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2008年2月17日 (日) 01:12時点における版
クラシック音楽 |
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作曲家 |
ア-カ-サ-タ-ナ ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
音楽史 |
古代 - 中世 ルネサンス - バロック 古典派 - ロマン派 近代 - 現代 |
楽器 |
鍵盤楽器 - 弦楽器 木管楽器 - 金管楽器 打楽器 - 声楽 |
一覧 |
作曲家 - 曲名 交響曲 - ピアノ協奏曲 ピアノソナタ ヴァイオリン協奏曲 ヴァイオリンソナタ チェロ協奏曲 フルート協奏曲 弦楽四重奏曲 - オペラ 指揮者 - 演奏家 オーケストラ - 室内楽団 |
音楽理論/用語 |
音楽理論 - 演奏記号 |
演奏形態 |
器楽 - 声楽 宗教音楽 |
イベント |
音楽祭 |
メタ |
ポータル - プロジェクト カテゴリ |
ヴィットリオ・グイ(Vittorio Gui, 1885年9月14日 - 1975年10月17日)は、イタリアの指揮者。
ローマ生まれ。ローマ大学で文学を学んだ後、1906年に聖チェチーリア音楽院で作曲のディプロマを取得し、その翌年にローマのアドリアーノ劇場でポンキエッリの《ジョコンダ》を演奏してデビューを飾りった。1912年、ナポリのサン・カルロ劇場の首席指揮者になり、イタリア各地の歌劇場に客演していた。1928年に創設されたばかりのフィレンツェ市立管弦楽団(現フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団)の音楽監督を任された。1933年には、このオーケストラのコンサートをフィレンツェ五月音楽祭へと発展させた。戦後、フィレンツェを本拠地として活発な活動を展開していたが、1952年から1964年までグラインドボーン音楽祭の音楽監督と芸術顧問に就任した。死ぬ直前まで指揮活動が衰えることはなかったが、フィレンツェで死去した。