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'''小原 鑑元'''(おばら あきもと、生年不詳 - [[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]]))神五郎 四郎左衛門尉 遠江守 遠江入道宗惟。[[小原右並]]の子。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。[[大友氏]]の家臣。[[阿南氏]]の庶流で阿南荘小原(現大分県[[由布市]])を本貫とする。
'''小原 鑑元'''(おばら あきもと、生年不詳 - [[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]]))神五郎 四郎左衛門尉 遠江守 遠江入道宗惟。[[小原右並]]の子。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。[[大友氏]]の家臣。[[阿南氏]]の庶流で阿南荘小原(現大分県[[由布市]])を本貫とする。


[[天文 (日本)|天文]]19年(1550年)[[二階崩れの変]]の際[[大友義鑑]]の遺書に[[雄城治景]]・[[吉岡長増]]・[[田北鑑生]]・[[臼杵鑑続]]・[[志賀親守]]とともに連署。[[大友義鎮]]の加判衆(家老)となる。
[[天文 (日本)|天文]]19年([[1550]])[[二階崩れの変]]の際[[大友義鑑]]の遺書に[[雄城治景]]・[[吉岡長増]]・[[田北鑑生]]・[[臼杵鑑続]]・[[志賀親守]]とともに連署。[[大友義鎮]]の加判衆(家老)となる。


同年大友家のの混乱に乗じて[[隈本城]]に入った[[菊池義武]]を[[佐伯惟教]]らとともに攻め[[肥後国]]を平定した。天文20年(1551年)[[南関城]]に入り肥後方分となる。
同年大友家のの混乱に乗じて[[隈本城]]に入った[[菊池義武]]を[[佐伯惟教]]らとともに攻め[[肥後国]]を平定した。天文20年([[1551]])[[南関城]]に入り肥後方分となる。


== 謀反 ==
== 謀反 ==
弘治2年(1556年)5月、大友家中の他紋衆(大友氏が豊後国へ来る前からここに領地を持って住んでいた武家のこと)を糾合し、大友庶家である同紋衆重用の政策に反対して挙兵した。同紋衆と他紋衆の反目は大友家中に以前から有り、あえて義鑑は加判衆の半数を他紋衆から選ぶように遺言していた。しかし義鎮は同紋衆を重用し、鑑元は肥後平定後加判衆から外されていた。
弘治2年(1556年)5月、大友家中の他紋衆(大友氏が豊後国へ来る前からここに領地を持って住んでいた武家のこと)を糾合し、大友庶家である同紋衆重用の政策に反対して挙兵した。同紋衆と他紋衆の反目は大友家中に以前から有り、あえて義鑑は加判衆の半数を他紋衆から選ぶように遺言していた。しかし義鎮は同紋衆を重用し、鑑元は肥後平定後加判衆から外されていた。


他紋衆の挙兵は[[府内]]でも起き一時は当主義鎮も要害の[[丹生島城]]へ避難する事態となったが、志賀・戸次・吉弘・田北ら同紋衆の働きにより、ともに挙兵した[[本庄新左衛門尉]]、[[中村長直]]らは豊後で討ち取られ、佐伯惟教は伊予に逃亡した。勇将である鑑元は南関城に籠城し城兵を叱咤して奮戦したが、城に火をかけられるにおよんで妻子を手に掛け、城兵とともに城外に打って出て討死した。
他紋衆の挙兵は[[大友氏館]]のある[[府内]]でも起き一時は当主義鎮も要害の[[丹生島城]]へ避難する事態となったが、志賀・戸次・吉弘・田北ら同紋衆の働きにより、ともに挙兵した[[本庄新左衛門尉]]、[[中村長直]]らは豊後で討ち取られ、佐伯惟教は伊予に逃亡した。勇将である鑑元は南関城に籠城し城兵を叱咤して奮戦したが、城に火をかけられるにおよんで妻子を手に掛け、城兵とともに城外に打って出て討死した。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2009年1月6日 (火) 00:30時点における版

小原 鑑元(おばら あきもと、生年不詳 - 弘治2年(1556年))神五郎 四郎左衛門尉 遠江守 遠江入道宗惟。小原右並の子。戦国時代の武将。大友氏の家臣。阿南氏の庶流で阿南荘小原(現大分県由布市)を本貫とする。

天文19年(1550年二階崩れの変の際大友義鑑の遺書に雄城治景吉岡長増田北鑑生臼杵鑑続志賀親守とともに連署。大友義鎮の加判衆(家老)となる。

同年大友家のの混乱に乗じて隈本城に入った菊池義武佐伯惟教らとともに攻め肥後国を平定した。天文20年(1551年南関城に入り肥後方分となる。

謀反

弘治2年(1556年)5月、大友家中の他紋衆(大友氏が豊後国へ来る前からここに領地を持って住んでいた武家のこと)を糾合し、大友庶家である同紋衆重用の政策に反対して挙兵した。同紋衆と他紋衆の反目は大友家中に以前から有り、あえて義鑑は加判衆の半数を他紋衆から選ぶように遺言していた。しかし義鎮は同紋衆を重用し、鑑元は肥後平定後加判衆から外されていた。

他紋衆の挙兵は大友氏館のある府内でも起き一時は当主義鎮も要害の丹生島城へ避難する事態となったが、志賀・戸次・吉弘・田北ら同紋衆の働きにより、ともに挙兵した本庄新左衛門尉中村長直らは豊後で討ち取られ、佐伯惟教は伊予に逃亡した。勇将である鑑元は南関城に籠城し城兵を叱咤して奮戦したが、城に火をかけられるにおよんで妻子を手に掛け、城兵とともに城外に打って出て討死した。

関連項目