「阪神・淡路大震災」の版間の差分

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=== 建造物・交通 ===
=== 建造物・交通 ===
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2008年7月13日 (日) 09:36時点における版

ファイル:阪神淡路大震災343.jpg
湊川熊野橋東側すぐ南・トポス東山店前
中山手通 にしむら珈琲店前
ファイル:阪神淡路大震災(東急ハンズあたり)337.jpg
生田新道 東急ハンズ三宮店東側
ファイル:阪神淡路大震災 二ノ宮 神戸経理コンピューター学院前Akiyoshi's RoomImg336.jpg
二宮・神戸経理コンピューター専門学校近く

阪神・淡路大震災(はんしん・あわじだいしんさい、英称Great Hanshin-Awaji Earthquake)は、1995年(平成7年)1月17日火曜日兵庫県南部地震によって発生した大規模災害である。

「阪神・淡路大震災」は、政府により閣議了承された名称である。

概要

1995年(平成7年)1月17日午前5時46分52秒、淡路島北部(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として発生したM7.3の兵庫県南部地震は、淡路島ならびに阪神間神戸芦屋西宮宝塚尼崎伊丹豊中川西池田など)の兵庫県を中心に大きな被害をもたらした。特に、神戸市市街地は壊滅状態に陥った。

地震による揺れは、阪神間及び淡路島の一部において震度7の揺れを観測したほか、東は小名浜、西は佐世保、北は新潟、南は鹿児島までの広い範囲で有感(震度1以上)となり、福井地震を上回る、戦後日本で最大最悪・未曾有の震災となった。この地震はまた、初めて震度7が適用された地震でもある。近畿地方では、1927年の「北丹後地震」を超える死者となった。被害の特徴としては、都市の直下で起こった地震による災害であるということが挙げられる。

命名

1月17日の災害発生当時、気象庁は命名規定[1]に基づき、地震を「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」(The South Hyogo prefecture Earthquake in 1995)と命名。しかし、気象庁による正式命名に先立って毎日新聞が「阪神大震災」と呼び始めていた。他の報道機関のなかにもこれに追随する動きがではじめた。

一方、朝日新聞日刊スポーツでは「関西大震災」と呼称していたこともある。

その後、政府が、今回の災害の規模が大きい事に加えて今後の復旧に統一的な名称が必要であるという観点から、淡路島地区の被害も大きかったことにより、災害名を「阪神・淡路大震災」と呼称する事が2月14日の閣議によって口頭了解された。2月24日には、5年間の時限立法として「阪神・淡路大震災復興の基本方針及び組織に関する法律(平成7年法律第12号)」が制定(即日施行)された。この時に「阪神・淡路大震災」と呼ばれるようになる。

この名称については、「阪神」にも「淡路」にも該当しない明石市などからの批判もある。また、「大阪市と神戸市および中間地域」「両市を含まない中間地域」いずれの意味においても「阪神」という言葉は被害の実態に全く即していない。

被害

死者:6,437名 行方不明者:3名 負傷者:43,792名

死者の内訳は、県内6,402名(99.5%)・県外32名(0.5%)

負傷者のうち重傷者は県内10,494名(98.2%)・県外189名 (1.8%)
軽傷者:県内29,598名(89.4%)・県外3,511名(10.6%)

死者の県内県外の比率から見て県内の負傷者数は混乱のなか、正確には数えることができなかったと推定される。

  • 避難人数 : 30万名以上
  • 住家被害 : 全壊104,906棟、半壊144,274棟、全半壊合計約25万棟(約46万世帯)、一部損壊390,506棟
  • 火災被害 : 住家全焼6,148棟、全焼損(非住家・住家共)合計7,483棟、罹災世帯9,017世帯
  • その他被害 : 道路10,069箇所、橋梁320箇所、河川430箇所、崖崩れ378箇所
  • 被害総額 : 10兆円規模

[2] 都市型震災としては、大都市を直撃した東南海地震以来であり、道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などのライフラインは寸断されて広範囲において全く機能しなくなった。これ以降、都市型災害および、地震対策を語る上で、「ライフライン」の早期の復旧、「活断層」などへの配慮、建築工法上の留意点、「仮設住宅」「罹災認定」等の行政の対策などが注目されるようになった。

元々、日本は地震大国であり、日本の大型建築物は大地震にも堪えられない構造であるとわかり、1982年には大幅な建築基準法の改正が行われた、。しかし、日本の建造物は安全であると報道されることが多く、安全と誤解している市民も多かった。しかし、1982年以前に建てられたビルマンション病院鉄道の駅舎などでも広範囲にわたって倒壊・全半壊が多くみられた。

特に神戸市の長田区においては、木造住宅が密集していた地域を中心に火災の被害が甚大で、地震直後に発生した火災に伴う火災旋風が確認されている。これにより、近隣の建物に次々と延焼して須磨区東部から兵庫区にかけても6,000棟を越す建物が焼失した。

消火活動では上水道の断水が発生している。わずかな防火貯水槽を探しているうちに炎が延焼して被害が大きくなる結果となった。消防士が、断水により消防水がでないホースを持って炎の近くに立ちつくす姿が報道映像として残されている。

当時の消防局には、進出路の瓦礫を除去して消防車を現場へ啓開する車両・消防ヘリコプターが十分に配備されておらず、現場への到着が遅れて重要な初期消火に失敗している。そして、各地の消防車が応援に来ても消火栓とホースの規格が合わず消火出来なかった事が問題になった。

また、瓦礫の下の被災者を救出する車両が不充分であったほか、ドクターヘリ(救急ヘリ)での搬送も少なかった(62人/1週間(内、17人/3日間))[3]ゆえに、負傷者の救出・搬送が遅れることとなった。走行する自動車によって道路上の消火ホースが踏まれるという問題もみられた。震災後、兵庫県・神戸市においては、防火貯水槽が整備されて消防へのヘリコプターの活用が検討されている。

西宮市仁川では、住宅街に面した造成斜面において大規模な地すべりが起こり、34名が犠牲になった[4]

これほどの大きな被害であったのにもかかわらず、多くの研究者・専門家の間においては、「犠牲者については、地震が冬季の未明の発生であったために最低限である6,000人に抑えられている」との意見がある。もしも、地震が数時間後の通勤時間に発生していたとすると死者は、20,000人を超えていたとみられている。また、老朽木造瓦屋根が無くなった場合は、死者は1/10に減少すると言われている。

死者は関東大震災の10万人に比べると約1/16である。これは被災地域が関東大震災より狭かったこともあるが、大正時代に比べると建築物の不燃化が進んでいること、住宅の耐震性が高くなったことも大きい。

ファイル:柏井ビル倒壊の推移Img335 b.jpg
柏井ビル倒壊 推移1傾いていた頃
ファイル:柏井ビル倒壊の推移②Img348.jpg
柏井ビル倒壊 推移2 完全に倒壊したビル

建造物・交通

阪神高速道路神戸線の倒壊は、震災の甚大な被害を象徴するものとして世界中の新聞の一面に大きく掲載された。ロマ・プリエタ地震(サンフランシスコ)、ノースリッジ地震(ロサンゼルス)など、世界では倒壊した高速道路の例があったが、当時、日本の高速道路・高架道路は安全であると一部で誤解があった。実際には危険を察知して建築基準法が改正されていた。海外での高速道路の倒壊も縦揺れに弱い構造であったため、それらを教訓として生かされていなかったことが大きな被害へといたったことになる。「倒壊した高速道路が、倒壊する寸前に波打っていた」という目撃談話が報道番組において報じられている。前述の神戸市東灘区深江地区においての高速道路の倒壊は、手抜き工事が原因しているとみられている例でもある。山陽新幹線においても橋脚の倒壊と倒壊箇所の調査から手抜き工事の痕跡が見つかっている。

一方、地下神戸高速鉄道東西線大開駅が崩壊したために、その上の国道28号において陥没が発生した。直後の交通規制などが迅速に行われずに国道43号国道2号山手幹線などの神戸方面に至る主要幹線道路において大規模な渋滞が発生した(規制をしなかった理由としては、この時の警察の方針が倒壊家屋などからの人命救助を優先していたためである)。

また高速道路と同様、当時「地下鉄道は地震に強い」という風潮があったが、大開駅周辺は軟弱地盤かつ開削工法であったために、震動に揺さぶられて中間柱が崩壊したと考えられている。

被災地区を運行する鉄道路線のうち、最も南を走行する阪神電気鉄道本線は主に、東灘区から灘区における高架構造である区間に大きな被害を受けている。

御影駅西方の留置線の車輌が横転して大きく損壊した。石屋川車庫も崩壊して地震の発生が早朝であったために前夜から留置されていた多数の車輌が崩壊に巻き込まれて損傷した。これは、この高架構造の区間が高度経済成長期の1967年に竣工した物件であり、耐震構造が十分ではなかったことが原因の一つとして指摘されている。
また、この区間においては、数箇所におよんで道路をまたぐ鉄橋が落下して南北にいたる道路が遮断された。その後、日本各地の橋梁において落下を防止するための補強工事が行われる契機ともなっている。
三宮付近の地下区間で運行中に被災した車輌と合わせて、41輌もの車輌が廃棄され、一度、車庫自体を全て解体撤去した後に、工事を翌年までかけて再建せざるを得なかった。

同じ高架構造の駅舎であるホームに電車を留置した状態であった阪急伊丹線伊丹駅東海道本線JR神戸線六甲道駅の崩壊した映像は、阪神高速道路が倒壊した映像と共にこの震災を象徴することとなった。

収益源である神戸港も被害を受けて多くの埠頭の使用が不可能となった。また、神戸市中央区ポートアイランド東灘区六甲アイランド、芦屋市の芦屋浜、尼崎市の築地地区など埋め立て地を中心に地面が軟弱化する液状化現象が見られた。このために、海からの支援なども難しい状態となってしまった。

当時、建設中であった明石海峡大橋は、地震による直接的な被害は無かったものの、全長が1m伸びるという事態が発生した。大橋の淡路側の山上にフランス革命200周年記念事業に、日仏友好モニュメントが建設予定であったが休止されている。

都心部にある神戸市役所は、第2庁舎の6階部分が潰れている。当時、須磨区にあったラジオ関西の本社も被災し、敷地内の仮設スタジオに移転したのち1996年6月に現在のハーバーランドへと移転した。

また、神戸新聞本社が置かれていた三宮の神戸新聞会館も同じく被害に遭って本社を西区の制作センター(印刷工場)に仮移転するとともに編集業務はダイヤニッセイビル(ハーバーランド)で仮構築し、1996年7月に神戸情報文化ビルへと正式に移転する。ただし、新本社への移転は震災以前からの既定方針で、同ビルも建設中だった。

ビル ・マンション・病院

建築基準法が厳しくなった1982年以降に建築されたビルには被害が少なかった。超高層ビルにおいては被害は殆どなかった。 老朽化したビル・一階が駐車場のビル・マンションの物件では被害も多かったものの、幸いにも死者は少なかった。一部の鉄筋コンクリートのマンションでは、火災が発生していたが当然ながら、隣戸に延焼することはなかった。三宮駅北側の三宮日本生命ビルの5階も崩壊した。また、傾いた状態でいた柏井ビルが、翌朝の余震によって完全にフラワーロードに横倒しになったが死者は出なかった。

長田区にある神戸市立西市民病院も中層階が圧壊して入院中の患者が閉じ込められる状態になった。そのため患者一名が死亡した。また、多くの病院に多大な数の負傷者が搬送されて病院は軽度の入院患者については当日中に早期退院、または、地方に転院させるなどして病床をできるだけ確保しているが全く充足できずにロビーや待合室にソファーや布団を敷き詰めて病室とするなどの緊急処置をとっている。それでも、十分に対応しきれていなかった。また、医師の数も不足し、治療を待っている間に息絶えた人もいた。

ファイル:阪神淡路大震災(兵庫区会下山町辺り)Img345.jpg
木造家屋の多い兵庫区・長田区の被害は特に甚大で、火災が多く発生した(兵庫区会下山町辺り)

約5000人は木造家屋の下敷きで即死

死者の80%相当、約5000人は木造家屋が倒壊し、家屋の下敷きになって即死した。特に一階で就寝中に圧死した人が多かった。また2階建て木造住宅の場合、屋根瓦と2階の重みで、1階の柱が折れてつぶれるケースが多かった。 2階の場合は、生存のスペースが残りやすい。建物が倒壊しても生存のスペースがある場合は、死者は少なかった。 老朽木造建造家屋がなければ、死者は1/10になっていたと言われる。

約600人が家具の転倒で圧死

震災の犠牲者6434人のおよそ1割に当たる約600人が、室内家具の転倒による圧死と推定する調査(山口大・大田教授のグループ)があった。

瓦屋根、木造、日本家屋の危険性

日本瓦を使い、基礎が石に柱を載せただけで、筋交いの少ない老朽化した木造住宅でも多くの死者が出たため、以降、神戸においては新築の屋根はほとんどみられなくなった。日本の伝統構法の流れを汲む木造軸組構法の住宅に被害が集中し、新しい住宅においても筋交いなどが不十分であった物件は大きな被害を受けている。坂本功著の『木造建築を見直す』という書において「死亡者のうち5,000人近くは、軸組構法の住宅の下敷きによって圧死した」と述べている。しかし重要なのは、「構造的に問題のある建築に瓦屋根のものが多かった」ことにも拘らず、一般的には「瓦が重いから問題」であると誤解され、地震以降、関西では瓦屋根が少なくなってしまった。

倒壊した家屋

古い木造住宅は年月の経過によって乾燥している点や、耐火材を使っていないなどの理由による火災の被害も多い。これは、神戸地区の木造住宅は、地震よりも台風に対応した木造住宅であり、振動に弱く瓦部分が重かったことにも起因している。なお、筋交いを多く入れてある木造住宅においては耐震性も十分にある。また、同じ木造住宅でも、プレハブやツーバイフォー(木造枠組壁構法)と呼ばれる構法の住宅が耐震性を示している。3階建住宅の被害も殆どなかった。

建築基準法

耐震性を考慮に入れて建築基準法が改正された1982年以降に建築された物件の被害が少なかったことが報告されている。結果的に、改正された建築基準法の有効性が証明されることになった。倒壊して死者のでた住宅は、1982年以前の建築物件で、当時の建築基準法により、設計されていて耐震性が弱かったともいえる。震災後も、1996年、2000年、2006年に建築基準法は改正されている。

危険な合法住宅の問題点

違法かどうかは、建造時の建築基準法が適用されるため旧い住宅の場合は、 耐震性が無く危険な住宅であっても違法とはならない。

耐震性のない住宅が、合法であるため多くの犠牲者が出たと言われている。 日本では耐震性のない古い木造住宅が1000万戸有ると言われている。

復興

全国からさまざまな形の「救援・支援」が寄せられている。救援物資・義捐金・ボランティア活動のほか、インフラストラクチャーの復興には他府県の電力会社・ガス会社などの多くの職員が復興応援のために現地入りした。

街の復興

復興事業は、ライフラインの復旧を最優先として行われた。電気は、早期の復旧が可能であったが地下に埋まっている水道・ガスの復旧に時間が掛かり、4月末まで続いていた。

復興支援物資の輸送も全国各地において受付けられた。また、交通網も至る所で寸断されていた。大量の復興支援物資を早急に送るため、復旧よりも残された道路を優先的に整備して被災地と大阪市を結んでいた。

神戸近郊の道路においても、「神戸市に行く」と言えば交通整理などで最優先に通行させてもらえるなど復興活動を支援する場面が見受けている。

建造物の本格的な復興事業が開始されたのは翌月に入ってからである。この頃には多くの機材・人材が全国から駆けつけて瓦礫の撤去や再建をサポートしていた。

ウォーターフロントの地盤が陥没した岸壁に仮設の桟橋を設けて大阪と神戸を結び、疎開する人・復興支援者の負担を少しでも軽減する努力を行っている。また、残された海岸を利用して医療物資などの搬入を優先的に行っていた。多くの手助けのもと、2年後の1997年3月31日に、全ての埠頭・コンテナバースが復旧した。そして、同年5月19日に神戸港復興宣言が発表された。

復興支援活動

3月7日には、東京日本武道館にて有志のミュージシャンによるチャリティーコンサート「MARCH OF THE MUSIC」が開催されて収益が全額寄附された。公演に参加しなかった多くのミュージシャンも、自らのコンサートやラジオ番組での募金などの取り組みがなされた。復興と重なり合って日本のジャズ教育が活発化する拠点ともなっている(神戸はジャズが日本での第一歩を記した地として知られる)。

中央競馬では6月3日、4日の京都競馬(1月21日、22日中止分の代替開催。4日にはGI宝塚記念が行われた)、翌年1996年7月7日の中山阪神(前年同様宝塚記念が組み入れられた)、札幌競馬が復興支援開催として催されて馬券の売り上げの一部が寄附された。

当時放送がスタートしたばかりの「とんねるずのハンマープライス」(関西テレビ制作・全国ネット)では、番組開始後すぐに震災が発生したことから、番組のコンセプトである落札で得た収益を「震災復興支援資金」として日本赤十字社等を通じて寄贈することとなった。チャリティーオークションの盛んな欧米の著名人から出品の協力を得られることにもつながり、日本にチャリティーオークションが広く知られる機会にもなった。

ボランティア活動

地震直後に現地において被災者支援のボランティア活動に参加した人の数は一日平均2万人超、3ヶ月間で延べ117万人とも言われる。被災地でのボランティア活動(専門ボランティア・情報ボランティアを含む)の重要度に対する一般の認識も飛躍的に高まった。現地には行かずに被災負傷者の為の献血義捐金拠出・物資提供などの後方支援に携わった人々も含めると参加人数はさらに増えるものと見られる。

このために、この年は日本における「ボランティア元年」とも言われる。後に、内閣は1月17日を「防災とボランティアの日」、17日を中心とした前後3日の計7日間を「防災とボランティア週間」と定めた。

防災

震災当時の状態が保存されている神戸港震災メモリアルパーク浜手バイパスの奥に見える阪神高速神戸線も倒壊した。2004年2月撮影

この地震が大惨事となった最大の理由は、老朽木造瓦屋根の住宅が多かったことであるが、その他の理由の一つに、近畿地方では他の地方に比べて地震の発生が少なかった事が挙げられる。地震の専門家の一部は、小さい規模の地震すら起こらないことで、エネルギー(歪み)の蓄積が起こっており、ひとたび地震が発生した場合には規模の大きなものになる危険性をはらんでいる事を指摘していた。

しかし、「近畿地方は地震が少ない。仮に起こったとしてもそんなに大きな地震ではないだろう」といった”実体験”による過信(ただし、歴史文献を紐解けば、実際には、近畿地方は、幾度も巨大地震に襲われている。「地震の年表」も参照されたい)から、「近畿地方では大きな地震は起こらない」とする誤まった認識の広まり、または、地震自体を意識することが少なく専門家の指摘を信用する人間も少なかった。

ゆえに、地震対策は震度5を想定しており、防災については地震対策よりもむしろ「阪神大水害」の教訓から水害を重視した防災計画が作成されていたとみられる。

それまでの大地震の発生する構造については、太平洋プレートフィリピン海プレート日本海溝南海トラフにおいてユーラシアプレートの下に滑り込み、そのプレートの跳ね返りによって発生するもの(海溝型地震)ばかりが注目されて活断層のずれによる大地震の発生はさほど注目されていなかった。

実際に、これらのプレートの境界の近くに位置する東海地方においては、大地震(東海地震、東南海地震など)の発生する可能性が最も高い地域として防災訓練や建造物の補強など徹底した対策が取られてきた。その一方で、近畿地方では無警戒に近い状態であった。

北海道東北地方北陸地方などの豪雪地帯であれば、地震の多発地帯以外でも、「」という重量物が屋根の上に積み重なる前提に家屋が建てられるために、結果的に「地震」など揺れにも強い構造となることがいわれている。ただし、2004年新潟県中越地震において豪雪地帯の建物が少なからず倒壊・損壊した事で、耐雪構造と耐震構造を分けて考える必要性が指摘されるようになっている。

すべてではないが、その後のビルディングも含めた物件を建築や補修する際には、阪神・淡路大震災における被害を教訓とした上に最低限度の耐震性を考慮した構造に変わっていっている。また、前述の「高架構造になっている高速道路や一般道路、鉄道などの橋脚」の構造上の脆弱さが指摘され、順次、行政主導のもとで補強工事が施工されていった。

この地震の原因である活断層は、全国に広く分布している。しかし、現在においても、大地震を正確かつ厳密に予知することは不可能であり、「活断層上の建造物の耐震性」「地盤の強弱」を前提とした補修、建築であっても、地震発生の際の被害予測は非常に難しい。

「地震に起因する火災(特にもらい火)」などは、多くの火災保険では填補除外条項とされているケースが多く、採算性の問題も含めて改善が進んでいない。そのため、この震災を機会に地震保険への注目が集まるようになった。

そういった諸問題も含めてこの「大震災」は日本の災害対策上重要な位置を占めている。

兵庫県は、以上の教訓を踏まえて神戸市中央区に人と防災未来センターを建設した。なお、新潟県中越地震による新潟県への別館建設も検討中である。また、震災の記録を残すため、津名郡北淡町(現・淡路市北部)には兵庫県南部地震の震源となった野島断層を保存する北淡震災記念公園が、神戸市中央区のメリケンパークには崩壊したメリケン波止場を保存する神戸港震災メモリアルパークが整備された。

救助活動

消防・自衛隊による救助活動

ファイル:阪神淡路大震災(消火活動・)346.jpg
消火活動。消防は、人員も足らず、ほとんど手の付けようがなかった(兵庫区)。

地震発生後、消防・警察・自衛隊などの各組織は救助活動に入っている。消防庁が調整を行って全国から消防部隊が現地に送られていたが、交通渋滞に巻き込まれずに到着したものはほとんどなかった。現地消防、警察においては、自身が被害を受けていることもあり、初期における救助活動は円滑とはいえなかった。このほか、淡路島においては、消防団および、近隣住民が中心となった救助活動が行われた。

自衛隊については、阪急伊丹駅へ近傍派遣(災害派遣)を行った第36普通科連隊を除き、神戸市中心部への災害派遣は直ちにはなされなかった。第36普通科連隊は、「近傍派遣」(自衛隊法第八十三条三項)によって出動しているが、他の部隊は知事の要請(自衛隊法第八十三条一項)の待機状態になっていた。

貝原俊民・兵庫県知事(当時)からの災害派遣要請はすぐに行われなかったが、これは各所轄の警察署単位で調べていた被害情報を、兵庫県警本部の警備部がまとめていたのに連絡を怠り、貝原知事にまで伝達されなかったことが最大の原因であった。例えば兵庫県警東灘署だけでも午前8時に「死者100名以上、行方不明者数百名」という情報を把握していたにもかかわらず、兵庫県警警備部が知事への報告を地震発生後2回しか行わず、午前10時の段階で知事に伝わっていた兵庫県全体の被害情報は「死者4名」というあまりに現実とかけ離れたものだった。(JNN報道特別番組「失われた街で~阪神大震災から1ヵ月」=1995年2月17日放送によるスクープ)。貝原知事は「被害情報が正しく伝えられていれば、即座に自衛隊派遣要請を出来ていた」と同番組の取材に対して答えている。

知事から自衛隊への情報提供は、災害派遣要請時に自衛隊法施行令第百六条によって規定されており、この中で、知事の派遣要請は警察や消防への急報と違い、日時と場所、部隊規模を指定してなされなければならないとされている。”とにかく来てくれ”では自衛隊も対応できない。

こうした状況把握の混乱から、派遣要請は、地震発生から4時間後に自衛隊との電話が偶然つながった野口一行・兵庫県消防交通安全課課長補佐(当時)の機転で行われ、知事へは事後承諾となった。これを教訓に、都道府県知事や市町村長または、警察署長などからも要請が行えるようになったことが、後に福知山線脱線事故の発生時の救出活動に大いに役立つこととなる。

また、神戸市担当の部隊が姫路市の第3特科連隊(現・第3特科隊)であり、神戸市まで距離があったことも、自衛隊の現地到着が遅れたことの原因の一つとされている。

内閣・国政の対処遅れ

官邸をはじめとする政府、国の機関も被害地域の惨状を把握するのにテレビ・ラジオが最大の情報源であったため、村山富市内閣総理大臣日本社会党)の大規模派遣がなかなか指示されなかった事から対応が後手に回った。

「官邸をはじめとする政府、国の機関はもとより、地元の行政機関、防災関連機関にとってもテレビ・ラジオが最大の情報源であった。国土庁が独自に情報収集手段を持たず、また関係省庁からの情報の集約を十分に行えなかったことから情報が官邸に十分伝わらなかったという制度上の問題点が指摘された。」[5]

村山首相は、なぜ自衛隊派遣が遅れたのかを衆議院本会議において問われ、「なにぶんにも初めてのことですので」と答弁。この村山内閣の対応の遅れは強い批判を浴び、内閣の支持率低下につながった。

出動した自衛隊も、交通渋滞や被災者がひしめく中で、部隊の移動・集結・宿営地の造営に手間取り、現地に到着したLC(Liaison Officer、連絡幹部)が状況を把握してから大規模な災害派遣部隊が現地に展開されて救助活動を開始するまでに3日間を要した(政治判断に3日を要したわけではない)。

最も早く救援体制を敷いた米海軍第7艦隊(横須賀)が、「艦艇を神戸港に入港させてのヘリコプターによる負傷者の救援」を政府に申し入れたところ、神戸市の受け入れ体制の未整備、政治的理由、接岸施設の被災による危険性などの要因により、拒否する事態を発生することとなった。しかし、この対応が特別であったわけではなく、当初から、各国からの支援の申し出にも政府として対応できていなかった。

日本が地震多発地帯であるにもかかわらず、前述の被害地域の惨状を把握する手段が十分に講じられていなかったこと、危機管理体制の欠如、縦割り行政といった行政上の様々な弊害が現れた。

兵庫県からの自衛隊への災害派遣要請が、発生後4時間以上も後であったことは前述のとおりであるが、県知事からの派遣要請がなされていない事を知った高見裕一新党さきがけ議員)も、携帯電話によって東京の議員会館にいる秘書を通じ、防衛庁に緊急要請を行った際、東京では「”大げさだ”」「非公式」「未確認情報」との認識しかされていなかった。[6]

民間企業・組織による活動

国政の対応が遅れる一方で、神戸に本社を構えていたスーパーマーケット大手のダイエーや、コンビニエンスストア大手のセブン-イレブン、当時ダイエー傘下だったローソンなどの小売企業は、地震発生3時間以内に救援物資や食料などを他地域からヘリ空輸するなど、非常に早い対応を行った。一部の露店などで見られた、食料品などの異常な値段高騰のストップにも一役買っている。

支援活動としては、一番乗りの救世軍、神戸に総本部を置く日本最大の暴力団組織・山口組、阪神地域で強い影響力を有する宗教団体PL教団創価学会といった組織・団体が、食料や飲用水の供給・トイレ・風呂・避難場所の提供などの積極的な支援を行った。その他、石原プロ渡哲也社長・渡瀬恒彦兄弟や、河島英五嘉門達夫ジャイアント馬場と言った関西にゆかりがある芸能タレント・文化人も現地入りし、炊き出しや支援を個人単位で行った者もいる。

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三宮 東門辺り

震災の影響

救助組織

この災害によって消防・レスキューの得た経験は、消防無線における全国共通波の増波、緊急消防援助隊広域緊急援助隊消防救助機動部隊(ハイパーレスキュー隊)、救助機動中隊の発足と整備につながる。後の、新潟県中越地震2004年10月)やJR福知山線脱線事故2005年4月)においても大きく貢献することとなった。また、1995年3月の地下鉄サリン事件と合わせ、自衛隊の災害援助の意味での機能が注目され、国民の自衛隊に対する好感が、震災以前と比べて格段に大きくなり、自衛隊が必要であるという世論も大きくなった。

一方で、災害援助では装備や組織の問題によって充分に機能し得ないので「必要な組織は、装備のほとんどが武器・兵器の自衛隊ではなく災害救助隊だ」という意見や、「蓋然性の低い大災害に対応する官僚組織を戦争・災害の別建てで設立するのは予算の無駄であるので自衛隊の災害救助装備機能をもっと充実させるべきだ」という意見も出されている。[7]

さらに、報道陣に怠慢を責められて「まさか、関西で大地震が起こるとは思わなかった」という(「まさかの大災害」への平時からの準備が重要という危機管理の初歩を理解していない)釈明をしたために新聞などによって批判をされた。しかし、これは当時の自治省の指導にも不備があったうえ、現在においても自治体の防災規定に対する総務省の指導は不徹底で、同様の事態が別の自治体で起こりうるとの指摘もある。さらに、多くの死者が出たにも拘らず、地方・国官僚制内部での追跡調査と不作為責任の追及はうやむやにされて報道陣の前で頭を下げただけで終わっているとの指摘もある。

竹下内閣からこの村山内閣まで、7人の総理大臣に仕えた元内閣官房副長官・石原信雄(現・官邸機能強化会議座長)は「前例のない未曾有の災害で、かつ法制度の未整備な状態では、村山以外の誰が内閣総理大臣であっても迅速な対応は不可能であった。」と述べた。[8]

震災から12年経過した2007年の政府・官房長官の記者会見においても「多くの犠牲になられた方々に改めてご冥福をお祈りしたい。防災体制はあれ以来、強化を図っているが、改善に改善を重ねていかなければならない」と述べた。当時、大きな問題点として指摘された政府の危機管理体制については一定の改善が行われたとの認識を示したうえで「十分ということはないのでいつも反省をしながら改善していく」と語った。

政府による支援が遅れた一方で、前述の通り民間による支援活動は積極的に行われた。

自治体には、震災での建物の崩壊による圧死などの直接の死亡原因だけではなく、被災者が避難したあとの持病の悪化や停電による医療機器の停止による死亡などといった間接的な原因での死亡も関連死(認定死)として認定をするか審査する委員会が置かれた。

復興組織

関東大震災が起こった際の帝都復興院に相当する組織となる阪神・淡路復興対策本部が、2000年までの5年間総理府に置かれた。戦災復興都市計画による土地区画整理事業が完了しようとしていた時期に震災が起こり、また、戦災を免れたことによって戦前からの老朽木造住宅が密集して残っていた地域に特に甚大な被害が見られたため、神戸市は戦災復興の延長線として震災復興を捉えた[9]。復興に当たっては、1976年10月29日に発生した酒田大火の復興事例が短期間での都市復興の事例として参考にされた。

  1. 単なる災害前の街への復旧ではなく、道路幅の拡幅など大掛かりに区画変更を行い、緑地を多く取って緩衝地帯を設定する事
  2. その実施に当たっては、単なる上意下達ではなくアウトラインのみを地元に提示して細部については地域住民の声を聞いて合意を形成をしながら、街全体を短期間のうちに、一気に防災型の都市に変える事

避難生活

家が全・半壊した住民は学校や公共機関の建物に避難した。

被災地の学校の多くは休校。被災者は、体育館・教室などで寝起きした。また、公園にテントを張ったり、自家用車において寝起きしたりする人もいた。震災当初は、公的な避難所として学校等の公共施設を避難所として認めて食料・飲料水の配布がされていたが、その後、公園への避難者が形成していたテント村についても食料等の配布が行われるようになった。

震災発生後1か月を経て、仮設住宅が建設されて入居が始まった。しかし、その多くが被災地を離れた郊外や周辺の自治体に建設されたために避難所から仮設住宅への移行が進まなかった。学校等の避難所は、4月以降の授業開始にあわせて解消するために、都心部での仮設住宅の建設や学校等避難所から待機所への移行を促す措置がとられた他、復興支援住宅と呼ばれる恒久住宅の建設が兵庫県によって行われた。また、民間の住宅を借り上げて被災した住人への提供などが行われた。

これらの被災者向けの住宅の供給については、各市町村によって発行された罹災証明書が入居の根拠とされた。その証明を行うための調査が短期間のうちに少人数によって行われたこともあり、その精度の荒さが指摘されている。

交通網

鉄道

兵庫県などを走る阪急電鉄阪神電気鉄道山陽電気鉄道などが震災による甚大な被害を受けた。

西日本旅客鉄道(JR西日本)も同様の被害を受けているが、資本力の違いと、旧国鉄線であったため線路脇に余裕があり作業が行いやすく、強固なJRグループの結束力で、全国から応援を呼んだことから急速な復旧を遂げて最初に運行を再開した。複々線であった東海道本線(JR神戸線)は、地震発生から74日後の1995年4月1日複線での運転を行う方法で不通区間を解消、山陽新幹線も震災が起こった直後に橋脚が倒壊して新大阪駅姫路駅の間が不通となっていたが、81日後の同年4月8日に不通区間を解消した。

私鉄では、阪急電鉄が地震発生から約5ヶ月後(146日後)の同年6月12日、山陽電気鉄道が阪急電鉄の不通区間解消から6日後(地震発生から152日後)の同年6月18日、阪神電気鉄道が阪急電鉄の不通区間解消から2週間後(地震発生から160日後)の同年6月26日、そして阪急・阪神・山陽の各社が相互乗り入れする神戸高速鉄道は地震発生から約7ヶ月後(208日後)の同年8月13日に不通区間を解消した。阪神に関しては三宮~高速神戸間でピストン運転をしていた。このピストン運転は被災者の大きな足となった。

JR・私鉄など各社間で、連携して行われたバスや他社鉄道線による代替輸送は不通区間の解消とともに順次終了された。4月の段階で、最初に不通区間を全て解消したJRは、新年度の定期券発行でも優位な状況となり、その結果、利用者のシェアはJRへとシフトする形となった。

復旧に至るまでの間、東海道本線と山陽本線を経由して九州へ向かう貨物列車は、福知山線山陰本線伯備線山陰道)のルートを経由して大回りで貨物列車を運転した。

東海道本線、山陽本線が分断されたために、電車車両をディーゼル機関車を使って当時は電化されていなかった加古川線を通過、もしくは、播但線・山陰本線を経由して福知山駅まで回送した。新幹線は、JR東海、JR西日本ともに車両が他社区間に閉じ込められたために復旧するまでお互いの車両を使用することとした。

道路

道路でも、中国自動車道や国道43号・国道2号は、復旧のための車線規制による渋滞が起こり、特に、高架が崩落した阪神高速道路神戸線(第二神明道路姫路バイパスなども通じ、大阪~姫路間の連絡道路となっている)は、ながらくの間不通となった。このため、復旧までの期間には、国道9号国道372号国道27号に長距離トラックや長距離バスが殺到した。

中国自動車道では、吹田JCT西宮北ICの間が不通となった。このことから、近畿地方内で京阪神を経由せずに、亀山東海道沿線)や米原中山道沿線)から姫路(山陽道沿線)まで行くには、北近畿敦賀から和田山までを通らなければ迂回できないということが指摘されている。また、近年、論議がかまびすしい道州制においても、この北近畿迂回路の存在から「地域的・交通的問題を解決するには、交通的一体性を重視した枠組みにすべきだ」という意見が出されている。

海上

神戸港には、フェリーなどが四国九州方面を中心に多く発着していたが、各発着所が壊滅的な損害を受けて使用不能に陥ったため、一時的に大阪南港などに発着地を変更して運航されていた。陸上輸送が麻痺状態に陥っていたため、四国・九州方面とを結ぶメインルートとして機能した。

報道・ネット

  • 震災の情報は、報道に大きく取り扱われ、発生後約3日間、テレビ・ラジオはほぼ全てのチャンネルが、24時間震災関連の特別番組となり、コマーシャルも殆ど放送されなかった。
  • 大阪に本社を持つ近畿広域圏の民放テレビ各局[10]は、地震発生から数日間は完全にCM枠を抜いて震災報道を全国に発信し続け、近畿圏以外でコマーシャルが流れるようになってからも近畿では一定期間CMを流さず、CM中にはライフライン情報を静止画で流していた。独立UHF放送局であるサンテレビジョン[11]は、1月17日から1月22日まで106時間28分、独立ラジオ局であるラジオ関西[12]、1月17日から1月20日まで69時間放送を続けた。さらに、当時独立FM局であったKiss-FM KOBE[13]は、1月17日から3月頃までCMを抜いて震災放送を行い、英語の話せるサウンドクルー(DJ)による外国人被災者向けの情報発信も行われた。震災放送のためFMフェニックスも設けられた。震災は外国人向けの情報の必要性が認識されたことでFM CO-CO-LOをはじめとする外国語放送設立のきっかけとなり、また市町村単位の情報が課題とされ、3年前に制度が整備されていたコミュニティ放送制度が全国的に脚光を浴びることとなった。
  • NHK教育テレビジョンNHK-FM放送では、数日間にわたって(特に、近畿向けには136時間の連続放送を含む)被災地域の視聴者に向けた安否確認情報放送が初めて適用された。これらは現在でも、各地域で災害が起きた際に放送されている。
  • 近畿広域圏では、約7日後から一部通常番組を流し始めたが、お笑いなどの娯楽番組は差し控えられた。例外として発生3日後の1月20日の夜に、「探偵!ナイトスクープ」(ABC)が放送された(当該項目を参照のこと)。また「鶴瓶上岡パペポTV」(読売テレビ)では、震災の翌週の放送で、通常の客席を入れたトークではなく、笑福亭鶴瓶上岡龍太郎による、二人が実際に見聞きした震災に関する話題や救助活動を妨げかねないマスコミの報道姿勢に対する疑問を呈したトークを行った(当該項目を参照のこと)。
一方で、全国区を取り仕切る関東広域圏の対応は、上記の時間が過ぎてから概ね通常の放送体制に戻っていったが、それでも、ニュースワイドショーといった多くの生放送番組、及び「地震から2週間」「1か月」「2か月」といった節目では、被災地の状況を伝えるルポを数多く伝え、被災者へのエールや義援金の呼びかけなどを行っていた。しかし、それ以外の局面では地震関連情報は全国放送から近畿広域圏のみに徐々に絞られていき、特に、約2ヶ月後の地下鉄サリン事件が発生してからは、この傾向は顕著となった。
  • 行政による救助活動が遅れた一方、前述の組織・団体、特に宗教団体や暴力団などによる現場での救助・支援活動は、日本のマスメディアで報道されることは少なかった。諸団体の宣伝につながりかねないとの懸念からであった。
その中で、JNNTBS)系が、地震から3日目の1995年1月19日にJNNニュースの中で、神戸市内に本拠を置く、日本最大の広域指定暴力団・山口組の総本部が備蓄していた大量の食料を地元住民に供出する様子を、「住民の苦渋の選択」として報道した。
報道機関としては、山口組のPRにならないよう決して与しない慎重な扱いであったが、無数のヤクザに頭を下げながら一般市民が列をなして食料をもらう姿は、震災の過酷な現実の一断面を描くものであった。など海外のマスメディアも追随し、BBCは「政府の救助活動は遅々として進まないのに、現地のマフィア(ここでは山口組を指す)が救助活動を行っている」と報道した。(注:三和出版『実話時代2008年2月号』で「外国メディアの方が日本のメディアに先んじて報じた」というのは、誤報ないしは虚報である。)

報道倫理に関わる問題

報道倫理に関わる問題として過剰な取材活動が挙げられる。地震発生直後、マスメディア各社が航空取材活動を開始しているが、地震直後から始まった航空映像によって首相官邸など被災地外の人々が地震の被害状況を素早くつかむことが出来た反面、この取材活動におけるヘリコプターによる騒音により、家屋の下敷きとなった被災者の声を聞き取れずに救助隊の初期活動の大きな妨げとなったとする指摘がある。1995年2月7日、衆議院地方行政委員会において、伝聞情報をもとに、この問題が取り上げられている。ただ、ヘリコプターの音で具体的に何人救出できなかったのかを科学的に検証したデータは存在せず、あいまいな部分もある。その後、関西の放送局間では、大災害発生時にはヘリコプターの飛行数を相互制限し、映像を各社で共有する方法などが検討されている。

また、一部の報道陣が被災者のための炊き出しを、取材のためと称して食したり[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。、夜明け前の避難所内の模様を、撮影用の照明で明るくしたりするといった光景も見られた[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

それに悲惨な様子のみを取り上げる報道も目立った。当時の日本銀行神戸支店長・遠藤勝裕フジテレビの番組『日本のよふけ』(2001年10月7日放送)において語ったところによると、まるで神戸が壊滅してしまったかのようなマスメディアの報道ぶりを定例記者会見で批判し、「神戸には生き残った市民がたくさんいる。市民が生きている限り、神戸は悲惨ではあるが壊滅はしていない」と発言していたが無視され、一切報道される事はなかった。遠藤は「日銀の支店長がこういう事を言ったと報道してくれれば、少しでも被災者を勇気づけられたのに残念だ」と語っていた。

人口

神戸市の人口は、2004年11月には震災前の人口に戻っているが、中央区より西側の兵庫区・長田区・須磨区・垂水区では、社会の高齢化少子化少子高齢化)の影響もあって人口が震災前の水準に戻らずに減少に転じる区もでている。特に、長田区においては深刻な状況となっている。一方で、同市中央区・灘区・東灘区では、利便性の高さから工場跡地などでの再開発により、分譲マンションの建設ラッシュが起こっており、西宮市にかけての地域に小学校供給が追いつかなくなってきている。

文化・スポーツ

宝塚歌劇団の本拠地・宝塚市宝塚大劇場も大きな被害を受けた。竣工して数年であったが壁に亀裂が入ったほか、大劇場内の消火用スプリンクラーが誤作動し座席が濡れるなどした。およそ、2ヶ月半の間公演不能の状態になり、安寿ミラの退団公演を上演していたが公演中止を余儀なくされた。3月、「国境のない地図」において公演を再開。

神戸国際会館も全壊し、予定されていた公演を中止や会場を移しての公演になった。1995年12月に神戸ハーバーランドの空き地を借用して建設した仮設公演施設「神戸国際会館ハーバーランドプラザホール」が完成し、神戸での公演が本格的に再開された。

阪神競馬場や阪神甲子園球場の一部が損壊。この年の「大阪国際女子マラソン」も中止を余儀なくされた。また、4月にTIサーキット英田(現・岡山国際サーキット)で開催予定だったF1パシフィックグランプリも10月に延期された。鈴鹿サーキットでの日本グランプリとの連続開催が緊急に実現した事によってF1グランプリの「日本シリーズ」が実現した。この年に予定されていたゆうあいピック兵庫・神戸大会も中止になった。

第67回選抜高等学校野球大会(春の甲子園)については、「中止すべき」という意見があったものの、予定通りに実施された。

プロ野球オリックスブルーウェーブは『がんばろうKOBE』をスローガンに95年、96年と連覇(96年は日本一)を成し遂げ、被災者を勇気付けた。また、毎年恒例だった正月映画・男はつらいよシリーズの、12月に公開された第48作『男はつらいよ 寅次郎紅の花』では、神戸市側から松竹へロケの要請があったことや、山田洋次監督の元に、復興に努めていた夫妻からファンレターが届いたことがきっかけで、当時市民による復興が行われていた神戸市長田区が舞台となり、神戸の復興とボランティアがテーマとなった。

デパート

そごう神戸店も本館が半壊した部分の解体撤去(この撤去した部分が現在のサンファーレ広場となっている)を含めた復旧工事の末、1996年4月28日に全館オープンした(新館と本館地階はそれ以前から再開していた)。

また、大丸神戸店は、本館の3階部分が倒壊したために取り壊して新館として再建。西館についても全面改装を施して1997年3月に復興グランドオープンした。

一方で、三宮阪急は、入居していた神戸阪急ビル東館の上層階が崩落する全壊のため解体撤去することとなり震災5日後に閉店に追い込まれたのちに、ついに再開されることはなかった(ただし、震災前の1992年に神戸ハーバーランドに神戸阪急が開店している)。

やや離れた大阪市でも北浜の三越大阪店の本館が被災して解体され、売場面積を大きく減らした。これが10年後の2005年に閉店する一因となった[14]

その他

  • 同震災で、被災者らが避難生活中にどこでも使えるカセット式のガスコンロを調理などに利用していたが、当時のカセットコンロは燃料用ボンベが各社独自方式であったために、被災者間において燃料ボンベの貸し借りができずにメーカー側に疑問が呈された。このために、各社ごとの規格からメーカーが違っていても同じ規格のガスボンベが利用できる様に改められている。今日では、燃料用ボンベを専門に扱うメーカーが登場、カートリッジ式のボンベは普通サイズと小型サイズの二種類のみ(キャンプ用フィールドクッカーを除く)となり、どこのメーカーのボンベでも問題無く利用できるようになっている。
  • 日本国郵政省(現在の日本郵便)が、1995年4月20日に阪神・淡路大震災寄附金付切手を発売した。これは額面80円の切手を100円で販売し、差額の20円を震災支援の寄付金としたもので額面は「80+20」と表記されていた。ただしデザインは準備が間に合わなかった為、例年発行されている「切手趣味週間」の切手に便乗する形になった。そのため、金島桂華の『画室の客』という絵画がデザインであり、被災地に全く関係ないものとなった。
  • その後、郵政省は2000年12月22日発行の「20世紀デザイン切手」の17集のなかで、同震災の事を題材にした切手を発行している。デザインは復興のシンボルとされた手塚治虫の「火の鳥」と阪神・淡路地区の地図と倒壊した高速高架道路をイメージしたものであった。
  • 日本銀行神戸支店は震災による金融パニックを防止の為、支店長が独自判断で大蔵省及び日本銀行本店に対して金融特別措置発令を要請。本人確認が取れれば、通帳や印鑑なしでの預金引き出しを可能にしたほか、支店の二階に被災した銀行窓口を開設し、破損したり燃えた紙幣の交換等の業務を行い、パニックを防止した。

地震の呼称

マスメディアなどが略称として「阪神大震災」と報じていたことに疑問を持つ被災者もいる。大都市・大工業地帯・観光都市の一つである神戸・阪神地区だけが壊滅的な被害を受けた様に表現され、同様に甚大な被害をうけた淡路島北部や明石市、などが考慮されていないからである。

そのために、「阪神・淡路大震災」と呼ばれるようになってはいるが、この表現でさえ明石市は含まれていないとして同市の広報資料などでは「兵庫県南部地震」を震災の呼称としている。

大阪府下では、豊中市を除くとそれほど大きな被害が生じていないにもかかわらず、「阪」の文字が入っているのは、兵庫県内における地域区分である「阪神」間(灘区・東灘区・芦屋市・尼崎市・西宮市近辺)における被害が甚大であったためである。なお、豊中市では南部を中心に甚大な被害が出て、死者が9名出て、避難所暮らしを余儀なくされた人も多い。

朝日新聞や系列のスポーツ新聞日刊スポーツでは、翌日の1月18日の段階では「関西大震災」の呼称で報道した[15]

追悼行事

1.17追悼行事(東遊園地
1.17希望の灯り(東遊園地)

毎年1月17日は、東遊園地などの広場・協会などにおいて式典が行われている。発生時刻の午前5時46分と、その12時間前と12時間後の午後5時46分に黙祷を行う。また、伊丹市昆陽池公園では、発生時刻の12時間前にあたる16日午後5時46分に黙祷を行い、ロウソクを発生時刻にあたる17日午前5時46分まで点灯している。神戸市中央区三宮にある東遊園地では広場に6,000本の灯篭で模った「1.17」を北側の神戸市役所庁舎を正面に掲示される。また、この灯篭が消えた場合は、式典開催者は手をつけずに、訪れた人々にろうそくを渡して点火してもらっている。灯篭は毎年若干の違いがあるものの5時から21時まで点火されている。

また1995年より毎年12月に、鎮魂と追悼・街の復興を祈願して神戸ルミナリエが開催されている。

被災地が即急に復興できたのは多くの支援者・ボランティアのおかげであったため、被災者は今も支援者に感謝の気持ちを声明や催し物によって示している。また、神戸市はこの支援活動の教訓や当時の恩返しの意味をこめて新潟県中越地震スマトラ島沖地震の時はどこよりも人材、資材などの援助を行ってきている。また、防災事業では、現在においてもこの震災を例に挙げられることが多く防災事業の原点となりつつある。

臼井真作曲・作詞の『しあわせはこべるように』という歌が復興の歌として取り上げられることが多く、追悼行事でも多く歌われている。

震災の反省

耐震性の小さな建造物に被害が多く発生したことを受け、消防庁では公共施設の耐震改修を指導している。

しかし、「阪神・淡路大震災」の起こった兵庫県でさえ、公共施設の耐震化率は48.3%にとどまっている。東京78.1%(消防庁 2003、各都道府県耐震改修状況)に比べて耐震化は遅れている。さらに、民間の会社施設・マンションにおいての耐震化率はきわめて低いのが現状である。

さらに、ほとんど犠牲者が出なかった公共施設の耐震化は進んでいるが、犠牲者の80%以上を出した民間の耐震性のない木造住宅の耐震補強はほとんどなされていないのが現状である。

また、震災の犠牲者6434人のおよそ1割に当たる約600人が、室内家具の転倒による圧死と推定する調査(山口大・大田教授のグループ)があったことから、震災発生後しばらくは「家具転倒防止金具」を購入する人が多く見られたが、今では普及が鈍化している。

関連項目

救助

放送・キャンペーン

追悼・モニュメント

近畿地方で起こった地震

その他関連項目

大阪のABC朝日放送では、地震発生当時に生放送が行われていたため、地震の発生の瞬間が捉えられている。地震の規模を伝える貴重な情報としてテレビ朝日系列の放送局ではこの番組内で地震が発生した様子を収めた録画テープが地震から1週間ほど頻繁に報道特別番組内で流された。

脚注

  1. ^ 地震による顕著な被害があった場合には、気象庁長官はその地震について命名すると定めている。基準は、100kmよりも浅い直下型・M7.0以上、同じく海洋型・M7.5以上・全壊100棟程度以上など。
  2. ^ 死者、住家被害、火災被害、その他被害の数値は消防庁発表「阪神・淡路大震災について(第107報)」(2003/12/25)より
  3. ^ HEM-Net
  4. ^ 埋もれた記憶 西宮・仁川の地滑り(神戸新聞)
  5. ^ 阪神・淡路大震災教訓情報資料集『内閣府・(財)ひょうご震災記念21世紀研究機構』より
  6. ^ 『官邸応答せよ』から「クビを賭ける、自衛隊を呼べ!」より
  7. ^ 兵庫県・神戸市が大地震時の危機管理対処規定を定めていれば命令権者の知事不在でも被害状況の確認と自衛隊への出動要請が「規定に従い、地震発生後4時間もかからず」なされたはずだし[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。、規定策定の段階に「地震により、消火水道が寸断されて消火不能に陥る」という致命的問題点も消防が指摘したはずであるが、兵庫県・神戸市とも大地震対処危機管理規定を定めていなかった。
  8. ^ 『官かくあるべし―7人の首相に仕えて』より
  9. ^ 一卵性双生児/「戦後」と重なる神戸復興(神戸新聞)
  10. ^ 毎日放送ではニューススタジオにあったセットが倒壊、朝日放送では『おはよう天気です』冒頭に地震に襲われた。関西テレビではスタジオの天井にあったスポットライトが転落し、読売テレビではエレベーターが止まる被害を受けた。
  11. ^ 社屋内がぐちゃぐちゃになるほどの被害を受けた。
  12. ^ 放送が6時まで停止したあげく、社屋そのものも全壊する被害を受けた。詳細はシェルタースタジオ117を参照。
  13. ^ サンテレビジョン同様、社屋内がぐちゃぐちゃになるほどの被害を受けた。
  14. ^ 三越大阪店、5日閉店…315年の歴史に幕
  15. ^ 1995年1月18日各紙朝刊

外部リンク