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慶長14年([[1609年]])12月12日、家康の10男・[[徳川頼宣]]が50万石で入封したことから、駿府藩が復活する。ただし、頼宣は幼少の上、家康がなおも駿府城で幕政を見ていたことから、実際は家康の補佐を受けて頼宣が藩主になったものであり、藩政も[[本多正純]]や[[安藤直次]]ら家康の側近によって行なわれていた。[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])7月19日、家康没後、頼宣は[[紀伊国|紀伊]][[紀州藩|和歌山藩]]に移封され、駿府藩は廃藩となった。
慶長14年([[1609年]])12月12日、家康の10男・[[徳川頼宣]]が50万石で入封したことから、駿府藩が復活する。ただし、頼宣は幼少の上、家康がなおも駿府城で幕政を見ていたことから、実際は家康の補佐を受けて頼宣が藩主になったものであり、藩政も[[本多正純]]や[[安藤直次]]ら家康の側近によって行なわれていた。[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])7月19日、家康没後、頼宣は[[紀伊国|紀伊]][[紀州藩|和歌山藩]]に移封され、駿府藩は廃藩となった。


[[寛永]]2年([[1625年]])1月11日、第3代将軍・[[徳川家光]]の弟・[[徳川忠長]]が駿河・遠江・甲斐などに50万石で封じられたことから、駿府藩が再立藩される。忠長は将軍後継をめぐって家光と争った経緯から不仲であり、さらに寛永7年([[1630年]])には[[浅間神社]]の神獣とされる猿を捕殺したり、寛永8年([[1631年]])には家臣や侍女を多数惨殺したりするなどの乱行が目立ったことから、5月29日に発狂したとして[[上野国|上野]][[高崎藩]]に蟄居の身とされ、父の[[徳川秀忠]]没後の寛永9年([[1632年]])10月20日には兄によって[[改易]]された。このとき、忠長の家臣の多くも連座により改易されている。そして寛永10年([[1633年]])12月6日、忠長は高崎で自害した。
[[寛永]]2年([[1625年]])1月11日、第3代将軍・[[徳川家光]]の弟・[[徳川忠長]]が駿河・遠江・甲斐などに50万石で封じられたことから、駿府藩が再立藩される。忠長は将軍後継をめぐって家光と争った経緯から不仲であり、さらに寛永7年([[1630年]])には[[静岡浅間神社|浅間神社]]の神獣とされる猿を捕殺したり、寛永8年([[1631年]])には家臣や侍女を多数惨殺したりするなどの乱行が目立ったことから、5月29日に発狂したとして[[上野国|上野]][[高崎藩]]に蟄居の身とされ、父の[[徳川秀忠]]没後の寛永9年([[1632年]])10月20日には兄によって[[改易]]された。このとき、忠長の家臣の多くも連座により改易されている。そして寛永10年([[1633年]])12月6日、忠長は高崎で自害した。


忠長改易後、駿府藩は廃藩となり、以後は[[天領]]として[[江戸幕府]]直属の[[旗本]]が[[駿府城代]]として赴任する駿河城番時代が続いた。
忠長改易後、駿府藩は廃藩となり、以後は[[天領]]として[[江戸幕府]]直属の[[旗本]]が[[駿府城#駿府城代|駿府城代]]として赴任する駿河城番時代が続いた。


=== 明治時代 ===
=== 明治時代 ===
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徳川忠長時代の駿府藩は、忠長の乱行が目立っているが、その重臣である[[朝倉宣正]]や[[鳥居成次]]らによって無難なく行なわれている。
徳川忠長時代の駿府藩は、忠長の乱行が目立っているが、その重臣である[[朝倉宣正]]や[[鳥居成次]]らによって無難なく行なわれている。


天領時代の駿は、駿府定番として幕府直属の大身旗本などが赴任し、旗本の知行地となっている。
天領時代の駿は、駿府城代として幕府直属の大身旗本などが赴任し、の知行地となっている。この駿府城代が、駿府定番・駿府在番・駿府加番などとともに[[番方]]を務める一方で、[[遠国奉行#駿府町奉行|駿府町奉行]]・[[代官]]が[[役方]]を務めた


徳川家達時代の静岡藩の職制は、江戸幕府の役職をそのまま名前だけ変えて踏襲したものが大半だった。また、家達が幼少のため、準中老に[[大久保一翁]]、幹事役に[[勝海舟]]や[[山岡鉄舟]]らが任じられ、政務が行なわれている。ちなみに政府との交渉は、新政府寄りである勝海舟によって行なわれた。しかし、江戸時代の幕府天領・旗本領の総計約700万石と比べて十分の一の石高での立藩であり、新たな俸禄で生活可能な人数を超える旧幕臣や郎党が移住したため、その生活扶助のために藩の財政は早くも悪化した。そのため旧幕臣の[[渋沢栄一]]が起用され財政再建が行われた。
徳川家達時代の静岡藩の職制は、江戸幕府の役職をそのまま名前だけ変えて踏襲したものが大半だった。また、家達が幼少のため、準中老に[[大久保一翁]]、幹事役に[[勝海舟]]や[[山岡鉄舟]]らが任じられ、政務が行なわれている。ちなみに政府との交渉は、新政府寄りである勝海舟によって行なわれた。しかし、江戸時代の幕府天領・旗本領の総計約700万石と比べて十分の一の石高での立藩であり、新たな俸禄で生活可能な人数を超える旧幕臣や郎党が移住したため、その生活扶助のために藩の財政は早くも悪化した。そのため旧幕臣の[[渋沢栄一]]が起用され財政再建が行われた。

2008年11月29日 (土) 16:38時点における版

駿府藩(すんぷはん)は、駿府城(現在の静岡県静岡市葵区)を中心に静岡県駿河遠江愛知県三河の地域に江戸時代前期と明治初期に短期間だけ存在したである。なお、明治2年8月7日1869年9月12日)には静岡藩(しずおかはん)と改称されている。

略歴

江戸時代

駿河は戦国時代今川氏の支配にあったが、武田信玄駿河侵攻で今川氏が没落すると、甲斐武田氏の支配下に入った。天正10年(1582年)3月に武田氏が滅亡すると、徳川家康の支配下に入る。天正18年(1590年)の小田原征伐で家康が武蔵に移封されると、駿河には豊臣秀吉の家臣・中村一氏が入る。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、中村一忠(一氏の子)は東軍に与して武功を挙げたことから、伯耆米子藩に移封さた。

慶長6年(1601年)2月に伊豆韮山より徳川氏譜代の家臣・内藤信成は4万石で入ったことにより、駿府藩は立藩した。

慶長11年(1606年)4月3日、信成は近江長浜藩に移封され、代わって大御所となった徳川家康が、駿府城に隠居城として入ったため、駿府藩は廃藩となった。なお、家康は幕政を執行する立場にあったことから、駿河の政務は家康の側近である大久保長安伊奈忠次井出正次らによって行なわれている。

慶長14年(1609年)12月12日、家康の10男・徳川頼宣が50万石で入封したことから、駿府藩が復活する。ただし、頼宣は幼少の上、家康がなおも駿府城で幕政を見ていたことから、実際は家康の補佐を受けて頼宣が藩主になったものであり、藩政も本多正純安藤直次ら家康の側近によって行なわれていた。元和5年(1619年)7月19日、家康没後、頼宣は紀伊和歌山藩に移封され、駿府藩は廃藩となった。

寛永2年(1625年)1月11日、第3代将軍・徳川家光の弟・徳川忠長が駿河・遠江・甲斐などに50万石で封じられたことから、駿府藩が再立藩される。忠長は将軍後継をめぐって家光と争った経緯から不仲であり、さらに寛永7年(1630年)には浅間神社の神獣とされる猿を捕殺したり、寛永8年(1631年)には家臣や侍女を多数惨殺したりするなどの乱行が目立ったことから、5月29日に発狂したとして上野高崎藩に蟄居の身とされ、父の徳川秀忠没後の寛永9年(1632年)10月20日には兄によって改易された。このとき、忠長の家臣の多くも連座により改易されている。そして寛永10年(1633年)12月6日、忠長は高崎で自害した。

忠長改易後、駿府藩は廃藩となり、以後は天領として江戸幕府直属の旗本駿府城代として赴任する駿河城番時代が続いた。

明治時代

慶応3年(1867年)の大政奉還により、江戸幕府は滅亡した。慶応4年(1868年)1月の戊辰戦争で徳川氏は明治新政府に敗れ、第15代将軍・徳川慶喜は朝敵となる。しかし閏4月29日、新政府の中核の1人である三条実美は徳川氏の存続に尽力し、慶喜に代わって田安亀之助(徳川家達)を徳川氏の相続者とし、5月24日には駿河・遠江・陸奥などで70万石を与えたのである。こうして、駿府藩が再立藩された。ちなみに、陸奥の領地は9月4日に三河に変更されている。

明治2年(1869年)6月、府中藩の府中は「不忠」に通じるとして、静岡と改名し、藩名も静岡藩となった。直後の6月17日、家達は版籍奉還により静岡藩知事に任じられた。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県で静岡藩は廃藩となり、静岡県浜松県額田県に分散編入された。

藩主家である徳川氏は、明治17年(1884年)に公爵となった。

藩政

内藤信成時代の駿府藩の内情は短期間のため、史料が少なく、藩政は詳しく分かっていない。

徳川頼宣時代の駿府藩は、大御所である家康のもと、その側近によって東海道の整備、金山開発、検地、駿府城の改築などが行なわれ、藩政の基礎が固められた。なお、家康は駿府を江戸の西を守る要衝と考えていたようで、駿府城は家康時代に大規模な改築がなされている。

徳川忠長時代の駿府藩は、忠長の乱行が目立っているが、その重臣である朝倉宣正鳥居成次らによって無難なく行なわれている。

天領時代の駿府は、駿府城代として幕府直属の大身旗本などが赴任し、その知行地となっている。この駿府城代が、駿府定番・駿府在番・駿府加番などとともに番方を務める一方で、駿府町奉行代官役方を務めた。

徳川家達時代の静岡藩の職制は、江戸幕府の役職をそのまま名前だけ変えて踏襲したものが大半だった。また、家達が幼少のため、準中老に大久保一翁、幹事役に勝海舟山岡鉄舟らが任じられ、政務が行なわれている。ちなみに政府との交渉は、新政府寄りである勝海舟によって行なわれた。しかし、江戸時代の幕府天領・旗本領の総計約700万石と比べて十分の一の石高での立藩であり、新たな俸禄で生活可能な人数を超える旧幕臣や郎党が移住したため、その生活扶助のために藩の財政は早くも悪化した。そのため旧幕臣の渋沢栄一が起用され財政再建が行われた。

歴代藩主

内藤家

4万石。譜代

  1. 内藤信成(のぶなり)【慶長6年2月藩主就任-慶長11年4月3日移封】

家康直轄領

  • 慶長12年7月3日から元和2年4月17日まで。

徳川(紀州)家

50万石。親藩

  1. 徳川頼宣(よりのぶ)【慶長14年12月12日藩主就任-元和5年7月19日移封】

天領

  • 元和5年から寛永2年まで。

徳川家

50万石。親藩。

  1. 徳川忠長(ただなが)【寛永2年1月11日藩主就任-寛永9年10月20日改易】

天領

  • 寛永10年から慶応4年まで。

徳川家

70万石。徳川本家。

  1. 徳川家達(いえさと)【慶応4年5月24日藩主就任-明治4年7月14日廃藩置県】

関連項目