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{{中華圏の人物
'''楊 善徳'''(よう ぜんとく、[[簡体字]]:'''{{lang|zh|杨善德}}'''、[[繁体字]]:'''{{lang|zh-tw|楊善德}}'''、[[ピン音|ピンイン]]:{{lang|zh|Yáng Shàndé}}、[[1873年]] - [[1919年]][[8月13日]])は、[[清|清末]][[中華民国|民初]]の軍人。字は'''樹堂'''。[[安徽省]][[安慶市|懐寧県]]の人。清朝、[[北京政府]]、[[安徽派]]の軍人。
| 名前=楊善徳
| 画像=
| 画像の説明=
| 出生=[[1873年]]
| 死去=[[1919年]][[8月13日]]
| 出身地=[[安徽省]][[安慶市|懐寧県]]
| 職業=軍人
| 簡体字=杨善德
| 繁体字=楊善德
| ピン音=Yáng Shàndé
| 通用=
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| 注音二式=
| 和名=よう ぜんとく
| 発音=ヤン シェンドゥー
}}

'''楊善徳'''(よう ぜんとく)は[[清|清末]][[中華民国|民初]]の軍人。[[北京政府]]、[[安徽派]]に属した。字は'''樹堂'''。


== 事跡 ==
== 事跡 ==
北洋武備学堂第11期を卒業し、以後新建陸軍で軍歴を重ねた。[[光緒]]30年([[1974年]])に第2鎮第5標標統、光緒32年([[1906年]])に第4鎮第7協協統、光緒34年([[1908年]])に[[浙江省|浙江]]新軍混成協協統、[[宣統]]2年([[1910年]])に浙江第41協協統、宣統3年([[1911年]])に第4鎮第7協協統と歴任している。
北洋武備学堂第11期を卒業し、以後新建陸軍で軍歴を重ねた。[[1974年]]([[光緒]]30年)に第2鎮第5標標統、[[1906年]](光緒32年)に第4鎮第7協協統、[[1908年]](光緒34年)に[[浙江省|浙江]]新軍混成協協統、[[1910年]]([[宣統]]2年)に浙江第41協協統、[[1911年]](宣統3年)に第4鎮第7協協統と歴任している。


中華民国成立後、軍制改組に伴い、第4鎮は第4師に改組され、楊善徳が同師長に昇進した。[[中華民国暦|民国]]2年([[1913年]])9月、[[江蘇省|江蘇]]松江鎮守使に就任し、民国4年([[1915年]])11月、上海鎮守使を暫行兼任署理して、まもなく淞滬護軍使兼江蘇軍務会弁に遷った。その翌月に[[袁世凱]]が皇帝に即位すると、一等伯に封じられた。
中華民国成立後、軍制改組に伴い、第4鎮は第4師に改組され、楊善徳が同師長に昇進した。[[1913年]]([[中華民国暦|民国]]2年)9月、[[江蘇省|江蘇]]松江鎮守使に就任し、[[1915年]](民国4年)11月、上海鎮守使を暫行兼任署理して、まもなく淞滬護軍使兼江蘇軍務会弁に遷った。その翌月に[[袁世凱]]が皇帝に即位すると、一等伯に封じられた。


袁世凱死後、楊善徳は[[段祺瑞]]率いる安徽派に属した。民国6年([[1917年]])1月、浙江督軍に任命され、段が[[中華民国大総統|大総統]][[黎元洪]]により国務総理を罷免されると、段を擁護するために楊は浙江省独立を宣言した。同年7月、段の復権と共に、そのまま独立を取り消している。
袁世凱死後、楊善徳は[[段祺瑞]]率いる安徽派に属した。[[1917年]](民国6年)1月、浙江督軍に任命され、段が[[中華民国大総統|大総統]][[黎元洪]]により国務総理を罷免されると、段を擁護するために楊は浙江省独立を宣言した。同年7月、段の復権と共に、そのまま独立を取り消している。


民国8年([[1919年]])8月13日、在任中に病没。享年47。
[[1919年]](民国8年)8月13日、在任中に病没。享年47。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2009年4月29日 (水) 14:21時点における版

楊善徳
プロフィール
出生: 1873年
死去: 1919年8月13日
出身地: 安徽省懐寧県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 楊善德
簡体字 杨善德
拼音 Yáng Shàndé
和名表記: よう ぜんとく
発音転記: ヤン シェンドゥー
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楊善徳(よう ぜんとく)は清末民初の軍人。北京政府安徽派に属した。字は樹堂

事跡

北洋武備学堂第11期を卒業し、以後新建陸軍で軍歴を重ねた。1974年光緒30年)に第2鎮第5標標統、1906年(光緒32年)に第4鎮第7協協統、1908年(光緒34年)に浙江新軍混成協協統、1910年宣統2年)に浙江第41協協統、1911年(宣統3年)に第4鎮第7協協統と歴任している。

中華民国成立後、軍制改組に伴い、第4鎮は第4師に改組され、楊善徳が同師長に昇進した。1913年民国2年)9月、江蘇松江鎮守使に就任し、1915年(民国4年)11月、上海鎮守使を暫行兼任署理して、まもなく淞滬護軍使兼江蘇軍務会弁に遷った。その翌月に袁世凱が皇帝に即位すると、一等伯に封じられた。

袁世凱死後、楊善徳は段祺瑞率いる安徽派に属した。1917年(民国6年)1月、浙江督軍に任命され、段が大総統黎元洪により国務総理を罷免されると、段を擁護するために楊は浙江省独立を宣言した。同年7月、段の復権と共に、そのまま独立を取り消している。

1919年(民国8年)8月13日、在任中に病没。享年47。

参考文献

  • 来新夏ほか著『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年
  • 徐友春主編『民国人物大辞典』河北人民出版社、1991年
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年
 中華民国北京政府
先代
呂公望
浙江督軍
1917年1月 - 1919年8月
次代
盧永祥