「鍋島直泰」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
3行目: 3行目:
名ゴルファーとして知られ、1933年から1935年の日本アマチュア選手権に3連覇、1ラウンドで2度ホールインワンを記録するなどの記録で知られる。また、蝶の研究・収集などでも有名。
名ゴルファーとして知られ、1933年から1935年の日本アマチュア選手権に3連覇、1ラウンドで2度ホールインワンを記録するなどの記録で知られる。また、蝶の研究・収集などでも有名。


夫人は[[朝香宮鳩彦王]]第一王女 紀久子(1911年-1989年)。嫡子は直要(なおもと・1936年-2008年・鍋島報效会会長、日本ゴルフ協会常任理事)。
夫人は[[朝香宮鳩彦王]]第一王女 [[朝香宮紀久子女王|紀久子]](1911年-1989年)。嫡子は直要(なおもと・1936年-2008年・鍋島報效会会長、日本ゴルフ協会常任理事)。


直泰は自動車マニアとしても知られ、1935年には[[イスパノ・スイザ]]K6をベアシャシー(ボディがない状態)で輸入、自邸内の小屋で自らデザインした2ドアクーペボディを、約半年かけて日本人職人に製作・架装させた。完成当初のボディカラーはナス紺と溜色(小豆色)のコンビネーションだったと言われるが、その後も昭和40年頃まで、塗色の変更、ホイールカバーの取り外し(ワイアホイールをそのまま見せる)、バンパーを二分割にする等の改良を積み重ね、死去するまでナンバーを付けて時折実用に供し続けた。このイスパノ・スイザは1983年、長男直要(なおもと)が[[佐賀県立博物館]]に管理を委託、約25年間にわたり、同博物館1階ホールに展示されていたが、2008年になって[[トヨタ博物館]]に寄託されることになった。
直泰は自動車マニアとしても知られ、1935年には[[イスパノ・スイザ]]K6をベアシャシー(ボディがない状態)で輸入、自邸内の小屋で自らデザインした2ドアクーペボディを、約半年かけて日本人職人に製作・架装させた。完成当初のボディカラーはナス紺と溜色(小豆色)のコンビネーションだったと言われるが、その後も昭和40年頃まで、塗色の変更、ホイールカバーの取り外し(ワイアホイールをそのまま見せる)、バンパーを二分割にする等の改良を積み重ね、死去するまでナンバーを付けて時折実用に供し続けた。このイスパノ・スイザは1983年、長男直要(なおもと)が[[佐賀県立博物館]]に管理を委託、約25年間にわたり、同博物館1階ホールに展示されていたが、2008年になって[[トヨタ博物館]]に寄託されることになった。

2008年9月10日 (水) 06:30時点における版

鍋島 直泰(なべしま なおやす、1907年明治40年)10月3日 - 1981年昭和56年)5月1日)は旧佐賀藩主・鍋島家の13代当主。12代直映の嫡男。学習院東京帝国大学を卒業、宮内省式部官を務めた後、1943年(昭和18年)に家督を相続・侯爵を襲爵し貴族院議員となり、貴族院の廃止までその任にあった。

名ゴルファーとして知られ、1933年から1935年の日本アマチュア選手権に3連覇、1ラウンドで2度ホールインワンを記録するなどの記録で知られる。また、蝶の研究・収集などでも有名。

夫人は朝香宮鳩彦王第一王女 紀久子(1911年-1989年)。嫡子は直要(なおもと・1936年-2008年・鍋島報效会会長、日本ゴルフ協会常任理事)。

直泰は自動車マニアとしても知られ、1935年にはイスパノ・スイザK6をベアシャシー(ボディがない状態)で輸入、自邸内の小屋で自らデザインした2ドアクーペボディを、約半年かけて日本人職人に製作・架装させた。完成当初のボディカラーはナス紺と溜色(小豆色)のコンビネーションだったと言われるが、その後も昭和40年頃まで、塗色の変更、ホイールカバーの取り外し(ワイアホイールをそのまま見せる)、バンパーを二分割にする等の改良を積み重ね、死去するまでナンバーを付けて時折実用に供し続けた。このイスパノ・スイザは1983年、長男直要(なおもと)が佐賀県立博物館に管理を委託、約25年間にわたり、同博物館1階ホールに展示されていたが、2008年になってトヨタ博物館に寄託されることになった。

参考文献