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ドイツ語圏には旧神聖ローマ帝国皇室である[[ハプスブルク家]]が治めるオーストリアと[[ホーエンツォレルン家]]が治める新興国[[プロイセン王国|プロイセン]]という2つの[[大国]]があり、どちらもが自国によるドイツ統一を望んでいた。更にオーストリアの領土には[[ハンガリー人]]や[[スラブ民族]]などが多く居住しており、異民族が存在したのでは本当の意味での[[国民国家]]が成り立たないとの意見もあった。
ドイツ語圏には旧神聖ローマ帝国皇室である[[ハプスブルク家]]が治める[[オーストリア]]と[[ホーエンツォレルン家]]が治める新興国[[プロイセン王国|プロイセン]]という2つの[[大国]]があり、どちらもが自国によるドイツ統一を望んでいた。更にオーストリアの領土には[[ハンガリー人]]や[[スラブ民族]]などが多く居住しており、異民族が存在したのでは本当の意味での[[国民国家]]が成り立たないとの意見もあった。


そこで、[[多民族国家]]であるオーストリアは排除して、とりあえずの統一国家をつくるべきだという「[[小ドイツ主義]]」と、オーストリアを含めた全ドイツ語圏の国家統一を目指す「[[大ドイツ主義]]」が対立することになった。だが、いち早く強国となったプロイセンが行ったのは、自らが完全に主導権を掌握できるオーストリアなしの「小ドイツ主義」による統一策であった。[[1866年]]の[[普墺戦争]]で勝利したプロイセンは、[[1871年]]には[[普仏戦争]]に勝利した。この結果プロイセン王はドイツ皇帝となり、オーストリアを除く統一国家[[ドイツ帝国]]([[ドイツ国]])を成立させる事になった。
そこで、[[多民族国家]]であるオーストリアは排除して、とりあえずの統一国家をつくるべきだという「[[小ドイツ主義]]」と、オーストリアを含めた全ドイツ語圏の国家統一を目指す「[[大ドイツ主義]]」が対立することになった。だが、いち早く強国となったプロイセンが行ったのは、自らが完全に主導権を掌握できるオーストリアなしの「小ドイツ主義」による統一策であった。[[1866年]]の[[普墺戦争]]で勝利したプロイセンは、[[1871年]]には[[普仏戦争]]に勝利した。この結果プロイセン王はドイツ皇帝となり、オーストリアを除く統一国家[[ドイツ帝国]]([[ドイツ国]])を成立させる事になった。

2009年6月22日 (月) 14:28時点における版

アンシュルス(独:Anschluß,独墺合邦)は、単語としては『接続・合併』を意味する。ここではDer Anschluß Österreichs an das Deutsche Reich の意味で使われる。日本では1938年3月13日ナチス党政権下のドイツによるオーストリア合邦と訳される。

大ドイツ主義と小ドイツ主義

神聖ローマ帝国が、その内実を失った三十年戦争以後、ドイツ民族の統一した「ドイツ国家」の復活は多くのドイツ人の悲願であった。しかし、大きな内部的な課題が存在していた。

ドイツ語圏には旧神聖ローマ帝国皇室であるハプスブルク家が治めるオーストリアホーエンツォレルン家が治める新興国プロイセンという2つの大国があり、どちらもが自国によるドイツ統一を望んでいた。更にオーストリアの領土にはハンガリー人スラブ民族などが多く居住しており、異民族が存在したのでは本当の意味での国民国家が成り立たないとの意見もあった。

そこで、多民族国家であるオーストリアは排除して、とりあえずの統一国家をつくるべきだという「小ドイツ主義」と、オーストリアを含めた全ドイツ語圏の国家統一を目指す「大ドイツ主義」が対立することになった。だが、いち早く強国となったプロイセンが行ったのは、自らが完全に主導権を掌握できるオーストリアなしの「小ドイツ主義」による統一策であった。1866年普墺戦争で勝利したプロイセンは、1871年には普仏戦争に勝利した。この結果プロイセン王はドイツ皇帝となり、オーストリアを除く統一国家ドイツ帝国ドイツ国)を成立させる事になった。

ジュネーブ議定書とドイツ系オーストリア

オーストリア・ハンガリー帝国の分解

1918年第一次世界大戦に敗北してドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー二重帝国が崩壊、民族自決によるオーストリア領内の諸民族の独立は、二つのドイツ人国家間の主導権争いと非ドイツ系民族の問題を解消させることとなり、再度「大ドイツ主義」によるドイツ統一の希望を抱かせることになった。特に工業生産力の高いチェコの独立はオーストリア共和国を経済的に脆弱にし、経済的な自立は極めて困難と考えられ、ドイツとの合併以外には生存方法はないと考えられるようになっていた。

1918年11月のオーストリア臨時国民議会は「ドイツ系オーストリアはドイツ共和国の一構成部分である」という決議を全会一致で行い(この点に関してのみは右派も左派も一致した見解であった)、オーストリア社会民主党カール・レンナー首相も講和の条件としてこの問題を取り上げた。また、1919年7月31日ヴァイマル共和政下のドイツで採択されたヴァイマル憲法にも、将来のオーストリアと併合をほのめかす条文があった[1]

ところがフランスイタリアなどの一部の戦勝国は「弱体化させなければならない敗戦国であるドイツが却って国土を拡大させるのはおかしい」と異論を挟んだ。一部には「民族自決は敗戦国にも当然の権利として許されるのではないか」とする意見もあったが、結局ドイツとオーストリアの合併は認めず、1919年9月10日に締結されたサン=ジェルマン条約によって合邦の禁止は明文化された。

一方連合国はオーストリアが独立を維持できるための措置も取り、1922年10月4日国際連盟の斡旋でオーストリア首相イグナーツ・ザイペルと4ヶ国(イギリス・フランス・イタリア・チェコスロヴァキア)は、ジュネーヴ議定書を締結した。これによりオーストリアは6億5000万クローネ(3000万英ポンド)の国際借款と引き換えにドイツとオーストリアは今後20年間にわたり合併しないという条件と国際連盟による財政管理の義務付けという条件を受け入れた。

「独墺関税同盟」事件

1920年代のオーストリアはキリスト教社会党を率いるイグナーツ・ザイペル(イエズス会聖職者)と同党の支持を受けた官僚ヨハン・ショーバー(元ウィーン警察長官)の二人の指導者が、交互に政権を交代しながら、オットー・バウアー率いるオーストリア社会民主党と対峙するという時代が続いた。世界恐慌の余波を受けた総選挙で社会民主党が台頭し、弱体したキリスト教社会党政権で外相として入閣していたショーバーはドイツとの関税同盟(輸出入関税の廃止)によってドイツとオーストリアを一体とした経済圏とすることでこの危機を乗り越えようと考え、ドイツ側の了承も得た。

だが、1931年3月、このニュースが新聞によって洩らされると、ジュネーヴ議定書4ヶ国のうち、イギリス以外の3ヶ国がこれを「経済的な合併」とみなして議定書違反であると抗議した。一方、オーストリア政府には敵対する社会民主党や護国団までが賛同の意思を表明した。この問題は国際連盟の理事会や国際司法裁判所に図られることとなったが、それ以前にフランスが大規模な経済制裁を発動し、これがきっかけに5月8日オーストリア最大の銀行である「クレジット・アンシュタット」が破綻した。これがヨーロッパにおける恐慌を一層激化させることを恐れた他のヨーロッパ諸国の奔走によって、3億シリングの追加借款案が提案され、その結果9月3日ショーバーは同盟交渉の断念を発表したのである。

だが、この結果ショーバーはこの混乱下で社会民主党や護国団を加えた挙国一致内閣を組織しようとして失敗したザイペルとともにキリスト教社会党の保守派から糾弾を受けて失脚してしまった。代わってキリスト教社会党の指導的立場にたったのは、ザイペルの直弟子を自称する若きドルフスであったが、社会民主党が関税同盟交渉の失敗を政府の弱腰外交に帰したために2大政党の関係はもはや修復不能の状態となり、新たな勢力「ナチス」の台頭を促すことになった。

ドイツによる併合

シューシュニク政権を支持するキリスト教社会党員、1934年
ザイス=インクヴァルトとヒトラー。1938年、ウイーンにて。

ドイツにおけるナチスの活動はオーストリアにも波及してきた。1932年の地方選挙において、オーストリア・ナチス党[2]は既存の右派集団である護国団を上回る実力を見せ、一方護国団の一部が暴走してクーデター計画を立てて失敗したことによって、保守的・反共的な思想の人々の支持が急速にナチスに移りつつあった。

翌年、ドイツで(オーストリア生まれの)ヒトラー政権が誕生すると、その支援を受けたオーストリアのナチス党員が公然と暴力によるオーストリアの政権奪取とドイツへの併合を主張し始めた。キリスト教社会党と護国団を基盤としたドルフス政権は1934年の内乱をきっかけにオーストリア社会民主党とナチスの禁止に動いた。そして、いわゆるオーストロ・ファシズム体制と呼ばれる一種のカトリックの権威に基づいた権威主義体制を打ち立てた。これにはドイツによるオーストリア併合に反対するイタリアのムッソリーニの支援があった。

ドルフス暗殺

1934年7月25日、オーストリア・ナチスは首相官邸を襲撃してドルフス首相を殺害し、親ナチス派のリンテレン元文相の組閣を要求するクーデターを起こした。このクーデターはミクラス大統領から全権を委任されたシューシュニク教育相に鎮圧された。オーストリア国内にはナチスへの嫌悪感が高まり、却って今まで国内に存在していた「ドイツとの合併」論を吹き飛ばしてしまった。また事件が発生した直後、イタリアは国境地帯に4個師団を集結させており、ドイツの介入を牽制した。ムッソリーニのヒトラーに対する心証も悪化し、ヒトラーを口を極めて罵っている[3]。このためヒトラーは国際的な名士である副首相パーペンをオーストリア公使に任命し、事態の収拾に当たった。

だが、国際情勢は推移し、ドイツ側に有利な情勢となった。1935年に英独海軍協定が結ばれて以降、イギリスはヒトラーとの「宥和政策」を外交の基本路線とするようになった。イタリアもまたエチオピア侵攻による国際的な孤立から、ドイツと協調するベルリン・ローマ枢軸路線に転換し、オーストリア問題から手を引きつつあった。これを好機とみたヒトラーはシューシュニクに対して攻勢に出た。1936年7月11日、独墺協定が結ばれ、表面上はドイツはオーストリアの独立を認めるとしながらも内実はオーストリア・ナチスへの恩赦と政治参加を容認させるものとなった。さらに護国団の指導者であるエルンスト・シュターレンベルクがこの協定に反対すると、11月にシューシュニクは護国団を解散させた。

併合へ

1938年2月12日ベルヒテスガーデンヒトラーとシューシュニックは会合を行い、ヒトラーはオーストリアを保護下に置くための幾つかの要求を行った。ヒトラーの要求は到底受け入れられるものではなかったが、結局シューシュニックは2月18日にオーストリア・ナチスに転向していたアルトゥル・ザイス=インクヴァルトを内務大臣に任命する。だが、既にオーストリア国内ではナチスが公然と政府打倒とドイツへの併合を求める動きを開始していた。

シューシュニックには、奥の手として暖めておいた秘策があった。それは国民投票を実施してオーストリア国民に「ドイツとの合併」か「自主独立」か選択させ、正面からヒトラーの要求を拒絶することであった。ドルフス前首相暗殺以来のドイツ側による様々な圧力に国民の反感が高まっており、実施されれば「自主独立」の選択が確実であった。更にかつてドルフスが非合法化したオーストリア社会民主党とも極秘に交渉し、国民投票への協力と引き換えに非合法化の取消を約束した。

これを知ったヒトラーは激怒して国民投票の中止とアルトゥル・ザイス=インクヴァルトへの首相職移譲を要求する一方、3月10日にオーストリア制圧作戦『オットー』を発動した。3月12日にドイツ国防軍を越境させ、実力でオーストリア国土の占領させる計画であった。この情報はオーストリアに漏れ、政府に衝撃を与えた。3月10日午後4時、シューシュニックは国民投票の中止と総辞職に追い込まれ、「屈服」の意をラジオで放送した。シューシニックはザイス=インクヴァルトを後継に推薦したが、ミクラスは承認を渋った。しかし、「屈服」放送に勢いづいた各地のオーストリア・ナチス党員は、ウィーン、リンツグラーツインスブルックなどの地方政府の施設にハーケンクロイツ旗を掲揚するなどした。この間ドイツはザイス=インクヴァルトに「派兵要請」を打電するように迫り、ザイス=インクヴァルトは午後9時45分に派兵要請を打電させた[4]。12日になる少し前、ミクラスはついにザイス=インクヴァルトを首相に指名した。

オーストリア消滅

3月12日午前8時、ドイツ軍の進駐が開始された。ドイツ軍は各地で熱狂的な歓迎を受け、そのため進軍速度が鈍ることもあった。首相となったザイス=インクヴァルトは、続いて名目上の国家元首であるミクラス大統領に対して、ドイツとの合併協定を締結するように迫った。ミクラスはこれを拒絶して辞職したため、ザイス=インクヴァルトは大統領の権限も代行することになった。ただし、ミクラスは戦後に自分は辞意を表明した事はなく、ザイス=インクヴァルトが一方的に宣言したものであり、彼を首相に任命してもいないと戦後に証言している。

1938年3月13日、ザイス=インクヴァルトはウィーンに迎えたヒトラーの目の前でオーストリアを新たなドイツの州、オストマルク州とする法案「ドイツ帝国とオーストリア共和国の再統合に関す法律」を起草して署名を行った。これにより、オーストリアはドイツに併合され、彼はオストマルク州総督 (Reichsstatthalter) に就任した。4月10日、ヒトラーとザイス=インクヴァルトは彼らの手による「国民投票」を行って97%の合併賛成票を集めた事を発表した。イタリアや日本、フランスなどの列強は直ちにウィーンの大使館領事館に格下げして、事実上の併合を認めた。

20年前、ドイツとオーストリアの合併に反対したフランスなどは「20年前にドイツ系オーストリアのドイツへの合併を認めなかったのは民族自決の原則に反した歴史的な過ちであった」と主張して、20年前とは全く逆の論理でオーストリアを突き放したのである。

アンシュルスの幻想と呪縛からの脱却

合邦を問う国民投票用紙。「あなたは1938年3月13日に制定されたオーストリアとドイツ国の再統一に賛成し、我々の指導者アドルフ・ヒトラーの党へ賛成の票を投ずるか」とある。中央の目立つ記入欄の上に「はい」、右端の小さな記入欄の上に「いいえ」とある

実は、「第一共和国」と称されたこの時期のオーストリアにあって、オーストリアへのプロテスタントの侵入を危惧する一部のカトリック保守派を除けば、オーストリア国民のほとんどにとって、ドイツとオーストリアの統一は悲願であった。それは、社会民主党のカール・レンナーや対立する保守派のドルフース、シューシュニクにも共通した考えであった。あくまでも彼らはドイツの伝統(それぞれの立場にとって)の継承者と自負するオーストリアが異質なナチスによって飲み込まれて行く事に対して反対し続けていたのである。

そして、当時の彼らには独自の国家として「オーストリア」が存在し続ける事や「オーストリア」という国家に愛国心を持つ事などは全く思いもよらない事であった(オーストリアの人々が愛国心を抱いていた対象はあくまで“大ドイツ主義によって形成される「ドイツ」国家”か、あるいは彼らがかつて実際に暮らしていた1918年以前のハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー二重帝国)に向けられたものであった)。従って、実際にドイツ軍がオーストリアに入ってしまうと、“大ドイツ主義によって形成される「ドイツ」国家”への愛国心から、一転して合併に賛成する投票行動に出てしまったのである(カール・レンナーが併合直後に「ナチスは嫌いだがオーストリアとドイツの合併は必要である」と発言して、ヒトラーから「彼も今回の併合そのものは支持している」と誤解を受けて政治犯収容所送りを免れたと言う説がある程である)。

現実は違っていた。ドイツ支配下においてオーストリアと言う地名は抹殺されて (Ostmark)、ハプスブルク帝国以来のオーストリアは根本的に否定される政策が取られた。また、合併直後、多くのユダヤ人や社会民主主義者、自由主義者や愛国主義者、知識人などが逮捕され、収容所に送られるか、処刑された。粛正の嵐はオーストリア軍にも及び、最後まで合併に反対し続けたヴィルヘルム・ゼフナー将軍などが暗殺された。政治的にも経済的にもドイツの本土への従属性が強化された一方[5]オーストリア人はドイツ人の中でも落ちこぼれの「二流市民」の扱いを受けて、ユダヤ人抹殺(ホロコースト)など、ドイツ人が直接関りたくない仕事などに動員される事も少なくなかったとされる。

一方で、ドイツ人としてのアイデンティティ確立のために、自ら積極的にナチスに忠誠を誓う者もいた(例えば、アンネ・フランクを逮捕したゲシュタポはオーストリア人カール・ヨゼフ・ジルバーバウアーであったという説がある)。そもそも、ヒトラー自身がオーストリア出身者であった。

戦後、ドイツ同様東西両陣営による分割の危機さえあったオーストリアを単一の国家として再建させるためには、あくまでもオーストリアは「第二次世界大戦における最初の犠牲者」という立場でいなければならなかった。このため第二次世界大戦における「オーストリア人の戦争責任」の問題は、戦後長年にわたってオーストリア国内ではタブー視され、この問題が本格的にオーストリア国内で議論されるようになるのは冷戦終結後のことである。

第二次世界大戦とナチス・ドイツによる支配の中で、オーストリア人は自分達がドイツ人ではなくオーストリア人であるという感情(アイデンティティ)を初めて抱く事になった。戦後、ナチス・ドイツが崩壊して、カール・レンナーのもとで再度オーストリアを再興する事になった時、もはや「ドイツ系オーストリア」と言う単語は過去の呪縛でしかなく、オーストリア人によるオーストリア国家の建設へと動き出すのである。

なお、1955年のオーストリアの再独立に際して、ドイツとの合併は永久的に禁止されている。また、欧州連合による欧州統合が進められてドイツ・オーストリアは勿論のこと他の欧州諸国との国境の意味合いが失われつつある現状において、ドイツと合併する必要性も既にない状態である。ただし、一方では2000年から2006年までオーストリア国民党(キリスト教社会党の後身)のヴォルフガング・シュッセルがドイツ民族主義を唱える極右政党と連立を組んでいたように、オーストリア国内ではドイツ民族主義が台頭してきており、「『ドイツ人』か『オーストリア人か』」という問題は今でもオーストリアに影を落としている。

死刑制度

オーストリアは併合と独立によって死刑廃止と復活を繰り返すことになった。

オーストリアでは1919年に死刑を廃止していたが、併合されると再び死刑制度が復活した。 死刑制度廃止以前には絞首刑が行われていたが、併合後はドイツ式のギロチンによる死刑が行われるようになった。 併合されていた間の死刑執行件数は過去200年分を上回るほどになった。 再びオーストリアが独立すると、こんどは戦争犯罪者を処刑するために絞首刑が復活した。 新たに任命された死刑執行人を教育するためにイギリスからアルバート・ピエレポイントが呼ばれた。 最期の死刑囚は1950年3月24日に絞首刑が執行されたヨハン・ツルンカ(Johann Trnka)であった。 1950年6月30日に再び死刑が廃止された。

参考文献

  • 矢田俊隆『オーストリア現代史の教訓』(刀水書房、1995年) ISBN 4887081723
  • 矢田俊隆 田口晃『世界現代史/ オーストリア・スイス現代史』(山川出版社、1984年) ISBN 4634422506
  • 南塚信吾 他 『新版世界各国史/ ドナウ・ヨーロッパ史』(山川出版社、1999年) ISBN 4634414902

関連項目

脚注

  1. ^ 第61条第二項に「ドイツ系オーストリア人はドイツと合同の後、ドイツ国民議会に参加する権利を与えられる」という条文がある。
  2. ^ 正式な名称は「ドイツ国家社会主義労働者党」(de:Deutsche Nationalsozialistische Arbeiterpartei(DNSAP))。旧名「オーストリア民族社会主義党」。1923年に名称変更した。日本ではオーストリア・ナチス党と呼ばれる。
  3. ^ 「ヒトラーがドルフスを殺したことには一点の疑いも無い」「彼は性的変質者だ、バカだ」「もはやナチズムファシズムは同じ飛行機に乗ることは無い」など。シュターレンベルク訪伊時の発言。児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』
  4. ^ ただし、この要請文はドイツからの顧問が作成したものであり、ザイス=インクヴァルトは首相就任まで打てないと難色を示していた。
  5. ^ この時、オーストリアを代表するオーケストラであるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団も解散させられそうになるなど、クラシック音楽の中心地であったオーストリアの文化も否定されていた。

外部リンク

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