「XB-70 (航空機)」の版間の差分

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* [[XF-108 (戦闘機)|XF-108]] - XB-70の護衛戦闘機(計画中止)
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* [[国立アメリカ空軍博物館]]
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* [[スホーイ]][[T-4 (爆撃機)|T-4]] ([[:en:Sukhoi T-4|en]]) - しばしばソ連版XB-70と言われる機


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2008年4月9日 (水) 05:26時点における版

XB-70 ヴァルキリー

XB-70 1号機。機首下が白いのが現存する1号機、黒いのが事故で失われた2号機である

XB-70 1号機。機首下が白いのが現存する1号機、黒いのが事故で失われた2号機である

ノースアメリカンXB-70(North American XB-70) は、アメリカ空軍の試作戦略爆撃機。製造は2機のみ。愛称はヴァルキリー(Valkyrie)(北欧神話の戦乙女ワルキューレの英語読み)。

最高速度マッハ3でアラスカ - モスクワ間を無着陸で往復可能な超音速戦略核爆撃機として計画されたものの、大陸間弾道ミサイルの発達などで存在意義を失ったことなどから制式採用には至らず、また試作機のうち一機は空中衝突事故で失われた。現在は残された一機がオハイオ州ライト・パターソン空軍基地国立アメリカ空軍博物館に展示されている。

近未来的なデザインに悲劇的な結末も相まってか、飛行当時はもとより引退後もなお非常に人気の高い機体である。

開発の経緯

1954年戦略航空軍団司令官に就任したカーチス・ルメイによって超高速・高々度・長航続距離の条件を備えた新型爆撃機の開発が提唱された。ルメイは東京大空襲などにおける焼夷弾を用いた対日無差別爆撃を立案・指揮した人物でもある。アメリカ空軍には既に大型ジェット爆撃機B-52が配備されていたが、これに替わる新型機開発計画として "WS-110A" (WS=Weapon System) が1955年11月に開始された。後に機体の愛称から「ヴァルキリー計画」と呼ばれた。

ルメイの要求は、超音速爆撃機B-58以上の(すなわちマッハ2以上の)高速で、アラスカ-モスクワ間を無着陸で往復できる爆撃機という、当時知られていた技術では無謀とも言えるものであった。これに応えてノースアメリカンボーイングがそれぞれプランを提出した。双方の案とも、大量の燃料消費と高速化のための機体重量軽減を考慮し、小振りの両翼の左右に張り出すような形でグライダーのような外見の有翼式燃料タンクを装備、敵地に近づいたところでこの特大の燃料タンクを切り離し超音速に加速するというものであった。ルメイはこれらのプランを一瞥するなり「これでは飛行機(一機)ではない、三機編隊だ!」と激怒、両社にプランを突っ返したという。

プランの練り直しを迫られたノースアメリカンの設計陣は、NACA(現NASA)で非公開とされていたひとつの研究論文に着目した。これは、デルタ翼機体の下側にくさび状の部位を設けることにより、その左右で圧縮された衝撃波が翼の裏側に揚力をもたらす、というものであり、空気を切り裂く(音の壁を超え続ける)抗力はそのままではあるが、揚力発生に必要な抗力は抑えられるため、超音速時のクルージングレンジを飛躍的に伸ばす事を可能とする、というものである。コンプレッション・リフト(圧縮揚力)と呼ばれるこの新理論を利用することで、後述するような斬新で流麗な--そしてルメイも満足するような--デザインの機体が出来上がったのである。

特徴

駐機中のXB-70
翼端下げ状態。25度程度下げた中速域状態で、高速域では65度程度まで下がる。マーキングはNASA時代
機首上げ状態

XB-70の外見上最大の特徴は、デルタ翼の両端が高速飛行中は折れ下がることである。これはしばしば衝撃波を抱え込むための工夫であるともいわれるが、それよりも超音速飛行時には能力不足となる垂直尾翼の能力を補う為、及び空力中心の後方移動を補償する為であるとされる(コンプレッションリフトの恩寵に与かれるのは主に、主翼である為)。カナード(前翼)も非常に印象的であるが、後の戦闘機に多く見られるカナードが後流を制御して失速を防ぐものであるのに対し、機体のバランスを取りやすくするためのアイデアであったようだ(ちなみに後流制御のためのカナードの場合は、主翼と一部重なる位置にあるが、本機の場合は主翼とは離れた位置にある)。実際にはバランス調整は燃料タンク内で燃料を細かく移動させることによってもなされている。

胴体下面にコンプレッション・リフトの要となるくさび状の部位が有り、その先端部に空気取り入れ口、後部にゼネラル・エレクトリック製のアフターバーナー付きターボジェットエンジンが6機搭載されている。しかし空気取り入れ口の構造は翼端折り曲げと共に、数値が低いほどステルス性が高いとされるレーダー断面積(RCS)をいちじるしく増大させるため、高々度から侵攻しても容易に発見される危険性が指摘されていた。

機首のうち風防前部の上面は低速時にはへこんだようになっているが、高速飛行時にはここが持ち上がりフラットな機首となる。これはコンコルドの機首が折り下がるのと同じように、地上および低速域での前方視界を確保するためのものである。

外皮はアルミニウム系合金ではマッハ3飛行下で発生する大気との摩擦による300℃超の高熱に耐えられないため、ステンレス系合金によるハニカム構造となっている。このハニカム構造に断熱の役割も持たせているが、熱そのものや熱による外皮の伸縮のために塗装が剥げ落ちるトラブルに悩まされた。飛行中の挙動には著しい制約が加えられており、XB-70は戦闘機並みはおろか旅客機並みの機動すら出来ない。これはXB-70同様のマッハ3級機であるSR-71偵察機(こちらの外装はチタン合金である)も同様であり、ある意味非常に脆弱な機体であった。そのためXB-70は、予めプログラムされたコース以外を飛行する事が極めて困難であった。これは弾道ミサイルに対する利点が無い事を意味し、後の開発中止の決定の一因となる。

ジェット燃料はJP-6と呼ばれる高々度・低温下での飛行に対応した特性のものが使用された。さらにホウ素系添加物によってアフターバーナーの推力を高めることも検討されたが、これは毒性が青酸の約10倍とあまりにすさまじいために中止となった。

XB-70は実験機であったこともあり操縦席は機長・副操縦士の二人乗りであった。操縦席は与圧され乗員は特別な装備無しで搭乗することも出来たが、テストパイロットは基本的に与圧服を着用して搭乗している。それぞれの座席が非常時には脱出カプセル(モジュール式脱出装置)として使用されるようになっており、非常時には上下からカバーが回り込んで乗員を収容する。このカプセルは与圧が失われたときの乗員の保護も想定されており、カプセル内からでも最低限の操縦が可能である。脱出時にはカプセルごと射出され、パラシュートエアバッグで着地する仕組みになっていた。

XB-70は実験機のため武装は装備できない。試作機YB-70には核爆弾などを搭載可能な爆弾庫が設けられ、爆撃手と防御システム操作手とが搭乗する予定であったが、YB-70は後述するような理由により実現しなかった。

余談ながら「ヴァルキリー」の愛称は公募で決められたことになっている。しかし実際のところ応募総数20,235通のうちヴァルキリーの名を書いたものはわずか13通しかなかった。戦略空軍コマンドのエンブレムには北欧神話の雷神トールの手が描かれており、これに合わせて既に名前が決められていたのではないかともいわれている。

計画の縮小

ヴァルキリー計画はあまりに多額の費用を必要としたことから、1959年にはアイゼンハワー大統領が計画を試作のみで留める発言を行っている。また1957年8月にソビエト連邦が世界初の大陸間弾道ミサイル・R-7の打ち上げに成功した(同年10月にはこれを改良してスプートニク1号の打ち上げにも成功している)ことで、弾道ミサイルに予算を割くべきであるという意見が浮上してきた(スプートニク・ショックミサイル・ギャップ論争も参照)。しかし冷戦のまっただ中にあってはルメイをはじめとした爆撃機推進派の方が優勢であった。

ところが1961年にジョン・F・ケネディ大統領が就任し、「コストの鬼」ロバート・マクナマラを国防長官に任命したことで状況は一変する。マクナマラはPPBS(効用計算予算運用法)という手法によって比較した結果、費用・効果・速度の面でXB-70は弾道ミサイルに及ばないと結論付けていた。高々度を飛行することで対空防御をかわすという意見も、レーダー断面積の高さに加え同年に高々度偵察機U-2地対空ミサイル撃墜される事件が起こったことで説得力を失ってしまう。結局ケネディとマクナマラはヴァルキリー計画を試作機三機のみ(XB-70×2、YB-70×1)で打ち切ることを決定した。また随伴護衛機として計画されたF-108“レイピア”は実機が制作されないままキャンセルとなった。

やがて1962年のキューバ危機1963年11月22日ケネディ大統領暗殺事件を経て(マクナマラは1968年世界銀行総裁に異動するまで国防長官の職にあった)、1964年5月1日、XB-70の1号機が完成。同年9月21日には初飛行に成功した。1号機は外皮や塗装のトラブルなどに悩まされたが、遅れて1965年5月29日に完成・7月17日初飛行した2号機はそれらの問題をクリアしており成績は非常に優秀であった。しかし最終的にYB-70はキャンセルとなった。

1号機は1965年10月14日、2号機は1966年1月3日マッハ3での飛行に成功した。最高速度記録は同年4月12日に2号機が出したマッハ3.08である。ただし実際には、SR-71の原型となった偵察機・A-12の方がXB-70より先にマッハ3で飛行している。

また本機は、偵察爆撃機RS-70(RSはReconnaissance Strike:偵察爆撃を意味する)として活路を見いだし、採用を目論んだが、上記のA-12より発展したRS-71との競争に敗れ、こちらも不採用となっている。ちなみにRS-71はジョンソン大統領の失言により、SR-71と改名する事になった。

一方ソビエト連邦では、これより若干早い時期に超音速爆撃機としてM-50を開発していた。またMiG-25はXB-70開発の情報を受けたソ連によってこれを迎撃可能な戦闘機として開発されたといわれることがあるが、現在ではA-12の迎撃を目的に開発されたと考えられている。しかし結局はXB-70の後を受けてB-70という量産機が開発されることも、これを迎撃するためにMiG-25が発進することもなかった。

事故と余生

空中衝突事故の直後。XB-70 2号機の垂直尾翼がもげ、F-104Nが火球と化している

1966年6月8日エドワーズ空軍基地近辺でゼネラル・エレクトリック製エンジンを積んだ軍用機を集めて同社の宣伝用フィルムを撮影するための編隊飛行が行われた。XB-70の2号機を先頭に、F-104Nほか計5機がV字編隊を組むというものであった。だが撮影終了後F-104が逆さまとなり、XB-70に上から接触、両垂直尾翼と左の主翼を破損させた。F-104は爆発してパイロットのジョセフ・ウォーカーは即死、2枚の垂直尾翼を失ったXB-70はコントロール不能となりフラットスピンに陥った。機長のアルヴィン・ホワイトは脱出カプセルに腕を挟まれ、ようやく腕を引き込んで射出されたが着地時にエアバッグが作動しないという最悪の状況ながらかろうじて生還した。しかし脱出に失敗した副操縦士カール・クロスは機体もろともモハーヴェ砂漠に墜落し死亡した。

事故調査委員会はF-104が異常接近した理由を編隊飛行に慣れていないウォーカーのミスとしているが、結論は出ていない。飛行に参加していたパイロットは皆ベテランであったが、異なる飛行特性を持つ機体が編隊飛行した場合、同じ種類の機体の編隊飛行に比べ危険性が高まる。他の機体よりも軽量なF-104はXB-70の翼端ないし前縁から発生した渦に巻き込まれたのではないかという見解がある。

加えて、XB-70の特異な形状が、編隊飛行時に必要とされる、互いの位置関係の把握を困難にしたことも考えられる。事故当時T-38を飛ばしていた、XB-70主任テストパイロットのジョー・コットン中佐は、ウォーカーはXB-70に対する自機の位置がわからなくなったので、単に近づいていって最終的にF-104のT字尾翼とXB-70の翼端とが接触したのではないか、と推測している[1]チャック・イェーガーも同様の意見を公にしている[2]

その後残されたXB-70の1号機はNASAに移管され、超音速旅客機(SST)におけるソニックブームの研究に供された。ここでの研究の結果、マッハ2で飛行した場合高々度でも地上におけるソニックブームの影響は大きいものであることが判明し、SST開発が滞る一因となっている。またノースアメリカンはアメリカ連邦航空局によるSST計画にXB-70を元にした案で応募したものの、ボーイングやロッキードに敗れている(ボーイング2707も参照)。

試験終了後の1969年、1号機はライト・パターソン空軍基地の空軍博物館に展示されることとなった。当初は屋外で大陸間弾道ミサイルなどと並べて展示してあったが、1988年より新設された屋内展示場内に納められている。

スペック

ファイル:XB-70 3-view.jpg

概要

性能

  • 最大飛行マッハ数: 3.1
  • 最高速度: 3,800 km/h
  • 航続距離: 7,900 km
  • 最大運用高度: 23,600 m

フィクション

多数のSF作品・アニメ作品・コンピュータゲームなどにもXB-70あるいはこれをモチーフとした機体が登場している。

  • 佐藤大輔の小説『遥かなる星』に登場。第三次世界大戦後、航空自衛隊に譲渡され、航空実験隊による試験飛行が行われたという設定。
  • アニメ『機動戦士Ζガンダム』にはXB-70をモチーフとした航空機が登場(設定ではB-70となっている)。戦争博物館の館長という設定の人物が操縦していた事から、そこで動態保存されていた機体又はレプリカの可能性もある。なお劇場版にも同じ機体が僅かではあるが登場する。
  • アニメ『超時空要塞マクロス』にはXB-70から愛称を頂いた航空機(可変戦闘機VF-1バルキリーが登場。その後継機群もバルキリーシリーズの別名で呼ばれる。なお、AMT/ERTLより発売されたXB-70のプラモデルには、同作品の広告代理店であるビックウエストの証紙が貼付されているが、これは「バルキリー」という名前が既に同社の登録商標となっていたためである。
  • エースコンバットシリーズ』をはじめとした航空機を題材としたゲームにもしばしば登場している。
  • SF作家の笹本祐一がこの機体を偏愛していることは有名。自作のシリーズ中、1度ならずXB-70を登場させており、日本星雲賞受賞の「星のパイロット」シリーズでは密かに動体保存されていたとする「4機目」のバルキリーと称する機体が登場、試験飛行中に敵対勢力のMIG-25に追撃される、小型シャトルを背面搭載して超音速で空中発射するなどのシーケンスが丹念に描かれている。
  • 岡本好古の短編小説集『最後の艦隊』に「蒼穹のヘロン」として収録されている(徳間書店、1982年)。
    • 巨大な人工美、その構築と崩壊、滅びの美学の象徴としてXB-70は「青さぎ=ヘロン」の名で登場する。開発メーカーは、米ノーザム社、主任設計者はネッド・ボーマン。良き相棒のテストパイロット「ガム好き・ジョン」とともに9回目の…そして最後のテストフライトへ太平洋に向け飛び立つ。
      ICBM実用化の煽りを受け「ヘロン」は一人っ子として誕生し、モハビ砂漠にてその生涯を閉じる。脱出システムは完全作動し、ボーマンとジョンは生還、核爆弾の代わりに搭載した赤い砂が、元の大地に高々度から還っていく。

参考文献

  • 世界の傑作機 No.106 XB-70ヴァルキリー』(文林堂、2004年) ISBN 4-89319-114-4
  • 浜田一穂「AIRPLANES DIGEST No.73 NORTH AMERICAN XB-70 VALKYRIE
文林堂『航空ファン』1995年2月号 No.506 p129~p143

脚注

  1. ^ The Crash of the XB-70 Valkyrie on Check-Six.com
  2. ^ Yeager and Janos 1986, p. 226.

関連項目

関連リンク