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'''吉良 義安'''(きら よしやす、[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]]) - [[永禄]]11年([[1569年]])は、[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]の武将。[[徳川家康]]の臣下となり、西条吉良氏と東条吉良氏を統一した人物。通称は'''三郎'''(さぶろう)、また'''上野介'''(こうずけのすけ)の官職を僭称した。
'''吉良 義安'''(きら よしやす、[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]]) - [[永禄]]11年([[1569年]])は、[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]の武将。[[徳川家康]]の臣下となり、西条吉良氏と東条吉良氏を統一した人物。妻は[[徳川家康]]の叔母(俊継尼)。通称は'''三郎'''(さぶろう)、また'''上野介'''(こうずけのすけ)の官職を僭称した。


西条城主[[吉良氏]]の[[吉良義堯]]の次男として生まれる。はじめ西条吉良氏の家督は兄の吉良義郷が継ぎ、次男の義安は、東条城主吉良氏の吉良持広の養子に入った。しかし西条吉良氏を継いだ兄義郷がまもなく死去したため、再び西条吉良氏に戻って兄の家督を相続した。ところが、東条吉良氏の吉良持広も死去したため、やむなく、弟の[[吉良義昭]]に西条吉良氏を継がせ、自らは東条吉良氏の家督を相続した。
西条城主[[吉良氏]]の[[吉良義堯]]の次男として生まれる。はじめ西条吉良氏の家督は兄の吉良義郷が継ぎ、次男の義安は、東条城主吉良氏の吉良持広の養子に入った。しかし西条吉良氏を継いだ兄義郷がまもなく死去したため、再び西条吉良氏に戻って兄の家督を相続した。ところが、東条吉良氏の吉良持広も死去したため、やむなく、弟の[[吉良義昭]]に西条吉良氏を継がせ、自らは東条吉良氏の家督を相続した。

2008年3月20日 (木) 03:05時点における版

吉良 義安(きら よしやす、天文5年(1536年) - 永禄11年(1569年)は、戦国時代の武将。徳川家康の臣下となり、西条吉良氏と東条吉良氏を統一した人物。妻は徳川家康の叔母(俊継尼)。通称は三郎(さぶろう)、また上野介(こうずけのすけ)の官職を僭称した。

西条城主吉良氏吉良義堯の次男として生まれる。はじめ西条吉良氏の家督は兄の吉良義郷が継ぎ、次男の義安は、東条城主吉良氏の吉良持広の養子に入った。しかし西条吉良氏を継いだ兄義郷がまもなく死去したため、再び西条吉良氏に戻って兄の家督を相続した。ところが、東条吉良氏の吉良持広も死去したため、やむなく、弟の吉良義昭に西条吉良氏を継がせ、自らは東条吉良氏の家督を相続した。

しかし天文18年(1549年)駿河の戦国大名今川義元が尾張の戦国大名織田信広を攻めた際、義安は織田家に協力したため、今川軍に捕らえられてしまい、人質として駿府へ送られるはめとなった。またこの際今川義元は西条吉良氏の吉良義昭に東条吉良氏も継がせ、吉良氏を統一させて今川家配下に組み込んでいる。

義安は、以降10年余りを駿府で人質として暮らすことになったが、このときに同じく今川義元の人質となっていた松平竹千代(のちの徳川家康)と親しくなり、弘治元年(1555年)に家康が元服した際には理髪役も務めた。永禄3年(1560年)6月の桶狭間の戦い今川義元が死去したため、この際に家康とともに人質から解放されて三河国に戻った。永禄5年(1562年)には今川氏の後援を失って三河で孤立化していた弟吉良義昭が、地元の一向宗を味方につけて徳川家康と戦ったが(三河一向一揆)、敗れて三河から逃亡。このあと、家康から義安が東条西条の吉良氏を統一して領有することが認められた。以降吉良氏は元禄赤穂事件(忠臣蔵事件)で有名な吉良上野介義央の代に改易にされるまで徳川家に臣従する。正室は松平清康(家康の祖父)の娘であり、したがって徳川家康と義安は甥・叔父の関係にあたる。その正室との間に生まれた吉良義定が吉良家の家督を継ぐ。