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2008年11月25日 (火) 19:48時点における版

原田 嘉種(はらだ よしたね、1584年 - 没年不詳)は、高祖城主。原田信種の長男。弟に原田種房がいる。

原田伊予の名で有名(役職が伊予守だった)。

父・信種が亡くなると家督をついで加藤清正に仕えた。しかし清正と対立し、領地没収のうえ追放処分となってしまった。

その後、弟と寺沢広高に2000石(種房は500石)で仕えるようになった。天草の乱時、富岡城で一揆軍と戦って退かせたという。

ところが、寺沢堅高島原の乱によって改易処分となり、再び浪人となった。後に江戸に上り、天海と出会い、天海の紹介で会津藩保科正之に手厚く迎えられ、2000石で仕えるようになったという。