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== 生涯 ==
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エドワードの出生年は確かではないが、[[ミドルハム城]](母方の祖父である[[リチャード・ネヴィル|ウォリック伯リチャード・ネヴィル]]の以前の所有物)で生まれた事は知られている。[[1478年]]、[[クラレンス公ジョージ]]が反逆罪で処刑されると、その[[ソールズベリー伯]]の称号はエドワードに与えられた(エドワードの死後、クラレンス公の遺児[[エドワード・プランタジネット (ウォリック伯)|エドワード]]に返還された)。
エドワードの出生年は確かではないが、[[ミドルハム城]](母方の祖父である[[リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)|ウォリック伯リチャード・ネヴィル]]の以前の所有物)で生まれた事は知られている。[[1478年]]、[[ジョージ・プランタジネット (クラレンス公)|クラレンス公ジョージ]]が反逆罪で処刑されると、その[[ソールズベリー伯]]の称号はエドワードに与えられた(エドワードの死後、クラレンス公の遺児[[エドワード・プランタジネット (ウォリック伯)|エドワード]]に返還された)。


[[1483年]]、父がイングランド王位に就くと、エドワードもまた[[プリンス・オブ・ウェールズ]](王太子)になった。叙任式典は[[ヨーク大聖堂]]で執り行われたが、同時代の資料によるとこの式典はかなり急いで手配された事が伺える。恐らくエドワード少年は健康問題により[[ロンドン]]での両親の戴冠式にも出席できなかったため、体調の回復を待ってイングランド北部の[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]で式典を行ったのだろう。
[[1483年]]、父がイングランド王位に就くと、エドワードもまた[[プリンス・オブ・ウェールズ]](王太子)になった。叙任式典は[[ヨーク大聖堂]]で執り行われたが、同時代の資料によるとこの式典はかなり急いで手配された事が伺える。恐らくエドワード少年は健康問題により[[ロンドン]]での両親の戴冠式にも出席できなかったため、体調の回復を待ってイングランド北部の[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]で式典を行ったのだろう。

2009年7月23日 (木) 14:03時点における版

エドワード・オブ・ミドルハムEdward of Middleham, 1473年頃 - 1484年4月9日)またはエドワード・プランタジネットEdward Plantagenet)は、イングランドの王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)であり、国王リチャード3世アン・ネヴィルの1人息子である。

生涯

エドワードの出生年は確かではないが、ミドルハム城(母方の祖父であるウォリック伯リチャード・ネヴィルの以前の所有物)で生まれた事は知られている。1478年クラレンス公ジョージが反逆罪で処刑されると、そのソールズベリー伯の称号はエドワードに与えられた(エドワードの死後、クラレンス公の遺児エドワードに返還された)。

1483年、父がイングランド王位に就くと、エドワードもまたプリンス・オブ・ウェールズ(王太子)になった。叙任式典はヨーク大聖堂で執り行われたが、同時代の資料によるとこの式典はかなり急いで手配された事が伺える。恐らくエドワード少年は健康問題によりロンドンでの両親の戴冠式にも出席できなかったため、体調の回復を待ってイングランド北部のヨークで式典を行ったのだろう。

1484年のエドワードの急死によって父リチャードは後継者を失い、父のライバルであるリッチモンド伯ヘンリー・テューダーが王位を獲得する道を開いた。エドワードはシェリフ・ハットンの教区協会に埋葬された。

先代
エドワード5世
プリンス・オブ・ウェールズ
1483年 - 1484年
次代
アーサー・テューダー
イングランドの爵位
先代
新設
ソールズベリー伯
1478年 - 1484年
次代
消滅