「二条昭実」の版間の差分

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2008年5月27日 (火) 15:39時点における版

二条 昭実(にじょう あきざね、弘治2年11月1日1556年12月2日) - 元和5年7月14日1619年8月23日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公卿関白(2度)、准三宮藤原氏摂関家二条家の当主。一字名は桐・次。織田信長の娘2人(養女・実娘)を娶ったのをはじめ、豊臣秀吉徳川家康など天下人との接触が多かった。

信長の養女と婚姻

弘治2年(1556年)、生まれる。父は二条晴良、母は伏見宮貞敦親王の娘・位子女王永禄11年(1568年)12月、13歳のときに昇殿を許され、元服。将軍足利義昭偏諱を受けて「昭実」を名とする。正五位下侍従に叙される。元亀元年(1570年には従三位権大納言に昇任。天正2年(1574年)には正二位に上る。翌年3月、織田信長の養女さごの方(赤松氏)を妻とする。天正5年(1577年)左近衛大将・内大臣

秀吉に関白を譲る

天正12年(1584年)12月に左大臣藤氏長者となり、翌13年に正親町天皇の関白となるが、羽柴秀吉(のち豊臣秀吉)が内大臣となるのに伴い、左大臣を辞した。さらに同年7月、関白職を秀吉に譲る。秀吉死後の慶長4年(1599年)秀吉の晩年の側室だった三の丸殿(織田信長の六女)を娶った。

徳川幕府との関係

慶長10年(1605年)准三宮の宣下を受ける。江戸幕府との関係も良好で、慶長18年(1613年)養子に迎えた九条忠栄(幸家)の子に、徳川家康の偏諱を賜って「康道」とした。以後、二条家の歴代当主は将軍からの偏諱を受けるのが通例となった。元和元年(1615年)には後水尾天皇の関白、氏長者に再任され(30年ぶりの再任は極めて異例)、禁中並公家諸法度の制定にも関与して、前将軍徳川家康および現将軍徳川秀忠とともに連署している(ただし、実際の関白・氏長者任命日がずれ込んだために、禁中並公家諸法度への連署の日付の方が先になってしまっている。このために一般には「前関白」と認識されている事が多い)。古式典礼に詳しく、公家界の長老として、また武家との窓口として晩年に至るまで活躍した。

元和5年(1619年)、中風が原因で没。享年64。同日関白職を辞す。院号として後中院を贈られ、嵯峨二尊院に埋葬された。二条家は嗣子康道が継いだ。

官職位階履歴

関連項目