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1285年、父王の死去を受けてシチリアの王位に即いた。さらに1291年に兄[[アルフォンソ3世 (アラゴン王)|アルフォンソ3世]]が死去するとアラゴン王位も継承した。その後シチリア奪還を目指す[[ナポリ王国|ナポリ]]王[[カルロ2世 (ナポリ王)|カルロ2世]]と争い、1296年に結んだ講和条約でハイメ2世はシチリア王位を放棄した。しかしシチリア人はその後継にハイメの弟[[フェデリーコ2世]]を選んだため、カルロ2世の望みは達成されなかった。
1285年、父王の死去を受けてシチリアの王位に即いた。さらに1291年に兄[[アルフォンソ3世 (アラゴン王)|アルフォンソ3世]]が死去するとアラゴン王位も継承した。その後シチリア奪還を目指す[[ナポリ王国|ナポリ]]王[[カルロ2世 (ナポリ王)|カルロ2世]]と争い、1296年に結んだ講和条約でハイメ2世はシチリア王位を放棄した。しかしシチリア人はその後継にハイメの弟[[フェデリーコ2世]]を選んだため、カルロ2世の望みは達成されなかった。


ハイメ2世は4度結婚している。最初の王妃は[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]王[[サンチョ4世 (カスティーリャ王)|サンチョ4世]]の王女イサベルであったが、サンチョ4世の死後ハイメ2世はカスティーリャに対する政策を同盟から干渉に変更したため離婚した。[[1295年]]に結婚した2番目の王妃は対立していたナポリ王カルロ2世の王女[[ブランカ・デ・ナポレス|ブランカ]]で、間に嫡子[[アルフォンソ4世 (アラゴン王)|アルフォンソ]]やイサベル(ドイツ王[[フリードリヒ3世 (ドイツ王)|フリードリヒ3世]]([[オーストリア]]公フリードリヒ1世)妃)をもうけた。[[1315年]]には[[キプロス王国|キプロス]]王[[ユーグ3世 (キプロス王)|ユーグ3世]]の王女マリーと、[[1322年]]にはカタルーニャ貴族エリセンダ・デ・モンカダと結婚したが、子供は生まれなかった。
ハイメ2世は4度結婚している。最初の王妃は[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]王[[サンチョ4世 (カスティーリャ王)|サンチョ4世]]の王女イサベルであったが、サンチョ4世の死後ハイメ2世はカスティーリャに対する政策を同盟から干渉に変更したため離婚した。[[1295年]]に結婚した2番目の王妃は対立していたナポリ王カルロ2世の王女[[ブランカ・デ・ナポレス|ブランカ]]で、間に嫡子[[アルフォンソ4世 (アラゴン王)|アルフォンソ]]やイサベル(ドイツ王[[フリードリヒ3世 (ドイツ王)|フリードリヒ3世]](美王)妃)をもうけた。[[1315年]]には[[キプロス王国|キプロス]]王[[ユーグ3世 (キプロス王)|ユーグ3世]]の王女マリーと、[[1322年]]にはカタルーニャ貴族エリセンダ・デ・モンカダと結婚したが、子供は生まれなかった。


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2009年2月6日 (金) 12:31時点における版

ハイメ2世スペイン語Jaime II, カタルーニャ語Jaume II, 1267年8月10日 - 1327年11月2日)は、アラゴン王国国王(在位:1291年 - 1327年)。はじめはシチリア王で、シチリア王としてはジャコモ1世イタリア語Giacomo I, 在位:1285年 - 1296年)。「公正王」(西:el Justo, カ:el Just, 伊:il Giusto)と呼ばれる。アラゴン王ペドロ3世(シチリア王としてはピエトロ1世)とその王妃であったシチリア王マンフレーディの王女コスタンツァの次男。

1285年、父王の死去を受けてシチリアの王位に即いた。さらに1291年に兄アルフォンソ3世が死去するとアラゴン王位も継承した。その後シチリア奪還を目指すナポリカルロ2世と争い、1296年に結んだ講和条約でハイメ2世はシチリア王位を放棄した。しかしシチリア人はその後継にハイメの弟フェデリーコ2世を選んだため、カルロ2世の望みは達成されなかった。

ハイメ2世は4度結婚している。最初の王妃はカスティーリャサンチョ4世の王女イサベルであったが、サンチョ4世の死後ハイメ2世はカスティーリャに対する政策を同盟から干渉に変更したため離婚した。1295年に結婚した2番目の王妃は対立していたナポリ王カルロ2世の王女ブランカで、間に嫡子アルフォンソやイサベル(ドイツ王フリードリヒ3世(美王)妃)をもうけた。1315年にはキプロスユーグ3世の王女マリーと、1322年にはカタルーニャ貴族エリセンダ・デ・モンカダと結婚したが、子供は生まれなかった。

先代
ピエトロ1世(大王)
シチリア王
1285年 - 1296年
次代
フェデリーコ2世
先代
アルフォンソ3世(自由王)
アラゴン王バルセロナ伯
1291年 - 1327年
次代
アルフォンソ4世(慈悲王)