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'''伊達 宗遠'''(だて むねとう、[[正中 (日本)|正中]]元年([[1324年]]) - [[元中]]2年/[[至徳 (日本)|至徳]]2年([[1385年]]))は[[守護大名]]。[[伊達氏]]第8代当主。官位は従五位下、弾正少弼。父は[[伊達行宗]]、母は[[田村氏]]の娘・静照院。息子に[[伊達政宗 (大膳大夫)|伊達政宗]]など。 宗遠の息子の[[大条宗行|宗行]]は、[[大条氏]](大枝)<ref>大条氏の宗家は明治期に伊達に復姓している。</ref>の祖となった。
'''伊達 宗遠'''(だて むねとう、[[正中 (日本)|正中]]元年([[1324年]]) - [[元中]]2年/[[至徳 (日本)|至徳]]2年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]([[1385年]][[6月28日]]))は[[守護大名]]。[[伊達氏]]第8代当主。官位は従五位下、弾正少弼。父は[[伊達行宗]]、母は[[田村氏]]の娘・静照院。息子に[[伊達政宗 (大膳大夫)|伊達政宗]]など。 宗遠の息子の[[大条宗行|宗行]]は、[[大条氏]](大枝)<ref>大条氏の宗家は明治期に伊達に復姓している。</ref>の祖となった。

== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[1380年]]頃から[[長井氏]]を攻め立てた。宗遠は周辺各氏との一揆契約や騙し討ちなどの謀略を駆使し、長井氏を確実に切り崩していった。結局[[1385年]]には長井氏は滅亡し、伊達氏は米沢を手に入れる事になった。
[[1380年]]頃から[[長井氏]]を攻め立てた。宗遠は周辺各氏との一揆契約や騙し討ちなどの謀略を駆使し、長井氏を確実に切り崩していった。結局[[1385年]]には長井氏は滅亡し、伊達氏は米沢を手に入れる事になった。
[[1381年]]には[[大崎氏]]と戦い信夫郡、刈田郡、伊具郡、柴田郡を奪い、また、[[武石行胤]]を破り亘理郡も実質的な支配下に組み入れている。
[[1381年]]には[[大崎氏]]と戦い信夫郡、刈田郡、伊具郡、柴田郡を奪い、また、[[武石行胤]]を破り亘理郡も実質的な支配下に組み入れている。

この時代には小沢氏、余目氏などと一揆契約を結んでいる。
また、米沢の[[成島八幡宮]]の拝殿を改築している。
この時代には小沢氏、余目氏などと一揆契約を結んでいる。また、米沢の[[成島八幡宮]]の拝殿を改築している。


==系譜==
==系譜==
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伊達氏初期系図には色々と差異が生じていたり、同時代の史料と食い違う部分も見られる。
伊達氏初期系図には色々と差異が生じていたり、同時代の史料と食い違う部分も見られる。


行宗-宗遠の場合、[[1348年]]の『[[奥州管領]][[吉良貞家]]の書状』の中に「伊達宮内大輔行朝者死去、子息万寿丸幼稚代官[[伊達宗政|伊達修理亮宗政]]」とみえ、また宗遠の初見は[[1342年]]の『[[五辻顕尚]]の書状』の中の伊達飛騨前司とある為、宗遠は行宗(行朝)の子息で無い可能性も指摘されている<ref>小林清治『東昌寺と陸奥安国寺』、『伊達政宗のすべて』(新人物往来社)</ref>。
行宗-宗遠の場合、[[1348年]]の『[[奥州管領]][[吉良貞家]]の書状』の中に

「伊達宮内大輔行朝者死去、子息万寿丸幼稚代官[[伊達宗政|伊達修理亮宗政]]」とみえ、
[[1377年]]に伊達宗政(修理亮)が[[留守持家]]と一揆を結んだとの史料(一揆契約の書状)もあり、修理亮宗政と宗遠が同時代の人であることがわかる。また、伊達行宗の子息には[[伊佐城]]主となった[[伊達行資|伊達宮内太郎行資]]([[伊佐岡氏]]祖)がおり、行資こそが万寿丸で、宗遠は「行宗の庶子」「行宗の弟」「有力な親族」の何れかである可能性が指摘されている{{要出典|2007年12月27日。誰が指摘したのか書いておくとよい}}。
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2008年6月23日 (月) 15:55時点における版

伊達 宗遠(だて むねとう、正中元年(1324年) - 元中2年/至徳2年5月20日1385年6月28日))は守護大名伊達氏第8代当主。官位は従五位下、弾正少弼。父は伊達行宗、母は田村氏の娘・静照院。息子に伊達政宗など。 宗遠の息子の宗行は、大条氏(大枝)[1]の祖となった。

経歴

1380年頃から長井氏を攻め立てた。宗遠は周辺各氏との一揆契約や騙し討ちなどの謀略を駆使し、長井氏を確実に切り崩していった。結局1385年には長井氏は滅亡し、伊達氏は米沢を手に入れる事になった。 1381年には大崎氏と戦い信夫郡、刈田郡、伊具郡、柴田郡を奪い、また、武石行胤を破り亘理郡も実質的な支配下に組み入れている。

この時代には小沢氏、余目氏などと一揆契約を結んでいる。また、米沢の成島八幡宮の拝殿を改築している。

系譜

系譜の疑問点

伊達氏初期系図には色々と差異が生じていたり、同時代の史料と食い違う部分も見られる。

行宗-宗遠の場合、1348年の『奥州管領吉良貞家の書状』の中に「伊達宮内大輔行朝者死去、子息万寿丸幼稚代官伊達修理亮宗政」とみえ、また宗遠の初見は1342年の『五辻顕尚の書状』の中の伊達飛騨前司とある為、宗遠は行宗(行朝)の子息で無い可能性も指摘されている[2]

1377年に伊達宗政(修理亮)が留守持家と一揆を結んだとの史料(一揆契約の書状)もあり、修理亮宗政と宗遠が同時代の人であることがわかる。また、伊達行宗の子息には伊佐城主となった伊達宮内太郎行資伊佐岡氏祖)がおり、行資こそが万寿丸で、宗遠は「行宗の庶子」「行宗の弟」「有力な親族」の何れかである可能性が指摘されている2007年12月27日。誰が指摘したのか書いておくとよい[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

脚注

  1. ^ 大条氏の宗家は明治期に伊達に復姓している。
  2. ^ 小林清治『東昌寺と陸奥安国寺』、『伊達政宗のすべて』(新人物往来社)