「木屋町通」の版間の差分

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開通当時は、「樵木町」(こりきまち)と呼ばれていたが、[[高瀬舟]]が運んでくる材木の倉庫が立ち並ぶようになったため、いつしか「木屋町」という名称に変わったという。木屋町周辺に残されている紙屋町、鍋屋町、米屋町などの地名は、当時の賑わいを彷彿させる。
開通当時は、「樵木町」(こりきまち)と呼ばれていたが、[[高瀬舟]]が運んでくる材木の倉庫が立ち並ぶようになったため、いつしか「木屋町」という名称に変わったという。木屋町周辺に残されている紙屋町、鍋屋町、米屋町などの地名は、当時の賑わいを彷彿させる。


[[江戸時代]]中頃にはこの通りを往来する旅人や商人を目当てに、料理屋や旅籠、酒屋などが店を構えるようになり、酒楼娯楽の場へと姿を変えた。[[幕末]]には勤皇志士が密会に利用したため、[[坂本龍馬]]や[[桂小五郎]]らの潜居跡や事跡の碑が繁華街のあちこちに立っており、[[大村益次郎]]や[[本間精一郎]]などが殉難している。
[[江戸時代]]中頃にはこの通りを往来する旅人や商人を目当てに、料理屋や旅籠、酒屋などが店を構えるようになり、酒楼娯楽の場へと姿を変えた。[[幕末]]には勤皇志士が密会に利用したため、[[坂本龍馬]]や[[桂小五郎]]らの潜居跡や事跡の碑が繁華街のあちこちに立っており、[[大村益次郎]]や[[本間精一郎]]、[[佐久間象山]]などが殉難している。


[[1895年]]には[[二条通|二条]]~[[五条通|五条]]間に[[京都電気鉄道]](のちに買収され[[京都市電]])の[[路面電車]]が開通した。1920年代に[[河原町通]]が拡幅されたことにより、市電のルートはそちらに移った。
[[1895年]]には[[二条通|二条]]~[[五条通|五条]]間に[[京都電気鉄道]](のちに買収され[[京都市電]])の[[路面電車]]が開通した。1920年代に[[河原町通]]が拡幅されたことにより、市電のルートはそちらに移った。

2008年4月25日 (金) 03:00時点における版

木屋町通きやまちどおり)は、京都市の南北の通りの一つ。 北は二条通から南は七条通まで。先斗町の西にあり、高瀬川の東側に沿っている。

三条通から南では一部を除き高瀬川西岸に西木屋町通が並走する。

歴史

慶長年間の角倉了以の高瀬川開削に伴って整備された。 開通当時は、「樵木町」(こりきまち)と呼ばれていたが、高瀬舟が運んでくる材木の倉庫が立ち並ぶようになったため、いつしか「木屋町」という名称に変わったという。木屋町周辺に残されている紙屋町、鍋屋町、米屋町などの地名は、当時の賑わいを彷彿させる。

江戸時代中頃にはこの通りを往来する旅人や商人を目当てに、料理屋や旅籠、酒屋などが店を構えるようになり、酒楼娯楽の場へと姿を変えた。幕末には勤皇志士が密会に利用したため、坂本龍馬桂小五郎らの潜居跡や事跡の碑が繁華街のあちこちに立っており、大村益次郎本間精一郎佐久間象山などが殉難している。

1895年には二条五条間に京都電気鉄道(のちに買収され京都市電)の路面電車が開通した。1920年代に河原町通が拡幅されたことにより、市電のルートはそちらに移った。

現状

高瀬川の側にサクラが植栽され、歩道を場所により車道側に飛び出させて車の高速走行を押さえるなど、整備がされている。 三条通から四条通までを中心に、スナック、料亭などに加え、各国料理レストランなど所狭しと並んでいる。 風俗営業店の増加に伴い、地元が治安対策の運動を行っている。

関連項目

外部リンク