「堀江景忠」の版間の差分

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== 出自 ==
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[[家伝]]によると、[[堀江氏]]([[堀江氏 (藤原氏)|堀江氏]])は[[藤原利仁|利仁流]][[斎藤氏|河合斎藤氏]]の系統であり、[[鎌倉時代]]から[[越前国]][[坂井郡]]河口荘堀江郷(現在の[[あわら市]]周辺)に有力[[国人]]として、土着拠点したとされる。また堀江氏の家伝として、確実な史料からは[[応永]]3年([[1398年]])に[[興福寺]]の配下として活動した人物として、「[[堀江賢光]]」の名前が見える。
[[家伝]]によると、[[堀江氏 (藤原氏)|堀江氏]]([[堀江氏]])は[[藤原利仁|利仁流]][[斎藤氏|河合斎藤氏]]の系統であり、[[鎌倉時代]]から[[越前国]][[坂井郡]]河口荘堀江郷(現在の[[あわら市]]周辺)に有力[[国人]]として、土着拠点したとされる。また堀江氏の家伝として、確実な史料からは[[応永]]3年([[1398年]])に[[興福寺]]の配下として活動した人物として、「[[堀江賢光]]」の名前が見える。


その後、堀江氏は興福寺から離反し、守護である[[斯波氏]]の配下として[[三国湊]]の代官などを務めるなど大きな勢力を誇るが、本家筋は[[長禄]]年間の斯波氏と守護代の[[甲斐氏]]の争いの中で没落した可能性が高い。一方で、傍流がその後越前に勃興した朝倉氏に仕えることとなったと考えられている。朝倉氏のもとで堀江氏は有力な国衆の一人として一乗谷内にも屋敷を持ち(『[[一乗谷古絵図]]』)、坂井郡三国湊の舟奉行を勤めるなど重用されている。
その後、堀江氏は興福寺から離反し、守護である[[斯波氏]]の配下として[[三国湊]]の代官などを務めるなど大きな勢力を誇るが、本家筋は[[長禄]]年間の斯波氏と守護代の[[甲斐氏]]の争いの中で没落した可能性が高い。一方で、傍流がその後越前に勃興した朝倉氏に仕えることとなったと考えられている。朝倉氏のもとで堀江氏は有力な国衆の一人として一乗谷内にも屋敷を持ち(『[[一乗谷古絵図]]』)、坂井郡三国湊の舟奉行を勤めるなど重用されている。

2008年8月1日 (金) 11:57時点における版

堀江 景忠(ほりえ かげただ、? - 天正4年(1576年)?)は、朝倉氏の家臣。堀江景用(かげもち)の子。中務丞と称す。堀江利茂の父。

出自

家伝によると、堀江氏堀江氏)は利仁流河合斎藤氏の系統であり、鎌倉時代から越前国坂井郡河口荘堀江郷(現在のあわら市周辺)に有力国人として、土着拠点したとされる。また堀江氏の家伝として、確実な史料からは応永3年(1398年)に興福寺の配下として活動した人物として、「堀江賢光」の名前が見える。

その後、堀江氏は興福寺から離反し、守護である斯波氏の配下として三国湊の代官などを務めるなど大きな勢力を誇るが、本家筋は長禄年間の斯波氏と守護代の甲斐氏の争いの中で没落した可能性が高い。一方で、傍流がその後越前に勃興した朝倉氏に仕えることとなったと考えられている。朝倉氏のもとで堀江氏は有力な国衆の一人として一乗谷内にも屋敷を持ち(『一乗谷古絵図』)、坂井郡三国湊の舟奉行を勤めるなど重用されている。

生涯

景忠の生年は明らかではないが、弘治元年(1555年)の朝倉宗滴を総大将とする加賀一向一揆攻めに従軍、戦功をあげたことが見える。

永禄7年(1564年)に朝倉軍は加賀へ再度侵攻し、翌年、翌々年も一向一揆勢との合戦が続いたが、この最中、景忠は子の利茂と共に一向一揆に通じ、朝倉義景に対し謀叛を企てた。

永禄10年(1567年)3月、堀江氏謀叛が噂にのぼると、3月12日、一向一揆勢が加賀から越前へ来襲し朝倉軍と激戦を繰り広げた。一方、堀江氏の館(あわら市下番)には3月18日に魚住景固山崎吉家が大将として出陣、激しく攻め立てたが、容易に勝敗がつかず、結局、堀江父子を能登に亡命させることで事件の決着を見た。

なお、朝倉景鏡の讒言により景忠父子が失脚させられたという説は、事前に一向一揆の攻撃が始まっていること、亡命後の景忠に対し顕如から感状が出されていることから疑わしいと言わざるを得ない。

その後、景忠は「幸岩斎藤秀」と改名し、朝倉氏滅亡後、一向一揆が支配するところとなった越前に舞い戻り、杉津砦の守将をまかされるが、織田勢に寝返り、一揆勢を壊滅させた。

織田信長は藤秀の戦功を賞して、息子の利茂に加賀大聖寺の所領を与えた。しかし、藤秀は恩賞に不満をもっていたらしく、それが信長の耳に入り天正4年(1576年)4月に誅殺されたという(異説あり)。