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明治40(1907)年9月、アメリカの新聞社([[シカゴ]]・トリビューン紙)が「'''ミスワールドコンテスト'''」を企画。
明治40(1907)年9月、アメリカの新聞社([[シカゴ]]・トリビューン紙)が「'''ミスワールドコンテスト'''」を企画。
時事新報社が打診を受け日本予選として明治41年[[3月5日]]、「日本美人写真募集」と銘打って大々的な全国キャンペーンを展開した。
時事新報社が打診を受け日本予選として明治41年[[3月5日]]、「日本美人写真募集」と銘打って大々的な全国キャンペーンを展開した。
[[芸妓]]・[[女優]]・職業モデルなどは参加不可、自薦他薦は問わない。


『新興の日本帝国は、一事一物決して 人後に落つべからざるのみならず、場合によりては自ら進んで大いに薦むるの必要あるに当り、あたかも良し、此挑戦状は、我に与ふるに絶好の機会を出てせるものに非ずや。(中略)遂に断然応諾の書を作り、敢て'''日本美人写真募集'''の大計画を発表せり。』
『新興の日本帝国は、一事一物決して 人後に落つべからざるのみならず、場合によりては自ら進んで大いに薦むるの必要あるに当り、あたかも良し、此挑戦状は、我に与ふるに絶好の機会を出てせるものに非ずや。(中略)遂に断然応諾の書を作り、敢て'''日本美人写真募集'''の大計画を発表せり。』
(時事新報社による趣意)
(時事新報社による趣意)


自薦他薦は問わない、[[芸妓]]・[[女優]]・職業モデルなどは参加不可の、日本初の本格全国ミスコンであり、総額3000円相当商品が贈答されという史上最大規模の写真コンクールとなり、なんと7,000名もの応募があった。
これが日本初の全国ミスコンであり、事実上[[ミス日本]]を決める最初のとなった。
総額3000円相当の商品が贈答されるということもあって、7,000名もの応募があった。


審査は写真選考のみで、洋画家の[[岡田三郎助]]、彫刻家の[[高村光雲]]、歌舞伎俳優の[[中村芝翫]]など芸術界、芸能界を代表する各界著名人13名が審査に当たった。
審査は写真選考のみで、洋画家の[[岡田三郎助]]、彫刻家の[[高村光雲]]、歌舞伎俳優の[[中村芝翫]]など芸術界、芸能界を代表する各界著名人13名が審査員となった。


==ミス日本==
==ミス日本==

2008年1月2日 (水) 09:21時点における版

末広 ヒロ子すえひろ ひろこ1893年5月1942年)は、福岡県小倉市長・末広直方の七人兄弟の四女。 明治41年3月、学習院女学部3年生(16歳)のとき、日本初の全国規模ミスコンとなった時事新報社主催「日本美人写真募集(良家の淑女写真コンクール)」において第一位となり「日本のミスコン優勝者 第一号」とされる。

学習院退学後、のちに貴族院議員となる野津鎮之助(侯爵、陸軍大将・野津道貫の長男)と結婚。 次女・真佐子は倉敷絹織(現・クラレ)社長・大原総一郎の妻。

幼年期~少女期

幼い頃から活発で、舞踊茶道華道に励み、音楽もピアノをたしなみ、聡明な子供だった。

しかも良家の子女で、小倉小町として地元では有名であった。

日本初のミスコン

明治40(1907)年9月、アメリカの新聞社(シカゴ・トリビューン紙)が「ミスワールドコンテスト」を企画。 時事新報社が打診を受け日本予選として明治41年3月5日、「日本美人写真募集」と銘打って大々的な全国キャンペーンを展開した。 芸妓女優・職業モデルなどは参加不可、自薦他薦は問わない。

『新興の日本帝国は、一事一物決して 人後に落つべからざるのみならず、場合によりては自ら進んで大いに薦むるの必要あるに当り、あたかも良し、此挑戦状は、我に与ふるに絶好の機会を出てせるものに非ずや。(中略)遂に断然応諾の書を作り、敢て日本美人写真募集の大計画を発表せり。』 (時事新報社による趣意)

これが日本初の全国ミスコンであり、事実上のミス日本を決める最初の大会となった。 総額3000円相当の商品が贈答されるということもあって、7,000名もの応募があった。

審査は写真選考のみで、洋画家の岡田三郎助、彫刻家の高村光雲、歌舞伎俳優の中村芝翫など芸術界、芸能界を代表する各界著名人13名が審査員となった。

ミス日本

この時、ヒロ子は16歳。学習院女学部3年に在籍していた。 ヒロ子の美貌は審査員の絶賛のもと一次・二次審査を通過、13人ほぼ全員の絶賛を得て堂々一位に推された。 さらにヒロ子の写真は海を渡ってアメリカの総主催シカゴ・トリビューン紙に送られて、アメリカでも披露された。

末広ヒロ子は一躍時の人となり、父・直方のもとには数百もの縁談の申込みが届き、家族を喜ばせた。

学習院退学

この時、学習院院長は乃木希典であったが、学習院側はヒロ子がこのコンクールに参加したことを知ると、直ちに協議会を開き「他の生徒等の取り締まりの上、停学もしくは論旨退学の処分をなさん」としてヒロ子を論旨退学処分した。

論旨退学論は主に女学部長が主張した。乃木はこれに同意も反対もしなかったらしい。

ヒロ子は処分を甘んじて受け入れた。

侯爵夫人に

この件はヒロ子の義兄が勝手に写真を応募した事実を知って、乃木はヒロ子を退学処分としたことが間違であたことを初めて知った。

乃木は中退者となったヒロ子ために、よい縁談を探すのが一番いい方法だと思い、陸軍士官の中から適当な人材を捜したが、小倉市長の娘であるヒロ子と釣り合いがとれる出自の者はなかなか見つからなかった。

そんな折、事情を知った陸軍大将・野津道貫が乃木のもとを訪れ「ひとつうちの長男ではどうか」と助け船を出した。

野津道貫の長男・鎮之助は陸軍少佐で、前年侯爵となったばかりで、父の跡を継いで貴族院議員になることが決まっている。

この縁談はヒロ子の両親を大変喜ばせ、ヒロ子も侯爵とのお見合い話に驚いた。。

野津鎮之助は軍人だが、社交的で誠実な人柄であった。 鎮之助の方ももちろん末広ヒロ子を大いに気に入った。

乃木を媒酌人として、二人は結婚した。

この縁談に至ったくだりは「乃木将軍の大岡裁き」として、乃木神話の一つとして一つ話のようになった。

関連項目