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[[チェロキー族]]の血を引く家系の大家族に生まれたノーキーは、家族や親族の大多数が何かしら楽器を演奏出来たという恵まれた環境の中、五歳からギターを手にするようになる。最初の頃は[[バンジョー]]や[[マンドリン]]等様々な楽器を手にするが、更なる上達を目指すために11歳の頃にギターに専念するようになる。当初は[[カントリーミュージック]]や[[ブルーグラス]]から独学でギターを学び、[[レス・ポール]]、[[チェット・アトキンス]]、[[マール・トラヴィス]]が彼にとってのギターヒーローであった。それからは当時流行していた[[ロックンロール]]を深く知るために、様々なレコードを次々と手に入れ、それを聴く事により吸収して行く。これらの原体験がノーキーの音楽性の礎となっている。17歳の頃にはナイトクラブに出演するようになり、1957年には[[タコマ]]にツアーで訪れた[[バック・オウエンス]]のサポートメンバーに参加する。そしてその後、[[ドン・ウィルソン (ギタリスト)|ドン・ウィルソン]]、[[ボブ・ボーグル]]と出会い、ベンチャーズに当初はベース担当で加入する。その後ノーキーの申し出により、ボブ・ボーグルとパートが交代する事になり、いよいよベンチャーズの快進撃が始まる事になる。
[[チェロキー族]]の血を引く家系の大家族に生まれたノーキーは、家族や親族の大多数が何かしら楽器を演奏出来たという恵まれた環境の中、五歳からギターを手にするようになる。最初の頃は[[バンジョー]]や[[マンドリン]]等様々な楽器を手にするが、更なる上達を目指すために11歳の頃にギターに専念するようになる。当初は[[カントリーミュージック]]や[[ブルーグラス]]から独学でギターを学び、[[レス・ポール]]、[[チェット・アトキンス]]、[[マール・トラヴィス]]が彼にとってのギターヒーローであった。それからは当時流行していた[[ロックンロール]]を深く知るために、様々なレコードを次々と手に入れ、それを聴く事により吸収して行く。これらの原体験がノーキーの音楽性の礎となっている。17歳の頃にはナイトクラブに出演するようになり、1957年には[[タコマ]]にツアーで訪れた[[バック・オウエンス]]のサポートメンバーに参加する。そしてその後、[[ドン・ウィルソン (ギタリスト)|ドン・ウィルソン]]、[[ボブ・ボーグル]]と出会い、ベンチャーズに当初はベース担当で加入する。その後ノーキーの申し出により、ボブ・ボーグルとパートが交代する事になり、いよいよベンチャーズの快進撃が始まる事になる。


1968年、ノーキーは牧場を手に入れ馬主となり、かねてからの念願であった[[競馬]]界に進出する事となり、ツアーに同行することが難しくなったためベンチャーズを離れる事となる。それ以降の音楽活動はナイトクラブの出演やスタジオレコーディングの参加等散発的なものとなるが、当時は[[レオン・ラッセル]]、[[グレン・キャンベル]]、[[デラニー&ボニー]]等と音楽活動を行っていた。その後1972年にノーキーと入れ替わりに加入した[[ジェリー・マギー]]がベンチャーズを離れる事となり、ノーキーが復帰する事となる。その後1985年に再びノーキーが脱退するまでベンチャーズに参加していた。ちなみに、当時のメンバーチェンジにはよくありがちなメンバー間のいざこざ等は全く無く、実に友好的なものであったという。またジェリー・マギーはボブ・ボーグルのピンチヒッターとして1984年の日本ツアーに参加するまで、ノーキーと面識がなかった。
1968年、ノーキーは牧場を手に入れ、かねてからの念願であった[[競馬]]界に[[馬主]]として進出する事となり、ツアーに同行することが難しくなったためベンチャーズを離れる事となる。それ以降の音楽活動はナイトクラブの出演やスタジオレコーディングの参加等散発的なものとなるが、当時は[[レオン・ラッセル]]、[[グレン・キャンベル]]、[[デラニー&ボニー]]等と音楽活動を行っていた。その後1972年にノーキーと入れ替わりに加入した[[ジェリー・マギー]]がベンチャーズを離れる事となり、ノーキーが復帰する事となる。その後1985年に再びノーキーが脱退するまでベンチャーズに参加していた。ちなみに、当時のメンバーチェンジにはよくありがちなメンバー間のいざこざ等は全く無く、実に友好的なものであったという。またジェリー・マギーはボブ・ボーグルのピンチヒッターとして1984年の日本ツアーに参加するまで、ノーキーと一度も会った事が無く、面識がなかったという


その後は自身の音楽活動を展開し、カントリーミュージックに深く根ざした活動を行うが、1999年より夏と冬のツアーをベンチャーズとして行う事が決まり、ノーキーはスケジュールの都合で冬のツアーに参加する事が難しいジェリー・マギーに代わり、冬のツアーに参加している。その他にも単発でノーキーが参加する事もあるが、日本ではノーキーとジェリーの二つのベンチャーズを楽しむ事ができる。
その後は自身の音楽活動を展開し、カントリーミュージックに深く根ざした活動を行うが、1999年より夏と冬のツアーをベンチャーズとして行う事が決まり、ノーキーはスケジュールの都合で冬のツアーに参加する事が難しいジェリー・マギーに代わり、冬のツアーに参加している。その他にも単発でノーキーが参加する事もあるが、日本ではノーキーとジェリーの二つのベンチャーズを楽しむ事ができる。


==音楽性==
==音楽性==
ノーキーの音楽的バックグラウンドは[[カントリーミュージック]]に深く根ざしており、演奏中に取り込む[[フィンガーピッキング]]等にその影響がうかがえる。シンプルでありながら高度な[[カントリーリック]]を盛り込んだテクニックは、[[エレキブーム]]を巻き起こした日本において、絶大な人気と憧れを呼んだ。
ノーキーの音楽的バックグラウンドは[[カントリーミュージック]]に深く根ざしており、演奏中に取り込む[[フィンガーピッキング]]等にその影響がうかがえる。シンプルでありながら高度な[[カントリーリック]]を盛り込んだテクニックは、[[エレキブーム]]を巻き起こした日本において、絶大な人気と憧れを呼んだ。特に「キャラバン」に於ける[[速弾き]]は、当時の日本において最高峰の難易度といわれた


フィンガリングは弦と平行にポジション移動する事が多い。また、[[モズライト]]等の[[ビブラート・ユニット]]があるギターと、[[テレキャスター]]等の無いギターでは、[[チョーキング]]を絡めたフレーズを弾く際に弾き方を変えている。アームのあるギターの場合、チョーキングした際に他の弦が同時に引っ張られると同時に、ベンドしていない弦のチューニングが下がってしまい、ピッチが合わなくなってしまう。それを避ける為にアーム付きのギターでは[[ハンマリング]]や[[グリッサンド]]などで対処している。その為、往年のモズライトを使用していた頃と微妙に弾き方が変わっている。
フィンガリングは弦と平行にポジション移動する事が多い。また、[[モズライト]]等の[[ビブラート・ユニット]]があるギターと、[[テレキャスター]]等の無いギターでは、[[チョーキング]]を絡めたフレーズを弾く際に弾き方を変えている。アームのあるギターの場合、チョーキングした際に他の弦が同時に引っ張られると同時に、ベンドしていない弦のチューニングが下がってしまい、ピッチが合わなくなってしまう。それを避ける為にアーム付きのギターでは[[ハンマリング]]や[[グリッサンド]]などで対処している。その為、往年のモズライトを使用していた頃と微妙に弾き方が変わっている。
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==エピソード==
==エピソード==
*ある日の[[シカゴ]]の空港での事、たまたま乗り換え待ちをしていたノーキーを[[エリック・クラプトン]]が見つけ、ノーキーのところに歩み寄り、握手を求めてきたという。
*ある日の[[シカゴ]]の空港での事、たまたま乗り換え待ちをしていたノーキーを[[エリック・クラプトン]]が見つけ、ノーキーのところに歩み寄り、握手を求めてきたという。
*あまり知られていないが、彼は実は1960年代初期に一度ベンチャーズを離れている。その時に[[モズライト]]社に勤務していたクラフツマンでもありギタリストであったジーン・モールス(故人)等と共に「マークスメン」なるバンドを結成し、活動をしたが、レコード会社の広報担当者が急逝するなどゴタゴタが続き、長くは続けられなかったという。そしてすぐにベンチャーズの活動に戻る事になる。そのため、同時期にリリースされたベンチャーズのアルバム"Colorful Ventures"には、ノーキーが参加していない音源が存在しているのだが、何分40年以上も前の事であり、事実は有耶無耶になってしまっている部分が多い。
*あまり知られていないが、彼は実は1960年代初期に一度ベンチャーズを離れている。その時に[[モズライト]]社に勤務していたクラフツマンでもありギタリストであったジーン・モールス(故人。バック・オウエンスを通じて知り合ったという)等と共に「マークスメン」なるバンドを結成し、活動をしたが、レコード会社の広報担当者が急逝するなどゴタゴタが続き、長くは続けられなかったという。そしてすぐにベンチャーズの活動に戻る事になる。そのため、同時期にリリースされたベンチャーズのアルバム"Colorful Ventures"には、ノーキーが参加していない音源が存在しているのだが、何分40年以上も前の事であり、事実は有耶無耶になってしまっている部分が多い。
*かつてのギター弦には「ライトゲージ」が存在せず、彼は2弦にも1弦と同じ弦を張ったり、1弦にバンジョーの弦を張って1~5弦を張る等の工夫をしていたが、後にノーキーの要望にこたえる形で[[アーニー・ボール]]がライトゲージの弦を製作したという。ベンチャーズの来日時、共演した[[寺内タケシ]]([[寺内タケシとブルージーンズ]])や[[加瀬邦彦]](加瀬邦彦とワイルドワンズ)が、ノーキーがあまりに簡単にチョーキングをやっているのを見て不思議に思っていたところ、ノーキーがリハーサル時に席を外した際にノーキーの[[モズライト]]を弾いてみたら、あまりにも弦が細かった事に驚愕し、「こんなに弦が細ければグリス(注:当時はチョーキングをこう呼んでいた)が楽に出来る訳だ」、「指で腕立て伏せしたりしてあんなに必死になって握力を鍛えていた俺達は何なんだ?」と思わず爆笑したという。
*かつてのギター弦には「ライトゲージ」が存在せず、彼は2弦にも1弦と同じ弦を張ったり、1弦にバンジョーの弦を張って1~5弦を張る等の工夫をしていたが、後にノーキーの要望にこたえる形で[[アーニー・ボール]]がライトゲージの弦を製作したという。ベンチャーズの来日時、共演した[[寺内タケシ]]([[寺内タケシとブルージーンズ]])や[[加瀬邦彦]](加瀬邦彦とワイルドワンズ)が、ノーキーがあまりに簡単にチョーキングをやっているのを見て不思議に思っていたところ、ノーキーがリハーサル時に席を外した際にノーキーの[[モズライト]]を弾いてみたら、あまりにも弦が細かった事に驚愕し、「こりゃこんなに弦が細ければグリス(注:当時はチョーキングをこう呼んでいた)が楽に出来る訳だ」、「指で腕立て伏せしたりしてあんなに必死になって握力を鍛えていた俺達は何なんだ?」と思わず爆笑したという。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[寺内タケシ]] - 初期の来日時に同じステージを踏んで以来親友となり、ライブ、および複数のアルバムで共演している。1966年の来日ツアー中、[[ドン・ウィルソン]]の子息が落馬事故によって他界してしまうアクシデントに見舞われ、急遽帰国を余儀されなくなったため、ピンチヒッターとしてごく短期間、寺内タケシがツアーに参加したことがある。
* [[寺内タケシ]] - 初期の来日時に同じステージを踏んで以来親友となり、ライブ、および複数のアルバムで共演している。1966年の来日ツアー中、[[ドン・ウィルソン]]の子息が落馬事故によって他界してしまうアクシデントに見舞われ、急遽帰国を余儀されなくなったため、ピンチヒッターとしてごく短期間、寺内タケシがツアーに参加したことがある。
* [[モズライト]] - 1963年に所有していた[[テレキャスター]]のネックを削り直してもらえる工房を探していた所、友人を通じてモズライトのセミー・モズレーを紹介され、試作品のギターを借りてレコーディングしたところ、そのパワフルな音質と弾きやすさにほれ込み、「ベンチャーズモデル」を製作するきっかけとなった。しかしノーキーもネックの細さにはいまいち不満があったようである。その後モズライトとの契約が切れて約20年後に、高谷企画(現・高谷プランニング)のプロデュースによる「ノーキー・モデル」を開発するが、現在は再びモズライトからは離れている。


==参考文献==
==参考文献==

2009年7月9日 (木) 17:01時点における版

ノーキー・エドワーズ
出生名 Noel Floyd Edwards
生誕 1935年5月9日
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 オクラホマ州ラホマ
ジャンル ロック
職業 ギタリスト
シンガー
担当楽器 エレクトリックギター

ノーキー・エドワーズ (Noel Floyd "Nokie" Edwards, 1935年5月9日 - ) は、アメリカ合衆国ギタリストオクラホマ州ラホマ出身。元ザ・ベンチャーズの2代目リードギター

略歴

チェロキー族の血を引く家系の大家族に生まれたノーキーは、家族や親族の大多数が何かしら楽器を演奏出来たという恵まれた環境の中、五歳からギターを手にするようになる。最初の頃はバンジョーマンドリン等様々な楽器を手にするが、更なる上達を目指すために11歳の頃にギターに専念するようになる。当初はカントリーミュージックブルーグラスから独学でギターを学び、レス・ポールチェット・アトキンスマール・トラヴィスが彼にとってのギターヒーローであった。それからは当時流行していたロックンロールを深く知るために、様々なレコードを次々と手に入れ、それを聴く事により吸収して行く。これらの原体験がノーキーの音楽性の礎となっている。17歳の頃にはナイトクラブに出演するようになり、1957年にはタコマにツアーで訪れたバック・オウエンスのサポートメンバーに参加する。そしてその後、ドン・ウィルソンボブ・ボーグルと出会い、ベンチャーズに当初はベース担当で加入する。その後ノーキーの申し出により、ボブ・ボーグルとパートが交代する事になり、いよいよベンチャーズの快進撃が始まる事になる。

1968年、ノーキーは牧場を手に入れ、かねてからの念願であった競馬界に馬主として進出する事となり、ツアーに同行することが難しくなったためベンチャーズを離れる事となる。それ以降の音楽活動はナイトクラブの出演やスタジオレコーディングの参加等散発的なものとなるが、当時はレオン・ラッセルグレン・キャンベルデラニー&ボニー等と音楽活動を行っていた。その後1972年にノーキーと入れ替わりに加入したジェリー・マギーがベンチャーズを離れる事となり、ノーキーが復帰する事となる。その後1985年に再びノーキーが脱退するまでベンチャーズに参加していた。ちなみに、当時のメンバーチェンジにはよくありがちなメンバー間のいざこざ等は全く無く、実に友好的なものであったという。またジェリー・マギーはボブ・ボーグルのピンチヒッターとして1984年の日本ツアーに参加するまで、ノーキーと一度も会った事が無く、面識がなかったという。

その後は自身の音楽活動を展開し、カントリーミュージックに深く根ざした活動を行うが、1999年より夏と冬のツアーをベンチャーズとして行う事が決まり、ノーキーはスケジュールの都合で冬のツアーに参加する事が難しいジェリー・マギーに代わり、冬のツアーに参加している。その他にも単発でノーキーが参加する事もあるが、日本ではノーキーとジェリーの二つのベンチャーズを楽しむ事ができる。

音楽性

ノーキーの音楽的バックグラウンドはカントリーミュージックに深く根ざしており、演奏中に取り込むフィンガーピッキング等にその影響がうかがえる。シンプルでありながら高度なカントリーリックを盛り込んだテクニックは、エレキブームを巻き起こした日本において、絶大な人気と憧れを呼んだ。特に「キャラバン」に於ける速弾きは、当時の日本において最高峰の難易度といわれた。

フィンガリングは弦と平行にポジション移動する事が多い。また、モズライト等のビブラート・ユニットがあるギターと、テレキャスター等の無いギターでは、チョーキングを絡めたフレーズを弾く際に弾き方を変えている。アームのあるギターの場合、チョーキングした際に他の弦が同時に引っ張られると同時に、ベンドしていない弦のチューニングが下がってしまい、ピッチが合わなくなってしまう。それを避ける為にアーム付きのギターではハンマリンググリッサンドなどで対処している。その為、往年のモズライトを使用していた頃と微妙に弾き方が変わっている。

使用するピックは、かつてはフラットピックが主体であったが、カントリーミュージックへの傾倒を深めるにつれ、1970年代からサムピックを併用する事が多くなっている。現在では殆どの曲をサムピックで演奏する。また近年、フィンガーピッキングの際の爪の保護のために、薄いグラスファイバーを爪に貼って演奏している。

主な使用機材

基本的にエフェクターは多用しない。スティールギター奏者のレッド・ローズが彼のために特別に作ったファズコンプレッサーを使用する程度で、殆どはアンプで音作りをするスタイルである。1970年代にはワウペダルを使用した事もある。レッド・ローズ製作のコンプレッサーは現在でも使用しているという。

エピソード

  • ある日のシカゴの空港での事、たまたま乗り換え待ちをしていたノーキーをエリック・クラプトンが見つけ、ノーキーのところに歩み寄り、握手を求めてきたという。
  • あまり知られていないが、彼は実は1960年代初期に一度ベンチャーズを離れている。その時にモズライト社に勤務していたクラフツマンでもありギタリストであったジーン・モールス(故人。バック・オウエンスを通じて知り合ったという)等と共に「マークスメン」なるバンドを結成し、活動をしたが、レコード会社の広報担当者が急逝するなどゴタゴタが続き、長くは続けられなかったという。そしてすぐにベンチャーズの活動に戻る事になる。そのため、同時期にリリースされたベンチャーズのアルバム"Colorful Ventures"には、ノーキーが参加していない音源が存在しているのだが、何分40年以上も前の事であり、事実は有耶無耶になってしまっている部分が多い。
  • かつてのギター弦には「ライトゲージ」が存在せず、彼は2弦にも1弦と同じ弦を張ったり、1弦にバンジョーの弦を張って1~5弦を張る等の工夫をしていたが、後にノーキーの要望にこたえる形でアーニー・ボールがライトゲージの弦を製作したという。ベンチャーズの来日時、共演した寺内タケシ(寺内タケシとブルージーンズ)や加瀬邦彦(加瀬邦彦とワイルドワンズ)が、ノーキーがあまりに簡単にチョーキングをやっているのを見て不思議に思っていたところ、ノーキーがリハーサル時に席を外した際にノーキーのモズライトを弾いてみたら、あまりにも弦が細かった事に驚愕し、「こりゃこんなに弦が細ければグリス(注:当時はチョーキングをこう呼んでいた)が楽に出来る訳だ」、「指で腕立て伏せしたりしてあんなに必死になって握力を鍛えていた俺達は何なんだ?」と思わず爆笑したという。

関連項目

  • 寺内タケシ - 初期の来日時に同じステージを踏んで以来親友となり、ライブ、および複数のアルバムで共演している。1966年の来日ツアー中、ドン・ウィルソンの子息が落馬事故によって他界してしまうアクシデントに見舞われ、急遽帰国を余儀されなくなったため、ピンチヒッターとしてごく短期間、寺内タケシがツアーに参加したことがある。
  • モズライト - 1963年に所有していたテレキャスターのネックを削り直してもらえる工房を探していた所、友人を通じてモズライトのセミー・モズレーを紹介され、試作品のギターを借りてレコーディングしたところ、そのパワフルな音質と弾きやすさにほれ込み、「ベンチャーズモデル」を製作するきっかけとなった。しかしノーキーもネックの細さにはいまいち不満があったようである。その後モズライトとの契約が切れて約20年後に、高谷企画(現・高谷プランニング)のプロデュースによる「ノーキー・モデル」を開発するが、現在は再びモズライトからは離れている。

参考文献

シンコーミュージック「エレキ・ギター・ブック」各巻


外部リンク