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== 生涯 ==
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[[豊臣政権]]での経歴は不明ながら、[[]]字から[[豊臣秀次]]に付属されていた時期があると思われる。[[五奉行]]の第3席にあり、[[石田三成]]とともに[[豊臣氏|豊臣家]]の行政全般を担った[[増田長盛]]の子が次代の行政担当者、宿老見習いとして豊臣家の後継者である秀次に付属させられるのは何ら不思議ではない。


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[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]で父長盛が西軍に付き、増田家は[[改易]]、長盛は[[流罪]]に処されたが、盛次は[[徳川家康]]、次いでその子である[[尾張藩]]主・[[徳川義直]]に仕える。慶長19年([[1614年]])の[[大坂の役|大坂冬の陣]]では徳川方として戦功をあげた。


しかし突然徳川家を出奔して、[[大坂城]]に入城する。旧知の士の誘いを受けたものか、理由は未詳である。しかしこのことにより、父長盛は家康より死を賜ることになる。
しかし突然[[徳川氏|徳川家]]を出奔して、[[大坂城]]に入城する。旧知の士の誘いを受けたものか、理由は未詳である。しかしこのことにより、父長盛は家康より死を賜ることになる。


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慶長20年([[1615]])5月6日[[長宗我部盛親]]隊に属し八尾に進軍。徳川方の[[藤堂高虎]]隊と交戦する。始めは優勢であったが、その後形勢は逆転。長宗我部隊は撤退を余儀なくされる。盛次が[[殿 (軍事用語)|殿軍]]を務めたが、藤堂隊の追撃は激しく、藤堂家臣の[[磯野行尚]]([[浅井氏|浅井家]]に仕えた[[磯野員昌]]の孫)に討ち取られてしまった。[[享年]]不詳。諱字と関ヶ原後すぐに家康に仕えていることから、[[天正]]末期から[[文禄]]年間には元服していたものと思われ、没年は30代と推測される
享年不詳。諱字と関ヶ原後すぐに家康に仕えていることから、天正末期から文禄年間には元服していたものと思われ、没年は30代と推測される。


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2008年11月7日 (金) 12:19時点における版

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時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 不詳
死没 慶長20年5月6日1615年6月2日
別名 宗重
官位 兵部大輔
主君 豊臣秀次?→徳川家康義直
尾張国尾張藩
氏族 増田氏
父母 父:増田長盛

増田 盛次(ました もりつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。宗重。兵部大輔を称した。増田長盛の子。

生涯

豊臣政権での経歴は不明ながら、字から豊臣秀次に付属されていた時期があると思われる。五奉行の第3席にあり、石田三成とともに豊臣家の行政全般を担った増田長盛の子が次代の行政担当者、宿老見習いとして豊臣家の後継者である秀次に付属させられるのは何ら不思議ではない。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで父長盛が西軍に付き、増田家は改易、長盛は流罪に処されたが、盛次は徳川家康、次いでその子である尾張藩主・徳川義直に仕える。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では徳川方として戦功をあげた。

しかし突然徳川家を出奔して、大坂城に入城する。旧知の士の誘いを受けたものか、理由は未詳である。しかしこのことにより、父長盛は家康より死を賜ることになる。

慶長20年(1615年)5月6日、長宗我部盛親隊に属し八尾に進軍。徳川方の藤堂高虎隊と交戦する。始めは優勢であったが、その後形勢は逆転。長宗我部隊は撤退を余儀なくされる。盛次が殿軍を務めたが、藤堂隊の追撃は激しく、藤堂家臣の磯野行尚浅井家に仕えた磯野員昌の孫)に討ち取られてしまった。享年不詳。諱字と関ヶ原後すぐに家康に仕えていることから、天正末期から文禄年間には元服していたものと思われ、没年は30代と推測される。