「ティアーズ・フォー・フィアーズ」の版間の差分
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2008年1月2日 (水) 09:06時点における版
ティアーズ・フォー・フィアーズ | |
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別名 | TFF |
出身地 | イングランド バース |
ジャンル |
ニューウェーヴ シンセポップ サイケデリック・ロック |
活動期間 | 1981年~ |
レーベル |
ニュー・ドア、ガット、 フォノグラム、マーキュリー、 ユニヴァーサル |
公式サイト | [1] |
メンバー |
ローランド・オーザバル(ギター) カート・スミス(ベース) |
旧メンバー |
イアン・スタンリー マニー・エリアス |
ティアーズ・フォー・フィアーズ(Tears for Fears)はイギリスの2人組バンド。1980年代に数々のヒット曲を放った。
略歴
1980年にデビューしたグラデュエイトというバンドに在籍していた、共に観光地バースに生まれ育ったローランド・オーザバル、カート・スミスにより1981年に結成、フォノグラムよりデビュー。"Tears for Fears"というバンド名は臨床心理学者アーサー・ヤノフの著作「原初からの叫び」の章タイトルから取ったもの。レコード会社は変更を命じるが、拒否した。デビュー・シングルは「サファー・ザ・チルドレン」。1982年に「マッド・ワールド」がヒットし、当時流行していたシンセサイザー・ポップのアーティストとして脚光を浴びる。"pale shelter"や"change"もヒットとなり、根強いファンを獲得、イギリスでのニューウェーブの旗手と目される。ファーストアルバム「ザ・ハーティング」には、ピーター・ガブリエル、ジャパン (バンド)等の影響を見ることができる。
1984年、シングル"The Way You Are"をリリースするが、坂本龍一に傾倒したシンセや日本の盆踊りを彷彿させるドラムはマニアック過ぎ、広くは受け入れられなかった。
1985年、フェアライトCMIを大幅に導入し、よりアメリカを意識してクオリティの高いサウンドを構築したアルバム「ソングス・フロム・ザ・ビッグ・チェアー」を発表。アルバム・タイトルはテレビドラマ「シビル」から取られた。多重人格の少女が唯一くつろげる大きな椅子のこと。イギリスでの大ヒットに続き、アメリカでも「ルール・ザ・ワールド」、「シャウト」という2曲の全米ナンバーワンヒットを送り出し、世界的な成功を手にした。日本でも1985年のスズキ (自動車メーカー)「カルタス」CMに採用され、舘ひろしとともに広く認知される。さらに、「ヘッド・オーバー・ヒールズ」もチャート上位にランクしたが、これは印象的なイントロから後年カルト映画「ドニー・ダーコ」でも取り上げられることになる。同年には「ライブ・エイド」にも出演する予定だったが、直前になってサポートメンバーが脱退したためキャンセルしている。(ライブ・エイドの主催者ボブ・ゲルドフの横柄な態度に対してローランド・オーザバルが切れたため、というのが辞退の真相らしい。)
1989年に発表された「シーズ・オブ・ラブ」では従来のシンセサイザー・ポップ路線からビートルズやR&Bの影響を感じさせる作風へと転換。同名シングルもヒットし、引き続き高い評価を得た。カンザス州のホテルで歌っていたオリータ・アダムスを起用、多数のスタジオ・ミュージシャンも参加している。シングル「ウーマン・イン・チェインズ」ではフィル・コリンズのドラム、他にベースでピノ・パラディーノ等。しかしこの後にオーザバルとスミスは袂を分かち、スミスはソロアルバム"Soul on Board"をリリースした。その後、スミスはニューヨークを拠点に自らのバンド"Mayfield"でインディーにて地道に活動を続けることとなる。
1993年にオーザバルはアラン・グリフィスとともにティアーズ・フォー・フィアーズとしての活動を再開し2枚のアルバムを発表する。4枚目のアルバム「エレメンタル」は、ソロプロジェクトの色彩が強く、マニアの評価は高い。ベースで現在デビッド・ボウイのサポートを務めるゲイル・アン・ドロシーが参加しており、次のアルバムまで緻密なプレイを披露している。
1994年~1995年あたりにフォノグラムからエピック・レコードに移籍。1995年には、5枚目のアルバム「キングス・オブ・スペイン」を発表。ギターとしてキャロル・キングの娘ルイーズ・ゴフィンがツアーに参加した。その後は再び活動停止状態となっていたが、ローランドはソロアルバム"Tomcats screaming outside"をリリースし健在ぶりを示した。
2003年12月、Gary Julesによるカバー・バージョンの「マッド・ワールド」が映画「ドニー・ダーコ」のエンドロールで流されたことにより、イギリスで大ヒットとなった。オーザバルとスミスの2人はこの頃から再会して再び一緒に曲を作り始め、TLC等を手がけた敏腕プロデューサーAntonio LA REIDが二人のデモに惚れ込み、彼の所属するアリスタ・レコードと契約することになった。しかし、同レーベルの経営上の問題等からリリースは延期され、ユニバーサル傘下の新レーベルでのリリースまで1年以上のお蔵入りを余儀なくされた。
2004年にオーザバルとスミスによるティアーズ・フォー・フィアーズが復活した。アルバム"Everybody Loves A Happy Ending"は、社会への視点をより成熟させ、ポップセンスとビートルズ的な要素に磨きがかかっており、往年のファンを喜ばせた。オーザバルはバースからロサンゼルスのスミス家近くに居を移した。2人はさまざまなメディアで再結成をアピールし、アメリカ、ヨーロッパのツアーも精力的に行った。