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'''関 長政'''(せき ながまさ)は、[[江戸時代]]の[[大名]]。[[美作国|美作]][[津山藩#宮川藩|宮川藩]]の初代[[藩主]]。[[新見藩]]関家初代。


慶長17年(1612年)、美作[[津山藩]]主・森忠政の重臣・関成次の次男として生まれる。忠政は実子が早世していたため、その死後は忠政の娘を生母とする兄・森長継が第2代藩主として後を継いだ。このため、兄より1万8700石を分与されて津山藩の支藩である宮川藩を立藩する。なお、立藩の時期は『[[徳川実紀]]』によれば[[寛永]]11年([[1634年]])、『[[恩栄録]]』によれば寛永14年([[1637年]])、『[[寛政重修諸家譜]]』では[[承応]]元年([[1652年]])と諸説あって明確ではない。
慶長17年(1612年)、美作[[津山藩]]主・森忠政の重臣・関成次の次男として生まれる。忠政は実子が早世していたため、その死後は忠政の娘を生母とする兄・森長継が第2代藩主として後を継いだ。このため、兄より1万8700石を分与されて津山藩の支藩である宮川藩を立藩する。なお、立藩の時期は『[[徳川実紀]]』によれば[[寛永]]11年([[1634年]])、『[[恩栄録]]』によれば寛永14年([[1637年]])、『[[寛政重修諸家譜]]』では[[承応]]元年([[1652年]])と諸説あって明確ではない。

2008年8月24日 (日) 04:02時点における版

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時代 江戸時代前期
生誕 慶長17年8月1日1612年8月27日
死没 元禄11年7月16日1698年8月21日
美作宮川藩主
氏族 関氏森氏
父母 父:関成次、母:森忠政の娘
兄弟 森長継関長政関衆之
正室:真田信吉の娘
養子:関長治、養女(松平康雄室)
養女(毛利元次室)

関 長政(せき ながまさ)は、江戸時代大名美作宮川藩の初代藩主新見藩関家初代。

慶長17年(1612年)、美作津山藩主・森忠政の重臣・関成次の次男として生まれる。忠政は実子が早世していたため、その死後は忠政の娘を生母とする兄・森長継が第2代藩主として後を継いだ。このため、兄より1万8700石を分与されて津山藩の支藩である宮川藩を立藩する。なお、立藩の時期は『徳川実紀』によれば寛永11年(1634年)、『恩栄録』によれば寛永14年(1637年)、『寛政重修諸家譜』では承応元年(1652年)と諸説あって明確ではない。

元禄2年(1689年)6月6日、甥で養子の関長治に家督を譲って隠居する。元禄11年(1698年)に死去。享年87。

先代
-
関氏(宮川藩初代)藩主
? - 1689年
次代
関長治