「松平頼隆」の版間の差分

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[[水戸藩]]初代藩主・[[徳川頼房]]の五男。[[徳川光圀]]の弟。母は[[興正寺]]18世[[准尊]](藤原昭玄)の娘。側室に高橋氏。片岡氏。子に[[松平頼方 (常陸府中藩嫡子)|松平頼方]](長男)、[[松平頼寧]](次男)、[[松平頼如]](三男)、娘([[水谷勝美]]正室のち[[毛利元次]]継室)、娘([[池田仲澄]]正室)。官位は従四位下、侍従、[[播磨国|播磨]]守。ちなみに、母方の祖父は[[石山戦争]]で知られる[[本願寺]]門主[[顕如]]の孫にあたる。叙位任官前は、右近また、頼母を称し、諱は頼安から頼隆に改める。
[[水戸藩]]初代藩主・[[徳川頼房]]の五男。[[徳川光圀]]の弟。母は[[興正寺]]18世[[准尊]](藤原昭玄)の娘。側室に高橋氏。片岡氏。子に[[松平頼方 (常陸府中藩嫡子)|松平頼方]](長男)、[[松平頼寧]](次男)、[[松平頼如]](三男)、娘([[水谷勝美]]正室のち[[毛利元次]]継室)、娘([[池田仲澄]]正室)。官位は従四位下、侍従、[[播磨国|播磨]]守。ちなみに、母方の祖父は[[石山戦争]]で知られる[[本願寺]]門主[[顕如]]の孫にあたる。叙位任官前は、右近また、頼母を称し、諱は頼安から頼隆に改める。


寛永6年(1629年)11月29日生まれ。[[寛文]]元年([[1661年]])9月、水戸藩領より保内郷33ヶ村、およそ2万石を分与されて水戸藩の支藩である[[保内藩]]を立藩した。[[元禄]]13年([[1700年]])9月、幕府によって所領を吹上から府中に移されたため、常陸府中藩を立藩する。宝永2年([[1705年]])9月28日、三男・頼如に家督を譲って隠居し、宝永4年(1707年)11月30日に79歳で死去した。
寛永6年(1629年)11月29日生まれ。[[寛文]]元年([[1661年]])9月、兄・光圀より保内郷33ヶ村、およそ2万石を分与されて水戸藩の支藩である[[保内藩]]を立藩した。[[元禄]]13年([[1700年]])9月、幕府によって所領を吹上から府中に移されたため、常陸府中藩を立藩する。宝永2年([[1705年]])9月28日、三男・頼如に家督を譲って隠居し、宝永4年(1707年)11月30日に79歳で死去した。


==経歴==
==経歴==

2008年2月20日 (水) 11:48時点における版

松平 頼隆まつだいら よりたか寛永6年11月29日1630年1月12日) - 宝永4年11月30日1707年12月23日))は、常陸保内藩主、常陸府中藩の初代藩主。

水戸藩初代藩主・徳川頼房の五男。徳川光圀の弟。母は興正寺18世准尊(藤原昭玄)の娘。側室に高橋氏。片岡氏。子に松平頼方(長男)、松平頼寧(次男)、松平頼如(三男)、娘(水谷勝美正室のち毛利元次継室)、娘(池田仲澄正室)。官位は従四位下、侍従、播磨守。ちなみに、母方の祖父は石山戦争で知られる本願寺門主顕如の孫にあたる。叙位任官前は、右近また、頼母を称し、諱は頼安から頼隆に改める。

寛永6年(1629年)11月29日生まれ。寛文元年(1661年)9月、兄・光圀より保内郷33ヶ村、およそ2万石を分与されて水戸藩の支藩である保内藩を立藩した。元禄13年(1700年)9月、幕府によって所領を吹上から府中に移されたため、常陸府中藩を立藩する。宝永2年(1705年)9月28日、三男・頼如に家督を譲って隠居し、宝永4年(1707年)11月30日に79歳で死去した。

経歴

※日付=旧暦

  • 1646年正保3年)12月30日、従四位下侍従兼播磨守に叙任。
  • 1661年寛文元年)9月26日、常陸国久慈郡保内ほか常陸国水戸藩領より父の遺領2万石を賜う。
  • 1700年元禄13年)9月25日、常陸国府中藩(茨城県石岡市)2万石藩主となる。なお、従前の2万石は水戸藩に返還。
  • 1705年宝永2年)9月28日、隠居。
  • 1707年(宝永4年)11月30日、卒去。 法名:長徳院梅峯無極。 墓所:茨城県常陸太田市の瑞龍山。
先代
-
水戸松平氏(保内藩)藩主
1661~1700
次代
-
先代
皆川成郷
水戸松平氏(常陸府中藩初代)藩主
1700~1705
次代
松平頼如