「トーマス・栗原」の版間の差分
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父の事業の失敗を見て、単身渡米。[[1912年]]、27歳のときに映画俳優養成所に入り、エキストラとして映画出演後、[[トマス・H・インス]]が設立したアジア系俳優に特化した「オリエンタル・プロダクション」に入る。[[早川雪洲]]、[[青木鶴子]]、[[木野五郎]]らと東洋を題材とした映画に多数出演する。特に、[[桜島]]噴火を扱った『火の海』の予言者は当たり役となった。 |
父の事業の失敗を見て、単身渡米。[[1912年]]、27歳のときに映画俳優養成所に入り、エキストラとして映画出演後、[[トマス・H・インス]]が設立したアジア系俳優に特化した「オリエンタル・プロダクション」に入る。[[早川雪洲]]、[[青木鶴子]]、[[木野五郎]]らと東洋を題材とした映画に多数出演する。特に、[[桜島]]噴火を扱った『火の海』の予言者は当たり役となった。 |
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日本での映画製作を志し、[[1918年]]、帰国する。[[1920年]]4月、35歳のとき、知人の[[浅野良三]]([[浅野財閥]]創始者の子息)が[[横浜]]・[[山下町]]に設立した、「[[撮影所]]」をもつ[[映画会社]]「[[大正活動映画]]」に、撮影所長兼監督として入社する。その第1回作品『[[アマチュア倶楽部]]』の監督を務め、同作は同年[[11月19日]]に公開になる。1922年の初頭に「大活」が製作を中止するまでの1年あまりで、劇映画、[[ドキュメンタリー]]含めて、30本もの作品を監督した。彼の教えを受けたものは数多く、監督の[[内田吐夢]]、[[井上金太郎]]、[[二川文太郎]]、俳優の[[岡田時彦]]、[[江川宇礼雄]]、[[葉山三千子]]、[[渡辺篤]]らがいる。「大活」で初めて映画界に入り、のちに映画監督になった者も、最初のキャリアは、栗原同様、「俳優」から始めたのだった。 |
日本での映画製作を志し、[[1918年]]、帰国する。[[1920年]]4月、35歳のとき、知人の[[浅野良三]]([[浅野財閥]]創始者の子息)が[[横浜]]・[[山下町]]に設立した、「[[撮影所]]」をもつ[[映画会社]]「[[大正活動映画]]」に、撮影所長兼監督として入社する。その第1回作品『[[アマチュア倶楽部]]』の監督を務め、同作は同年[[11月19日]]に公開になる。1922年の初頭に「大活」が製作を中止するまでの1年あまりで、劇映画、[[ドキュメンタリー]]含めて、30本もの作品を監督した。彼の教えを受けたものは数多く、監督の[[内田吐夢]]、[[井上金太郎]]、[[二川文太郎]]、俳優の[[岡田時彦]]、[[江川宇礼雄]]、[[葉山三千子]]、[[渡辺篤 (俳優)|渡辺篤]]らがいる。「大活」で初めて映画界に入り、のちに映画監督になった者も、最初のキャリアは、栗原同様、「俳優」から始めたのだった。 |
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その後、内田吐夢らが設立した映画会社{{要出典}}に協力するなどしたが、生来の持病が悪化し、[[1926年]][[9月8日]]、志半ばで死去した。41歳没。 |
その後、内田吐夢らが設立した映画会社{{要出典}}に協力するなどしたが、生来の持病が悪化し、[[1926年]][[9月8日]]、志半ばで死去した。41歳没。 |
2008年1月29日 (火) 17:08時点における版
トーマス・栗原(-くりはら、本名喜三郎、-きさぶろう、1885年1月24日 - 1926年9月8日)は、ハリウッドで活躍した日本人俳優であり、帰国してわずか1年数か月で30本の作品を残した無声映画時代の日本の映画監督である。
来歴・人物
神奈川県中郡秦野町(現・秦野市)に、材木商の子として生まれる。
父の事業の失敗を見て、単身渡米。1912年、27歳のときに映画俳優養成所に入り、エキストラとして映画出演後、トマス・H・インスが設立したアジア系俳優に特化した「オリエンタル・プロダクション」に入る。早川雪洲、青木鶴子、木野五郎らと東洋を題材とした映画に多数出演する。特に、桜島噴火を扱った『火の海』の予言者は当たり役となった。
日本での映画製作を志し、1918年、帰国する。1920年4月、35歳のとき、知人の浅野良三(浅野財閥創始者の子息)が横浜・山下町に設立した、「撮影所」をもつ映画会社「大正活動映画」に、撮影所長兼監督として入社する。その第1回作品『アマチュア倶楽部』の監督を務め、同作は同年11月19日に公開になる。1922年の初頭に「大活」が製作を中止するまでの1年あまりで、劇映画、ドキュメンタリー含めて、30本もの作品を監督した。彼の教えを受けたものは数多く、監督の内田吐夢、井上金太郎、二川文太郎、俳優の岡田時彦、江川宇礼雄、葉山三千子、渡辺篤らがいる。「大活」で初めて映画界に入り、のちに映画監督になった者も、最初のキャリアは、栗原同様、「俳優」から始めたのだった。
その後、内田吐夢らが設立した映画会社[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。に協力するなどしたが、生来の持病が悪化し、1926年9月8日、志半ばで死去した。41歳没。
フィルモグラフィ
栗原のほとんどのフィルモグラフィは「大活」のそれと一致する。大正活動映画#フィルモグラフィに栗原の「大活」時代のそれが網羅されているので参照のこと。
- アマチュア倶楽部 1920年 ※監督デビュー作
- 美しき日本 1920年
- 葛飾砂子 1920年
- 蛇性の淫 1921年
- 久遠の響 1923年 ※遺作
関連事項
外部リンク
- Kisaburo Kurihara - IMDb(英語)