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太政官奏(だいじょうかんそう)とは、律令制において太政官から天皇に奏上を行うこと、あるいはその文書を指す。単に官奏(かんそう)とも呼ばれるが、後に諸国から出された国政に関して天皇に奏上することを官奏と称するようになった。

「太政官奏」

養老律令公式令によれば、論奏奏事便奏の3種類が存在した。

論奏(ろんそう)とは、国家祭祀、官司の設置・廃止、流罪除名以上の処分の執行、兵馬100疋以上の差発など、太政官において大臣以下によって審議される重要事項に関する奏上で、裁可された場合には、年月日の次に「聞」あるいは「可」という御画を加えた(簡略化されて単に勅答をもって裁可とする例もある)。

奏事(そうじ)とは、各官司や諸国で決定されてとして太政官に挙げられた事項を奏上することである。

便奏(びんそう)とは、宮中における雑事など日常の細かな事項に関して、少納言から天皇に奏上することである。

奏事・便奏が裁可された場合には、奏上を行った奏官が「奉勅依奏」と書き加えて御画の代わりとする。裁可されたものは、通常は太政官奏としてそのまま施行された(『類聚三代格』)が、新たに太政官符を作成してそこに太政官奏本文を添付して施行する場合もあった。

平安時代の「官奏」

平安時代前期、摂関政治が導入された9世紀後半頃から、諸国からの上申文書を太政官が奏上する行為を単に「官奏」と呼ぶようになった。その由来については本来の形式である奏事を簡略化してとする説と公式令に拠らない略式の奏上が公式化したものとする見方がある。

清涼殿もしくは紫宸殿に出御した天皇に対して太政官の職事公卿が奏文を奏上して天皇の勅裁を受けた。古くは中納言以上の公卿であれば官奏を行い得たが、醍醐天皇以後には宣旨によって指名された大納言以上の特定の公卿が専ら行うようになり、大臣と言えども天皇の宣旨を受けない限りは官奏を行い得なかった。

陣座において、奏文を職事公卿が確認した後ににこれを持たせて参内させ、続いて職事公卿も参内する。宮中の射場で改めて史から奏文を受け取った後に天皇の御前で文杖に挟んだ奏文を奉る。天皇は全ての奏文を確認した後に一旦職事公卿に返却する。職事公卿は改めて1通ずつ読み上げ、天皇はその1つ1つに裁可を与えるか否か、あるいは先例を勘申させるかを勅裁した。終了後、職事公卿は射場で史に参内時とは逆に奏文を預けて陣座に戻り、改めて史から受け取った奏文を確認の後に、勅裁の結果を告げながら1通ずつ史に下す。史は奏文を受理して退出後に勅裁の結果を書いたものを蔵人に付して奏し、また職事公卿や大弁に進めた。なお、摂政が置かれている際には、摂政が天皇に代わって直盧または里第において奏文を見、関白が置かれている際には、天皇への奏上の前に関白の内覧を経た。

官奏の内容は、不堪佃田不動倉開用など、地方行政において中央の判断を仰ぐ必要のある重要な申請を中心に数通から十通が勅裁にかけられた。だが、次第に儀礼的なものとなり、重要性が低下していった。それでも、除目と並んで天皇の大権行為の象徴として扱われ、かつてのような諸国よりの重要な申請に関する官奏も稀に行われた。長和4年(1015年)に三条天皇の眼病悪化に伴う藤原道長准摂政就任のきっかけは、天皇の眼病による官奏の中断による地方行政の停滞に国司達が動揺したのがきっかけであったとされている(『小右記』)。

参考文献