ この光景はしばしばフジテレビ(地上波)の中継映像でも登場した。

外部リンク