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'''馮習'''(ふうしゅう、[[182年]]?-[[222年]])は、[[後漢]]末期から[[三国時代]]の人で、[[蜀]]の[[武将]]。[[字]]は'''休元'''。
'''馮習'''(ふうしゅう、[[182年]]?-[[222年]])は、[[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の人で、[[蜀]]の[[武将]]。[[字]]は'''休元'''。


[[荊州]]南郡の人。[[劉備]]とともに[[益州]]へ侵攻した。[[221年]]の[[呉 (三国)|呉]]討伐([[夷陵の戦い]])では劉備から領軍将軍に任命され諸軍を指揮した。馮習は[[呉班]]とともに呉将の[[李異]]・[[劉阿]]らを打ち破った。222年、[[陸遜]]の反撃を受けて軍は大敗し、自身も乱戦の中で[[潘璋]]に斬られた。
[[荊州]]南郡の人。[[劉備]]とともに[[益州]]へ侵攻した。[[221年]]の[[呉 (三国)|呉]]討伐([[夷陵の戦い]])では劉備から領軍将軍に任命され諸軍を指揮した。馮習は[[呉班]]とともに呉将の[[李異]]・[[劉阿]]らを打ち破った。222年、[[陸遜]]の反撃を受けて軍は大敗し、自身も乱戦の中で[[潘璋]]に斬られた。

2008年11月1日 (土) 12:38時点における版

馮習(ふうしゅう、182年?-222年)は、後漢末期から三国時代の人で、武将休元

荊州南郡の人。劉備とともに益州へ侵攻した。221年討伐(夷陵の戦い)では劉備から領軍将軍に任命され諸軍を指揮した。馮習は呉班とともに呉将の李異劉阿らを打ち破った。222年、陸遜の反撃を受けて軍は大敗し、自身も乱戦の中で潘璋に斬られた。

三国志蜀書楊戯季漢輔臣賛では、蜀軍があのような惨めな大敗を喫したのは、呉軍を侮っていたためであると厳しく非難している。