「雍仁親王妃勢津子」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
1行目: | 1行目: | ||
{{基礎情報 皇族・貴族 |
{{基礎情報 皇族・貴族 |
||
| 人名 = 雍仁親王妃 |
| 人名 = 雍仁親王妃勢津子 |
||
| 各国語表記 = |
| 各国語表記 = |
||
| 家名・爵位 = 秩父宮妃 |
| 家名・爵位 = 秩父宮妃 |
||
24行目: | 24行目: | ||
}} |
}} |
||
'''雍仁親王妃勢津子'''(やすひとしんのうひ せつこ、[[1909年]][[9月9日]] - [[1995年]][[8月25日]])は、[[日本]]の[[皇族]]。[[大正天皇]]の第二皇子である[[秩父宮雍仁親王]]の妃。 |
'''雍仁親王妃勢津子'''(やすひとしんのうひ せつこ、[[1909年]][[9月9日]] - [[1995年]][[8月25日]])は、[[日本]]の[[皇族]]。[[大正天皇]]の第二皇子である[[秩父宮雍仁親王]]の妃。旧名、'''松平節子'''(まつだいら せつこ)。成婚の際に雍仁親王の実母である[[貞明皇后]]の名「節子(さだこ)」の同字となること([[諱]])を避け、皇室ゆかりの[[伊勢]]と松平家ゆかりの[[会津]]から一字ずつ取り、同音異字の「'''勢津子'''」と改めた。 |
||
旧名は'''松平 節子'''(まつだいら せつこ)。成婚の際に雍仁親王の実母である[[貞明皇后]]の名「節子(さだこ)」の同字となること([[諱]])を避け、皇室ゆかりの[[伊勢]]と松平家ゆかりの[[会津]]から一字ずつ取り、同音異字の「'''勢津子'''」と改めた。 |
|||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
2009年1月20日 (火) 03:55時点における版
雍仁親王妃勢津子 | |
---|---|
秩父宮妃 | |
昭和3年(1928年)頃 | |
身位 | 親王妃 |
お印 | 菊 |
出生 |
1909年9月9日 イギリス |
死去 |
1995年8月25日 東京都 |
埋葬 | 豊島岡墓地 |
配偶者 | 秩父宮雍仁親王 |
父親 | 松平恒雄 |
母親 | 松平信子 |
役職 | 結核予防会総裁 |
雍仁親王妃勢津子(やすひとしんのうひ せつこ、1909年9月9日 - 1995年8月25日)は、日本の皇族。大正天皇の第二皇子である秩父宮雍仁親王の妃。旧名、松平節子(まつだいら せつこ)。成婚の際に雍仁親王の実母である貞明皇后の名「節子(さだこ)」の同字となること(諱)を避け、皇室ゆかりの伊勢と松平家ゆかりの会津から一字ずつ取り、同音異字の「勢津子」と改めた。
生涯
少女時代
旧會津若松藩主松平容保の六男で外交官の松平恒雄の長女。母は鍋島直大侯爵(佐賀藩十一代藩主)の娘・信子。
勢津子は父の任地イギリスで生まれ、父と共にワシントンの大使館で少女期を過ごし、米国ワシントンD.C.のフレンドスクール(現シドウェル・フレンズ・スクール)に学んだ。思春期にイギリス、アメリカでの在住が数年以上続いたいわゆる帰国子女で英語は流暢に話すことができ、外国人を前に英語でのスピーチはお手のものだったようであった。
女子学習院初等科3年の時、実業家樺山愛輔伯爵の次女正子と同級生となり、以後2人は生涯の友となった。 その正子によれば、勢津子は物事に寛容で、勉学に励む人であったという。 両家は仲が良く、愛輔はのちに貞明皇后の内意を受けて雍仁親王と勢津子の婚姻を取り持った。
秩父宮妃時代
1928年(昭和3年)9月28日、昭和天皇の皇弟・秩父宮雍仁親王と婚儀。当時の皇室典範では、皇族の妃は皇族もしくは華族である必要があったが、勢津子の父・恒雄の身分は平民であった。父の族籍のままでは皇族へ嫁ぐことができないため、勢津子妃は一旦、叔父・松平保男子爵(海軍少将)の養女となり、華族としての身分を得てから婚儀に臨んだ。
「逆賊」「朝敵」の領袖である松平容保の孫にあたる勢津子の皇室への入輿は、会津士族の徹底的な復権に繋がり、当然会津人の感激は並ならぬものであったという。大正天皇の四皇子(昭和天皇・雍仁親王・高松宮宣仁親王・三笠宮崇仁親王)のうち、崇仁親王妃百合子を除く三親王妃(香淳皇后・勢津子・宣仁親王妃喜久子)は、いずれも幕末の将軍もしくは大物佐幕派(久邇宮朝彦親王・松平容保・徳川慶喜)の孫であり、本人たちもそれを笑い話にしていたと言われる。
1939年(昭和14年)に香淳皇后の令旨により、勢津子妃を総裁として結核予防会が設立される。しかし皮肉にも翌年、秩父宮が結核を発病。総裁就任にあたり結核について学び、雍仁親王の様子が結核の初期症状に似ていることに気づくが、医師の診断でもなかなか断定は出来ず発見が遅れてしまった。翌1941年(昭和16年)より秩父宮の療養のため御殿場で生活を送り、ここで終戦を迎える。
親王の代わりに公務を務めたり、看病をするも、秩父宮は1953年(昭和28年)1月4日に肺結核で薨去。 残された勢津子妃は結核予防会総裁を長年にわたり務め、1957年(昭和32年)には秩父宮記念診療所を開設した。その後も一人で宮家を守り続けるが、1995年(平成7年)8月25日、85歳の生涯を閉じて豊島岡墓地の雍仁親王と同じ墓に葬られた。
秩父宮家は勢津子の死去により絶家となった。また遺言により、平成8年(1996年)に御殿場別邸が御殿場市へ遺贈された。その後平成15年(2003年)になって秩父宮記念公園として開園された。
家系
東京銀行会長の任に在った実兄・松平一郎は、徳川宗家第十七代当主・家正の娘・豊子を夫人に迎え、自身の甥で徳川宗家第18代当主・恒孝をもうけた。
高松宮妃喜久子とは、義姉妹でありながらも、実は、四従姉妹でもある(勢津子の祖父松平容保と喜久子の祖父徳川慶喜がはとこ同士である為。容保の祖父松平義和と慶喜の祖父徳川治紀が兄弟)。
逸話
- 1971年にイギリスのJ.ハークネスから捧げられた、プリンセスチチブという名のオレンジピンクの薔薇に、その名を付けられていることでも有名。
- 雍仁親王は日本アルプスを好み、肺結核に罹病する前はよく登山に訪れた。現地でのガイドは「上高地の常サ」(内野常次郎(1884年~1949年))が付くのが恒例であった。山の主である常サは勢津子を「オカミサン」と呼んで周囲をハラハラさせたが、秩父宮は逆に「常さん、おかみさんでいいよ」と言ったとされる。
- 香淳皇后、宣仁親王妃喜久子と共に、明仁親王と正田美智子の結婚については反対の立場で一致しており、『東宮様のご縁談について、平民からとはけしからんとのことで、皇后様(香淳皇后)が喜久君様(宣仁親王妃喜久子)と勢津君様(雍仁親王妃勢津子)をお呼びになってお訴えになった由』(昭和天皇の侍従長・入江相政の日記より)。また、母で貞明皇后の御用係も務めた松平信子も、明仁親王と正田美智子の結婚に猛反対していた(彼女たちの美智子に対する個人的な常軌を逸した激しい嫌悪感と同時に、この結婚が戦後の旧皇族の臣籍降下(=皇籍離脱)や華族令の廃止などに続く「上流社会の没落の流れの象徴」とされていたことによる)。“松平信子、宮崎白蓮らが民族団体(右翼団体)を動かして、ご婚儀反対を叫んだりしたよし”の記載が入江日記にある。なお信子は、女子学習院の同窓会組織『常盤会』の会長を務め、旧皇族・旧華族の婦人の代表を自認しており、娘の勢津子と共に反美智子派旧皇族・旧華族婦人の領袖であり続けた。
- しかし、旧会津藩士池上四郎を曽祖父に持つ文仁親王妃紀子のことは、美智子とは反対に 実の孫のように非常に可愛がっていた。勢津子逝去後、旧秩父宮邸が現秋篠宮邸となり、紀子が結核予防会総裁に就任したことなどの背景には、勢津子の紀子に対する深い好感情も少なからずあるといわれる。
- 年来のかかりつけの美容師が吉行あぐり。勢津子逝去まで顧客と美容師としてのよき付き合いが続いた。
- 子女は無い。秩父宮が青森県弘前市・陸軍第八師団歩兵第31連隊に勤務中の1935年末に一度、懐妊兆候が確認されたが、翌1936年2月の二・二六事件発生直後、秩父宮とともに弘前から上京、厳寒の列車旅行が身体に障り流産した経験がある。
著作
- 『銀のボンボニエール』(主婦の友社、1991年) ISBN 407937190X
- 『銀のボンボニエール-親王の妃として』(講談社+α文庫、1994年) ISBN 4062560712
参考文献
- 秩父宮殿下御成婚記念会『秩父宮と勢津子妃』(渡辺出版、2003年) ISBN 4902119013
- 1928年(昭和3年)9月28日の秩父宮夫妻の成婚を祝福し刊行された非売品限定出版物の復刻版。
- 『秩父宮妃勢津子の生涯』 江間守一著 (ぬぷん 1996年) ISBN 4889756012