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'''呉権'''(ごけん、[[ベトナム語]]: '''Ngô Quyền'''、ゴ・クエン、[[897年]] - [[944年]])は、[[ベトナム]][[呉朝]]の建国者で、'''前呉王'''と称された。若くして[[楊廷芸]]の下で将軍に任ぜられた。楊廷芸が[[矯公羨]]のために殺されると、呉権は[[938年]]12月に愛州で挙兵して、矯公羨を討った。矯公羨は[[南漢]]に救援を求めた。南漢は万王[[劉洪操]]を静海節度使に任じて、兵を発し、矯公羨を救援させた。劉洪操は水軍を率いてベトナムに侵攻したが、このときすでに矯公羨は呉権に殺されていた。呉権は劉洪操の侵攻を聞いて[[白藤江の戦い (938年)|白藤江で迎撃]]し、これを大いに破った。その後、呉権は王を称した。[[944年]]、世を去った。
'''呉権'''(ごけん、[[ベトナム語]]: '''Ngô Quyền'''、ゴ・クエン、[[897年]][[3月12日]] - [[944年]][[1月18日]])は、[[ベトナム]][[呉朝]]の建国者で、'''前呉王'''と称された。愛州出身。若くして[[楊廷芸]]の下で将軍に任ぜられた。楊廷芸が[[矯公羨]]のために殺されると、呉権は[[938年]]12月に愛州で挙兵して、矯公羨を討った。矯公羨は[[南漢]]に救援を求めた。南漢は万王[[劉洪操]]を静海節度使に任じて、兵を発し、矯公羨を救援させた。劉洪操は水軍を率いてベトナムに侵攻したが、このときすでに矯公羨は呉権に殺されていた。呉権は劉洪操の侵攻を聞いて[[白藤江の戦い (938年)|白藤江で迎撃]]し、これを大いに破った。その後、呉権は王を称した。[[944年]]、世を去った。

==人物==
呉権は長身のがっしりとした体格で、眼光が鋭く、歩くさまはまるで虎のようであったと言われている。ベトナムの伝説によると、生まれたときに異様な光に包まれていて、背中には大きなあざが三つあったとされる。将来大物になるということで、名を「権」と付けられた。力は一人で[[鼎]]を持ち上げることができるほどだったといわれている。

==参考文献==
*[[小倉貞男]]『物語ヴェトナムの歴史』中公新書、1997年。


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2009年2月4日 (水) 23:55時点における版

呉権(ごけん、ベトナム語: Ngô Quyền、ゴ・クエン、897年3月12日 - 944年1月18日)は、ベトナム呉朝の建国者で、前呉王と称された。愛州出身。若くして楊廷芸の下で将軍に任ぜられた。楊廷芸が矯公羨のために殺されると、呉権は938年12月に愛州で挙兵して、矯公羨を討った。矯公羨は南漢に救援を求めた。南漢は万王劉洪操を静海節度使に任じて、兵を発し、矯公羨を救援させた。劉洪操は水軍を率いてベトナムに侵攻したが、このときすでに矯公羨は呉権に殺されていた。呉権は劉洪操の侵攻を聞いて白藤江で迎撃し、これを大いに破った。その後、呉権は王を称した。944年、世を去った。

人物

呉権は長身のがっしりとした体格で、眼光が鋭く、歩くさまはまるで虎のようであったと言われている。ベトナムの伝説によると、生まれたときに異様な光に包まれていて、背中には大きなあざが三つあったとされる。将来大物になるということで、名を「権」と付けられた。力は一人でを持ち上げることができるほどだったといわれている。

参考文献

  • 小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史』中公新書、1997年。
先代
-
呉朝当主
初代:939年 - 944年
次代
楊紹洪