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2008年12月13日 (土) 15:41時点における版

旧ヴェリーキエ・ルーキ要塞の敷地内にある第二次世界大戦記念碑
ファイル:VLuki pamatnikMatrosovu.jpg
ソ連邦英雄アレクサンデル・マトロソフの記念碑
市の紋章

ヴェリーキエ・ルーキ(ヴェリキエ・ルキ、ロシア語:Вели́кие Лу́ки;ラテン文字表記: Velikiye Luki / Velikie Luki)はロシアプスコフ州南部の町。蛇行しながら流れるロヴァチ川の河畔にある。街の名は、「大きな蛇行」を意味する。人口は104,979人(2002年国勢調査)で、プスコフ州では2番目に大きな都市でありヴェリーキエ・ルーキ空港もある。南にはロシアとベラルーシの国境がある。

ヴェリーキエ・ルーキの名は1166年の年代記に初出する。1211年ノヴゴロド公国が城が建設し、プスコフノヴゴロドの南を守る戦略的に重要な都市となった。1478年イヴァン3世の統治するモスクワ大公国に併合された。リューリク朝断絶後の大動乱の時代、この街は僭称者偽ドミトリー1世偽ドミトリー2世の支配下に置かれ、1611年の戦いで完全破壊されたが1619年に再建された。

17世紀にはロシアはヴェリーキエ・ルーキを拠点に南のリトアニア大公国への侵入を繰り返しポラツク(ポロツク)やヴィチェプスク(ヴィテブスク)などを征服したが、ポーランド・リトアニア連合の反撃によりヴェリーキエ・ルーキはリトアニア領となり、1772年ポーランド分割で再びロシア領となった。20世紀初頭にモスクワリガを結ぶ鉄道が建設され、サンクトペテルブルクオデッサを結ぶ鉄道も西郊を通ることから、鉄道路線の集中する街としても繁栄した。

第二次世界大戦では、1941年1942年、ロヴァチ川や東西南北への鉄道が走るヴェリーキエ・ルーキ周辺はドイツ軍とソ連軍の激戦地となった。1942年末のヴェリーキエ・ルーキの戦いでは、街に立て篭もる7,000人ほどのドイツ軍部隊がソ連軍に包囲された。数ヶ月間にわたりスターリングラード攻防戦にも匹敵する激しい攻囲戦・市街戦が行われたが、包囲された部隊を救援する作戦にも失敗したドイツ軍は1943年1月に降伏した。この戦闘で街並みは完全に破壊された。

ヴェリーキエ・ルーキはソ連邦元帥コンスタンチン・ロコソフスキーの出生地とされる。またソ連邦英雄となった兵士アレクサンデル・マトロソフはこの地に眠っている。この近くの村で生まれた音楽家モデスト・ムソルグスキーの記念館は町、からほど近い湖のそばに建っている。

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