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1930年以降はヨーロッパに戻り、ドイツとイギリスにおいて数本の映画にしか出演していない。1939年、[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]が台頭してきたドイツを去り、アメリカに戻った。[[ビリー・ワイルダー]]は『[[サンセット大通り (映画)|サンセット大通り]]』の主演を彼女に持ちかけたが、結局彼女のライバルであった[[グロリア・スワンソン]]がその役を得た。 |
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1951年にはアメリカの市民権を得ている。1964年の『クレタの風車』が最後の作品。1987年に[[テキサス州]]の[[サンアントニオ]]でその生涯を閉じた。 |
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== 主な出演作品 == |
== 主な出演作品 == |
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*染まぬ花 ''The Yellow Ticket'' (1918) |
*染まぬ花 ''The Yellow Ticket'' (1918) |
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*パッション ''Madame Du Barry'' (1919) |
*パッション ''Madame Du Barry'' (1919) |
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*新椿姫 ''Arme Violetta'' (1920) |
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*寵姫ズムルン ''One Arabian Night'' (1920) |
*寵姫ズムルン ''One Arabian Night'' (1920) |
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*山猫リシュカ ''The Wildcat'' (1921) |
*山猫リシュカ ''The Wildcat'' (1921) |
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*名花サッフォー ''Mad Love'' (1921) |
*名花サッフォー ''Mad Love'' (1921) |
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*灼熱の情炎 ''Die Flamme'' (1923) |
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*チート ''The Cheat'' (1923) |
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*べラ・ドンナ ''Bella Donna'' (1923) |
*べラ・ドンナ ''Bella Donna'' (1923) |
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*西班牙の踊り子 ''The Spanish Dancer'' (1923) |
*西班牙の踊り子 ''The Spanish Dancer'' (1923) |
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*禁断の楽園 ''Forbidden Paradise'' (1924) |
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*落花長恨 ''A Woman of the World'' (1925) |
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*[[帝国ホテル(映画) |
*[[帝国ホテル (映画)|帝国ホテル]] ''Hotel Imperial'' (1927) |
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*鉄条網 ''Barbed Wire'' (1927) |
*鉄条網 ''Barbed Wire'' (1927) |
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*''The Woman He Scorned'' (1929) |
*''The Woman He Scorned'' (1929) |
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*マヅルカ ''Mazurka'' (1935) |
*マヅルカ ''Mazurka'' (1935) |
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*夜のタンゴ ''Tango Notturno'' (1937) |
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*クレタの風車 ''The Mon-Spinners'' (1964) |
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==関連== |
==関連== |
2009年7月25日 (土) 12:49時点における版
ポーラ・ネグリ Pola Negri | |
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本名 | Barbara Apolonia Chałupiec |
生年月日 | 1897年1月3日 |
没年月日 | 1987年8月1日(90歳没) |
出生地 | リプノ |
国籍 | ポーランド |
ポーラ・ネグリ(Pola Negri、1897年1月3日 - 1987年8月1日)は、サイレント映画時代に活躍したポーランド出身の女優である。本名Barbara Apollonia Chałupiec。妖艶なヴァンプ(悪女)役で大スターとなった。
来歴
バレエ・ダンサーになる訓練を受けていたが病気が元で挫折、演技の道に進む。第一次世界大戦の終わり頃までには、ワルシャワで人気舞台女優となっていた。
ポーランドで人気女優となった彼女はドイツのベルリンに移り、エルンスト・ルビッチの映画作品に出演。彼らの作品は世界中で成功し、1922年にはハリウッドに招かれることになった。1920年代には、彼女のエキゾチックでグラマラスな容姿は人気を博し、また、チャールズ・チャップリンとの婚約やルドルフ・ヴァレンティノとのロマンスも話題になった。
特に1926年、ヴァレンティノが亡くなった後の彼女の振る舞いはメディアの注目となった。彼女はヴァレンティノと結婚する約束をしていたと明かし、彼の棺が列車でニューヨークからロサンゼルスまで運ばれるのについてゆき、列車が止まる度に写真家のためにポーズを取った。葬式では何度も失神、彼女の名前が綴られた大きなフラワー・アレンジメントをヴァレンティノの墓の上に置くように用意した。しかし多くのヴァレンティノの友人は、二人は結婚する予定などなかったと主張し、彼女の振る舞いは単なる売名行為だと非難した。その頃から彼女のキャリアは下降しはじめる。彼女の強いポーランド訛りの英語は大衆に受け入れられず、当たり役であった悪女役は流行遅れとなっていった。
ネグリは1927年にグルジアの王子だと主張する軍人と結婚した。
1930年以降はヨーロッパに戻り、ドイツとイギリスにおいて数本の映画にしか出演していない。1939年、ヒトラーが台頭してきたドイツを去り、アメリカに戻った。ビリー・ワイルダーは『サンセット大通り』の主演を彼女に持ちかけたが、結局彼女のライバルであったグロリア・スワンソンがその役を得た。
1951年にはアメリカの市民権を得ている。1964年の『クレタの風車』が最後の作品。1987年にテキサス州のサンアントニオでその生涯を閉じた。
主な出演作品
- 呪いの眼 The Eyes of The Mummy (1918)
- カルメン Gypsy Blood (1918)
- 染まぬ花 The Yellow Ticket (1918)
- パッション Madame Du Barry (1919)
- 新椿姫 Arme Violetta (1920)
- 寵姫ズムルン One Arabian Night (1920)
- 山猫リシュカ The Wildcat (1921)
- 名花サッフォー Mad Love (1921)
- 灼熱の情炎 Die Flamme (1923)
- チート The Cheat (1923)
- べラ・ドンナ Bella Donna (1923)
- 西班牙の踊り子 The Spanish Dancer (1923)
- 禁断の楽園 Forbidden Paradise (1924)
- 落花長恨 A Woman of the World (1925)
- 帝国ホテル Hotel Imperial (1927)
- 鉄条網 Barbed Wire (1927)
- The Woman He Scorned (1929)
- マヅルカ Mazurka (1935)
- 夜のタンゴ Tango Notturno (1937)
- クレタの風車 The Mon-Spinners (1964)