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しかし、昭和3年([[1928年]])の[[済南事件]]により、東方文化事業総委員会は、中国側の委員が抗議の脱会を行なったことで、その活動の継続が困難になってしまった。その結果、北京・上海と同様の研究機関を日本の国内に設立しようとする機運が、外務省内に起こった。そこで、外務省の文化事業部長の職にあった[[岡部長景]]が、東方文化事業総委員会の委員でもあった[[服部宇之吉]]と[[狩野直喜]]に対して打診を行い、東方文化学院という総称を用いた研究所を東京と京都の双方に設立することが決定した。
しかし、昭和3年([[1928年]])の[[済南事件]]により、東方文化事業総委員会は、中国側の委員が抗議の脱会を行なったことで、その活動の継続が困難になってしまった。その結果、北京・上海と同様の研究機関を日本の国内に設立しようとする機運が、外務省内に起こった。そこで、外務省の文化事業部長の職にあった[[岡部長景]]が、東方文化事業総委員会の委員でもあった[[服部宇之吉]]と[[狩野直喜]]に対して打診を行い、東方文化学院という総称を用いた研究所を東京と京都の双方に設立することが決定した。


同年10月には、東西で中国研究者からなる発起人会が結成され、翌年4月に[[外務大臣]]の助成金交付命令が下りて、東西それぞれの地に、東方文化学院東京研究所、同京都研究所が設立された。
同年10月には、東西で中国研究者からなる発起人会が結成され、翌年4月に[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]の助成金交付命令が下りて、東西それぞれの地に、東方文化学院東京研究所、同京都研究所が設立された。


== その後 ==
== その後 ==

2008年1月6日 (日) 23:03時点における版

東方文化学院(とうほうぶんかがくいん)は、20世紀前半に日本にあった国立の研究機関。

設立の経緯

その発端は、国で光緒24年(1899年)に勃発した義和団の乱である。その際の賠償金を資金とした外務省の「対支文化事業特別会計」を用いて、それを運営の原資として創設されたのが、この東方文化学院の東西2ヵ所の研究所である。

当初、日中双方で構成される委員による「東方文化事業総委員会」が創設され、その元で、北京には人文科学研究所図書館上海には自然科学研究所が設立されて、当時の中国で巻き起こっていた反日感情に対する文化事業の推進が図られた。

しかし、昭和3年(1928年)の済南事件により、東方文化事業総委員会は、中国側の委員が抗議の脱会を行なったことで、その活動の継続が困難になってしまった。その結果、北京・上海と同様の研究機関を日本の国内に設立しようとする機運が、外務省内に起こった。そこで、外務省の文化事業部長の職にあった岡部長景が、東方文化事業総委員会の委員でもあった服部宇之吉狩野直喜に対して打診を行い、東方文化学院という総称を用いた研究所を東京と京都の双方に設立することが決定した。

同年10月には、東西で中国研究者からなる発起人会が結成され、翌年4月に外務大臣の助成金交付命令が下りて、東西それぞれの地に、東方文化学院東京研究所、同京都研究所が設立された。

その後

戦後、各研究所の改組が行なわれ、東京研究所は東京大学東洋文化研究所に、京都研究所は京都大学人文科学研究所となった。

東京大学東洋文化研究所は、当初、東京研究所の施設をそのまま引き継いで使用したが、一部を外務省が研修所としても利用した。その後、東洋文化研究所が東京大学本郷キャンパスに移転し、外務省も研修所を郊外に移転したため、土地と建物は民間に売却する予定となった。

しかし、建物の文化的価値などから保存運動が始まり、始めは東京大学に購入を要請したがそれは叶わず、近隣にキャンパスを持つ拓殖大学が購入することとなった。現在は、拓殖大学国際教育会館として利用されている。

外部リンク