「ジョルジュ・ソレル」の版間の差分
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2008年1月6日 (日) 03:28時点における版
ジョルジュ・ソレル(Georges Sorel、1847年11月2日 - 1922年8月29日)は、アナルコサンディカリスムのフランス人の哲学者、社会理論家。
フランス・シェルブールのワイン商人の家に生まれる。エコール・ポリテクニークを卒業。はじめはフランス政府の技師だった。しかし、社会問題を研究するようになり、1890年代にマルクス主義に傾倒する。労働組合の団結と闘争とを説く(1898年)。その反議会主義と直接行動への志向は当時の知識人と労働者に歓迎された。
最初、マルクス主義理論の弱点と考えたものを補おうとしたが、最終的にはマルクス主義の修正とも言える思想を唱え、史的唯物論と弁証法的唯物論、およびプロレタリア国際主義を拒絶した。さらにマルクス主義の「歴史の必然」を信じず、慎重に考案された「神話」が大衆を一致した行動に導く、と考えた。したがって、ソレルの行動指針は、ゼネラル・ストライキ、ボイコット、サボタージュによって資本主義を分裂させ、労働者による生産手段の統制をもたらすことに向けられた。プルードンやバクーニンのアナキズムの影響も受け、「神話」の重要性と科学的な唯物論への反対についてはアンリ・ベルクソンやエドゥアルト・フォン・ハルトマンに学んだといえる。また、強制力を使って変化を起こす唯一の道だとして、フランス社会でとらえられていたジャコバンの伝統を復興させた。ブルジョワ民主主義を攻撃したことについて、ソレルはアクション・フランセーズのシャルル・モーラスを賞賛した。さらにソレルは階級闘争に限らず、国家の永久戦争the state of permanent warも革命とした。
一方、ソレル自身はあくまでマルクス主義理論家であった。ソレルはイタリアのマルクス主義の父アントニオ・ラブリオーラと親交を持っていて、フランス語に翻訳された「歴史の唯物論概念」についてのラブリオーラのエッセイに序文を書いている。さらには主著の『暴力論(『暴力に関する考察』) Reflexions sur la Violence, 1908年』第五版の付録として、《レーニンのために Pour Lenine 》という題の論文を書いて憲法制定会議をボイコットして社会主義を宣言したレーニンの行為を弁護し、ロシア革命をたたえている。
彼の著書はヴィルフレド・パレート及びベネデット・クローチェに絶賛され、彼の思想はカトリック・反民主主義の政治傾向、特にファシズムには絶大な影響を与え、ムッソリーニに「ファシズムの精神的な父」と呼ばれており、ソレルが亡くなった折にはスターリンとムッソリーニが哀悼の意を表している。また、ヴァルター・ベンヤミンが著した『暴力批判論』はソレル『暴力論』の影響を受けている。
邦訳
- 『暴力論(上)』今村仁司、塚原史訳、岩波書店、2007