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'''東都大学野球連盟'''('''とうとだいがくやきゅうれんめい''' 英語表記は'''TOHTO UNIVERSITY BASE BALL LEAGUE''')とは、東京近隣に所在する21校の大学の硬式野球部で構成された大学[[野球]]リーグ(
主要5大学野球連盟のひとつー東京六大学・東都・首都・関西学生・関西六大学)である。
主要5大学野球連盟のひとつー東京六大学・東都・首都・関西学生・関西六大学)である。

2007年12月14日 (金) 09:40時点における版

東都大学野球連盟とうとだいがくやきゅうれんめい 英語表記はTOHTO UNIVERSITY BASE BALL LEAGUE)とは、東京近隣に所在する21校の大学の硬式野球部で構成された大学野球リーグ( 主要5大学野球連盟のひとつー東京六大学・東都・首都・関西学生・関西六大学)である。

出身選手についてはCategory:東都大学野球連盟の選手を参照。

略歴

正史としては、1931年春からリーグ戦を開始した國學院大學専修大学中央大学東京農業大学日本大学による東京五大学野球連盟(当時は通称で新五大学野球リーグと呼ばれた)が連盟の始まりである。

東京五大学野球連盟結成前の1925年、東京六大学野球連盟が結成された頃に國學院大學、専修大学、日本大学、東京商科大学(後の一橋大学)、東洋大学宗教大学(後の大正大)によって東京新大学野球連盟(後年の同名の連盟とは無関係)が結成されていた。しかし、技量が低く翌年には改編。國學院大學、日本大学、東洋大学、東京農業大学、上智大学東京大学農学部青山学院高千穂高等商業学校早稲田大学高等師範部東京高等工芸学校などの専門学校(旧制)も加えた東京新十大学野球連盟と改称したが、歩調が合わず結局は永続しなかった。

その後、日本大学、専修大学、國學院大學が主体になり、中央大学と東京農業大学を招聘して前身である東京五大学野球連盟を結成した。その後、東京商科大学が加盟する際に名称を現在の東都大学野球連盟と改めて現在に至っている。 なお東都大学連盟の設立経緯にまつわる説には諸説が存在している。(後述連盟創設時の経緯に詳細を紹介。)

創設当時は全国的な統括組織が存在しなかったこともあり、東京六大学野球連盟や関西六大学野球連盟と共に独立した連盟であったが、前述2連盟と共に第二次世界大戦後に結成した全国大学野球連盟を経て、現在は全日本大学野球連盟傘下となっている。全日本大学野球選手権大会では、大会設立以来永らく単独トップだった東京六大学野球連盟の優勝回数を近年になって時には上回るなど合い競う段階に達し、更に決勝進出の回数に関しては全国の連盟中でも際だった実績を残している。

沿革

  • 1931年 國學院大學専修大学中央大学東京農業大学日本大学が加盟する東京五大学野球連盟(当時、通称で新五大学野球連盟)として発足。(早大戸塚球場にて発足式を開催)第1回リーグ戦は専大が優勝。
  • 1932年 秋季に中央大学が初優勝。
  • 1933年 秋季に日本大学が初優勝。
  • 1936年 東京商科大学(現在の一橋大学)が加盟し、東都大学野球連盟へ改称。
  • 1940年 東京慈恵会医科大学(数年後に脱退)、上智大学東京工業大学東洋大学、東京文理科大学(後の東京教育大学、現在の筑波大学)が加盟し、2部制と入れ替え戦を施行。
  • 1943年 戦時命令により各学生スポーツ競技が禁止。東都もリーグ戦を中止。
  • 1946年 前年の第二次世界大戦終戦を受けて連盟の活動が再開。
  • 1947年 東京六大学野球連盟および関西六大学野球連盟とともに全国大学野球連盟を結成。同年から大学野球王座決定戦が開催される(1回戦総当り制)。
  • 1948年 駒澤大学が春季に加盟。同年秋に大正大学が加盟。
  • 1949年 紅陵大学(現在の拓殖大学)が加盟。
  • 1950年 学習院大学が加盟(全国新制大学野球連盟の東京地区から移籍)。秋季から参加。
  • 1951年 春季に青山学院大学芝浦工業大学成蹊大学武蔵工業大学、秋季に紅陵大学が脱退した代わりに明治学院大学が加盟(以上全て全国新制大学野球連盟の東京地区から移籍)し、3部制を施行。以後19校目以降の加盟校は、3部との入れ替え戦への出場権のみを有した別運営の準加盟リーグとして編入されることに。
  • 1952年 全国大学野球連盟と全国新制大学野球連盟が合併し双方とも発展的解消になる。全国大学野球連盟加盟の3連盟は同年8月実施の全日本大学野球選手権大会の代表枠において連盟単独の代表枠となる。
  • 1955年 秋季から背番号を導入。
  • 1958年 順天堂大学千葉県大学野球連盟からの移籍)、成城大学日本体育大学(以上は東京都新制大学野球連盟からの移籍)が加盟。秋季に学習院大学が優勝。
  • 1959年 亜細亜大学東京経済大学東京新大学野球連盟からの移籍)が加盟。国士舘大学立正大学が準加盟2部に加盟。春季、1部の中央大が部員の不祥事でリーグ戦を1季間出場停止(2部に自動降格)。
  • 1961年 第10回全日本大学野球選手権大会において日本大学が連盟代表として初の優勝。秋季に芝浦工業大学がリーグ初優勝。
  • 1962年 春季に駒澤大学が初優勝。
  • 1963年 拓殖大学が再加盟(準加盟スタート)。
  • 1964年 3部~準加盟1部・2部のなかから成城大学、日本体育大学、東海大学、東京教育大学(現在の筑波大学)、東京経済大学、武蔵大学、明治学院大学の7校が脱退(7大学は首都大学野球連盟を設立)。残りを3部・4部に再編成(詳細は脱退騒動を参照)
  • 1966年 秋季に亜細亜大学が初優勝
  • 1967年 第16回全日本大学野球選手権大会において中央大学が優勝したことにより、東都大学野球連盟としては初、連盟別としては東京六大学野球連盟(過去2回達成)の記録に並ぶ同一連盟代表による4連覇を達成。この頃より「実力の東都」の称号が言われ始める
  • 1970年 同年秋から秋季の全国各連盟代表による明治神宮野球大会が始まる
  • 1971年 第2回明治神宮野球大会において、日本大学が連盟代表として初の優勝
  • 1976年 神宮球場竣工50周年記念試合として東京六大学野球連盟との選抜チーム対抗試合を実施。秋季に東洋大学が初優勝
  • 1979年 秋季に国士館大学が初優勝
  • 1981年 連盟のオフィシャルガイドブックの発行を開始。テレビ神奈川にてリーグ戦の生中継が実現(各週1日のみ。本年度のみ)
  • 1982年 3月17日、神宮球場の改装こけら落としのお披露目興行として、学生野球協会からの協力要請に従い、東都大学野球連盟対東京六大学野球連盟の前季優勝校対戦を実施(専修大2-2法政大)
  • 1984年 春季、2部の拓殖大学に出場選手の資格違反が発覚し、1年間(2季)の出場停止(4部に順次降格)。
  • 1985年 秋季、1部の国士舘大学に部員待遇に学生野球憲章違反の疑いがかかり、1年間(2季)の出場停止(3部に順次降格)。
  • 1986年 神宮ガイドブックの発行により、オフィシャルガイドブックの発行を廃止
  • 1988年 秋季に青山学院大学が初優勝
  • 1991年 連盟創立60周年を記念し全加盟校によるトーナメント大会を例年の新人戦に代わり実施。以後4年に一度の割合で1部~4部の交流試合(各校1試合づつ)の実施を決定
  • 1993年 秋季に連盟のオフィシャルガイドブックの発行を復活
  • 1994年 秋季の1部リーグ戦に限り、第一週を土日週末開催(神宮球場を六大学野球が未使用の為)、以後恒例化する。
  • 1995年 秋季で連盟のオフィシャルガイドブックの発行を再び廃止
  • 1996年 11月9日に明治神宮外苑創建70周年記念試合として東京六大学野球連盟との選抜チーム対抗試合実施(1対4で敗れる)。また、11月14日には連盟結成65周年記念として、東都OBプロ選抜対現役選抜交流戦を実施(2対1で現役チーム勝利)
  • 2001年 連盟創立70周年式典を挙行。同時に連盟としては初になる連盟70年史を発行。また11月11日に、記念試合として東都OBプロ選抜対現役選抜交流戦を実施。(6対4で現役チーム勝利)
  • 2002年 CS・J-SKYスポーツにてリーグ戦数試合の放送が開始(放送2シーズン目には1部2部入れ替え戦まで中継する力の入れようだったが、その後はシーズン毎に中継試合数が縮小し、2004年を最後に終了。)
  • 2005年 第54回全日本大学野球選手権大会において青山学院大学が4度目の出場で4度目の優勝。連盟別での優勝回数が21回となり、初めて東京六大学野球連盟を抜いて全国最多となる。また、秋季の終了をもって1971年から駒澤大学を35年間70シーズン率いた太田監督が全国でも歴代監督最多の501勝で勇退(監督としての生涯戦績:501勝393敗19分け、リーグ優勝22回、大学選手権優勝5回、神宮大会優勝5回、2部降格は1季のみ)した。亜細亜大学が部員の不祥事絡みで春季リーグ戦を出場辞退(リーグ処分に従い1季間の出場停止。)。
  • 2007年 秋季リーグ戦において、好評になっていた秋季の開幕戦のみの1部リーグ戦土日開催(六大学リーグ戦未使用時期に当たるため)に加えて、そのメリットを活かす為に試験的に開幕週を6校登場の3試合とし、リーグ戦期間を7週制で行った。
※出場停止に伴う順次降格について

連盟や学生野球協会により出場停止の処分を受けた場合、停止期間中はリーグ戦・入れ替え戦ともに不戦敗と同等扱い(但し記録上は不戦敗という記録にはならない)になる。出場停止期間中のリーグ戦と入れ替え戦は全て不戦敗となる事で、それに応じて、「リーグ戦全敗→最下位→入れ替え戦出場→不戦敗→降格」という手順を踏んでいく。東都のように入れ替え戦システムを採っている連盟では実質的には降格処分と同等になるが、それは入れ替え制のシステムには必然的に伴うもので降格そのものは処分内容ではない。(仮にトーナメント戦しか行っていない連盟の場合は、単にその期間中に出場停止となるだけになる。)

試合会場

東都大学野球連盟は創設にいたる経緯や時期の関係で、関東で2番目に結成された大学野球リーグとして早い時期から東京六大学野球連盟に次ぐ存在と認知されてきたことから、明治神宮野球場および神宮第二球場の使用割り当て優先の配慮を東京六大学野球連盟の次いで受けている。そのため、1部は東京六大学野球連盟が使用しない場合の火曜日と水曜日(東京六大学野球連盟が雨天等で延期になった場合はその分日程が後日にずれる)を中心に神宮球場を使用して試合を開催している[1]。なお、1994年以降は、秋季に限り開会式と1部リーグ戦開幕を土日の神宮球場で週末開催している(球場が六大学野球の未使用日に当たる為)。また2部の殆どの試合は神宮第二球場の平日を優先利用している。2部のごく一部と3部以下は各大学が所有する球場を使用して試合を実施している。

運営方法

構成

加盟校数の関係から前シーズンの成績を基にした各部6校構成を基本に1部から4部まで分けたブロック運営を行なっている。 最上位リーグを1部リーグ、順次下位リーグを2部以下と称する。

対戦方法

各部共に春季と秋季にそれぞれリーグ戦を実施。2戦先勝方式の総当たりによる勝ち点制。(引き分けは再試合)尚、4部のみはチーム数の関係で勝ち点制の総当りを2巡り行なう。また各シーズン終了後に各部の間で入れ替え戦を実施する。

2戦先勝方式
同一の対戦校に対して先に2勝したチームがその相手校との対戦に勝利したとして対戦を終了する。(1勝1敗の場合は第3戦を行い決着を付ける。)

順位決定方法

勝ち点

同一対戦校に勝ち越した場合に勝ち点1を獲得し、勝ち点が多い方が上位。勝ち点が同じ場合は全体の勝率比較によって順位を決定。 勝ち点も勝率も同じ場合は、優劣の決定が必要な場合に限り決定戦(プレイオフ)を行なう。 それ以外の場合は同順位とする。 (かつては、前シーズンの順位が上だった方を上位とする方法を採った時期もあった。) 決定戦の成績はリーグ戦の成績に加算しない。

入れ替え戦

各部のリーグ戦の終了後に上位リーグの最下位校と下位リーグの優勝校との間で対戦を組み、勝者チームを次シーズンの上位リーグの所属とする。(敗者チームは次シーズンは下位リーグ所属となる。) 対戦方法は2戦先勝方式

日程の編成

東都大学野球連盟での日程編成は、前季の成績に応じて決められる。特定のチームの都合や時々の事情で変わる事は通常ない。過去数度の例外があるが、事情で変更する場合は、あくまで後述のテンプレートを基本に変更する手段が採られる。(4部については規定の6校構成ではないため、以下の基準適応の対象外。特定のパターンが確認されない。)

基本パターン

A大B大C大 D大E大F大
A 大
(前季1位)
※1
★第8週1日目第1試合
(3塁側先攻)
★第8週2日目第2試合
(1塁側後攻)
★第6週1日目第1試合
(3塁側先攻)
★第6週2日目第2試合
(1塁側後攻)
★第3週1日目第1試合
(3塁側先攻)
★第3週2日目第2試合
(1塁側後攻)
★第1週1日目第1試合
(3塁側先攻)
★第1週2日目第2試合
(1塁側後攻)
★第4週1日目第1試合
(3塁側先攻)
★第4週2日目第2試合
(1塁側後攻)
B 大
(前季2位)
★第8週1日目第1試合
(1塁側後攻)
★第8週2日目第2試合
(3塁側先攻)
★第3週1日目第2試合
(3塁側先攻)
★第3週2日目第1試合
(1塁側後攻)
★第6週1日目第2試合
(3塁側先攻)
★第6週2日目第1試合
(1塁側後攻)
★第2週1日目第1試合
(3塁側先攻)
★第2週2日目第2試合
(1塁側後攻)
★第5週1日目第1試合
(3塁側先攻)
★第5週2日目第2試合
(1塁側後攻)
C 大
(前季3位)
★第6週1日目第1試合
(1塁側後攻)
★第6週2日目第2試合
(3塁側先攻)
★第3週1日目第2試合
(1塁側後攻)
★第3週2日目第1試合
(3塁側先攻)
★第7週1日目第1試合
(3塁側先攻)
★第7週2日目第2試合
(1塁側後攻)
★第4週1日目第2試合
(3塁側先攻)
★第4週2日目第1試合
(1塁側後攻)
★第1週1日目第2試合
(3塁側先攻)
★第1週2日目第1試合
(1塁側後攻)
D 大
(前季4位)
★第3週1日目第1試合
(1塁側後攻)
★第3週2日目第2試合
(3塁側先攻)
★第6週1日目第2試合
(1塁側後攻)
★第6週2日目第1試合
(3塁側先攻)
★第7週1日目第1試合
(1塁側後攻)
★第7週2日目第2試合
(3塁側先攻)
★第5週1日目第2試合
(3塁側先攻)
★第5週2日目第1試合
(1塁側後攻)
★第2週1日目第2試合
(3塁側先攻)
★第2週2日目第1試合
(1塁側後攻)
E 大
(前季5位)
★第1週1日目第1試合
(1塁側後攻)
★第1週2日目第2試合
(3塁側先攻)
★第2週1日目第1試合
(1塁側後攻)
★第2週2日目第2試合
(3塁側先攻)
★第4週1日目第2試合
(1塁側後攻)
★第4週2日目第1試合
(3塁側先攻)
★第5週1日目第2試合
(1塁側後攻)
★第5週2日目第1試合
(3塁側先攻)
★第7週1日目第2試合
(3塁側先攻)
★第7週2日目第1試合
(1塁側後攻)
F 大
(前季6位)
※2
★第4週1日目第1試合
(1塁側後攻)
★第4週2日目第2試合
(3塁側先攻)
★第5週1日目第1試合
(1塁側後攻)
★第5週2日目第2試合
(3塁側先攻)
★第1週1日目第2試合
(1塁側後攻)
★第1週2日目第1試合
(3塁側先攻)
★第2週1日目第2試合
(1塁側後攻)
★第2週2日目第1試合
(3塁側先攻)
★第7週1日目第2試合
(1塁側後攻)
★第7週2日目第1試合
(3塁側先攻)
  • ※1:入れ替え戦の結果で降格したチームの場合もあり
  • ※2:入れ替え戦の結果で昇格したチームの場合もあり
  • 特記1:引き分けは再試合扱いになり、該当試合の翌日以降の扱いは順延と同等扱いになる。
例:第1日第1試合が引き分けの場合、その試合は翌日再試合となり、同じ先攻後攻のまま翌日の同カード(第2日第2試合)に差し替えられる。本来の当初予定カードはその翌日に順延(第3日第1試合)となる。
  • 特記2:第3日が実施される場合、第1日と同様パターンが基本になる。
  • 特記3:東京六大学野球開催期間中においては、東都の日程で発表になる火・水は六大学野球の予備日(月~水)にあたる為、その週の六大学終了翌日以降に順延になる。(但し六大学優先日は水曜日まで)
  • 特記4:雨天の場合順延。(中止とは異なる。)

基本日程

基本パターン表を基に日程表を作成すると以下の様になる。

1部~3部
  • 第1週第1日 A大-E大 C大-F大
  • 第1週第2日 F大-C大 E大-A大
  • 第2週第1日 B大-E大 D大-F大
  • 第2週第2日 F大-D大 E大-B大
  • 第3週第1日 A大-D大 B大-C大
  • 第3週第2日 C大-B大 D大-A大
  • 第4週第1日 A大-F大 C大-E大
  • 第4週第2日 E大-C大 F大-A大
  • 第5週第1日 B大-F大 D大-E大
  • 第5週第2日 E大-D大 F大-B大
  • 第6週第1日 A大-C大 B大-D大
  • 第6週第2日 D大-B大 C大-A大
  • 第7週第1日 C大-D大 E大-F大
  • 第7週第2日 F大-E大 D大-C大
  • 第8週第1日 A大-B大
  • 第8週第2日 B大-A大

※右側頭字校が3塁側先攻

4部

特に特定の規則性は確認できない。

未消化試合の消化法則

内規として以下の基本法則に則って施行されている。

  • 前提条件
  1. 球場は基本的に全て神宮球場。
  2. 神宮球場の東都の優先使用権は木・金曜日。東京六大学野球が行なわれない場合の火・水曜日に限り東都が使用可能。
  • 未消化試合日の実施方法
    • 未消化試合が複数ある場合は、基本的には本来の日程で古い順番に消化する。
    • 未消化試合があっても本来のその週予定の試合を優先する。
    • その週予定の試合を消化次第に翌日以降に未消化試合を行なう。
    • 対戦相手が異なる別カードを行なう場合、特別な事情がない限り(※)、最低中一日を空けて行なう。→カードが連続する事での不利が生じない事を考慮した対校戦的思想からの方策。※中一日ルールにより金曜が空き日になっても基本的には空き日とする。
    • その週に消化不可能な場合は、さらに翌週以降に度同様の規定内で実施する。
    • 未消化試合の遅延滞積や天候不良予測などにより、本来の基本則では消化困難な場合、翌週以降の日程を含めて全体を日程変更する事がある。(過去の例として、そういう事態に陥ったのは第6週または第7週終了時点で、第5週以前にそういう事を実施した例はない。)
    • 不測の事態で後半の日程変更を行なう場合も、基本的には異なるカードを実施する場合は中一日ルールを適応して編成する。
  • 用例
    • ケースA
日程
第5週(火) A大-B大(第1回戦)、C大-D大(第1回戦)
第5週(水) D大-C大(第2回戦)、B大-A大(第2回戦)
未消化未消化試合 第3週未消化:B大-C第(第3回戦)、第4週未消化:E大-F大(第3回戦)
で、日程通り試合が実施の場合、
1)EF(3)は木に行なわれる。(中一日ルールに抵触しない為)
2)BC(3)はAB、CDの今週分が全て終了(第3回戦が発生したら第3回戦まで終了)した後、中一日空けた日に実施する。(AB、CD両方が水に終了したら金、どちらか一方でも木に第3戦があれば、金曜は空き日。)
3)この週未消化分は翌週の空き日に同様ルール内で消化予定を組む。
    • ケースB
日程
第5週(火) A大-B大(第1回戦)、C大-D大(第1回戦)
第5週(水) D大-C大(第2回戦)、B大-A大(第2回戦)
未消化未消化試合 第3週未消化:B大-C(第3回戦)、第4週未消化:E大-F大(第3回戦)
で、雨天順延、または、六大学野球順延により日程消化が水曜開始になった場合、
1)EF(3)は金曜に行なわれる。(中一日ルールに抵触しない為)
2)BC(3)はAB、CD両方が全て木曜に終了しても、中一日ルール優先の為金曜は空き。
3)この週未消化分は翌週の空き日に同様ルール内で消化予定を組む。
    • ケースC
日程
第5週(火) A大-B大(第1回戦)、C大-D大(第1回戦)
第5週(水) D大-C大(第2回戦)、B大-A大(第2回戦)
未消化未消化試合 第3週未消化:B大-C第(第3回戦)、第4週未消化:E大-F大(第3回戦)
で、雨天順延、または、六大学野球順延により日程消化が木曜開始になった場合、
1)EF(3)BC(3)共に未実施。
2)この週未消化分は翌週の空き日に同様ルール内で消化予定を組む。
    • ケースD
日程
第5週(火) A大-B大(第1回戦)、C大-D大(第1回戦)
第5週(水) D大-C大(第2回戦)、B大-A大(第2回戦)
未消化未消化試合 第3週未消化:A大-E第(第3回戦)、第4週未消化:B大-F大(第3回戦)
で、日程通り試合が実施の場合、
1)AE(3)、BF(3)共にABの今週分が全て終了(第3回戦が発生したら第3回戦まで終了)した後、中一日空けた日に実施する。(ABが水に終了したら金、第3戦があればこの週は未実施で金曜は空き。)
3)この週未消化分は翌週の空き日に同様ルール内で消化予定を組む。

加盟大学

1部リーグ

2部リーグ

3部リーグ

4部リーグ

その他のエピソード

応援団

活動規制

東都大学野球連盟では、同じ神宮球場を専有使用している東京六大学野球における東京六大学応援団連盟のように、野球連盟と密接な関係をもつ学生応援団連盟は存在せず、応援団・応援部については当該校野球部の直轄管理責任となっている。なお、全日本学生応援団連盟を参照。

過去の経緯
東都大学野球連盟では、昭和30年代後半から40年代にかけた学園紛争時期を中心に、リーグ戦野球応援に絡んだ球場内外での各校応援団同士の乱闘傷害事件が相次ぎ、リーグ運営にまで悪影響を及ぼしたことから、リーグ公式戦期間中の応援団の球場内立ち入りを一切禁止にした時期が数年続いた事があった。現在、組織的な応援については、応援団・応援部の管理指導責任が当該野球部の責任となり、野球部の公認がある場合のみ応援活動が認められているが、これは前述のような当時の反省の上にたった結果である。

使用楽器の規制

神宮球場・神宮第二球場は、自然環境保護(主に騒音の観点から)の都合から、楽器使用応援の規制を行なっており、東都大学野球連盟としてもこの通達に沿った応援規制を敷いている。スタンドでの応援活動で、規制制限外の応援への注意・指導は、球場内においては球場職員が直接これに当たっている。(詳細は明治神宮野球場の当該項を参照。)

応援リーダー台

使用している応援リーダー台は、東京六大学応援団連盟の所有物であるため、特別な事情が無い限りは応援団同士の個別借用ではなく、借主は東都大学野球連盟として貸料を一括納入している。(各校応援部・応援団は、野球部経由で東都大学野球連盟に納入するか、或いは学校によっては野球部・大学側が諸経費の一部として納入している。但し応援組織の有り無しや応援形態の違いなど学校により事情が異なるので、台の使用と貸料の発生は、あくまで事前の申し出による。)

脱退騒動

以下の経緯により脱退から新連盟(首都大学野球連盟)設立に至る。

  • 1963年11月下旬の私学塾懇話会(東海大学、学習院大学、東京農業大学、成蹊大学、成城大学、武蔵大学、甲南大学で構成)の席上で東海大学総長が新リーグ結成を提案(雑談で終わる)
  • タイミング的に偶然、全日本大学野球連盟でも大学野球新興の目的で地区割りの再編成をして選手権出場チームを9校増やす案が浮上。
  • この情報をキャッチした東海大学総長は、翌年1月の同懇話会で再提案。東京農業大学・学習院大学は婉曲に参加を拒否。
  • 1964年 2月に選手権参加校の増加が正式決定。
  • 1964年3月5日 東海大学の提案に賛同した成蹊大学、成城大学、武蔵大学に上智大学、東京教育大学、日本体育大学も加わって関係者が協議。全日本大学野球連盟の理事を私的に招いての意思表明と実現性を確認。
  • 1964年3月6日 東都大学野球連盟への脱退届けと、全日本大学野球連盟への新連盟申請書を提出。
  • 東都大学野球連盟側は、下部へのフォロー不足を認めながらも不快感を表明。
  • 1964年3月10日 上智大学が書類認可の手続き上の不備、成蹊大学が提出書類の不備とその間のOB会での決定を理由に脱退届けの撤回を申し入れ。
  • 東都大学野球連盟理事会で、脱退組の行動(東都大学野球連盟を通さずに直接全日本大学野球連盟に新連盟結成を申請したこと)が問題視され、東海大学、成城大学、武蔵大学、東京教育大学、日本体育大学の5校は春季リーグ戦出場自粛を申し渡される。
  • 東都大学野球連盟内での承認問題がこじれ、脱退承認と全日本大学野球連盟での新連盟承認が遅れる。
  • 1964年6月13日 新連盟の加盟承認が全日本大学野球連盟から下りる。同時に、東京経済大学、明治学院大学も新連盟(首都大学野球連盟)に移籍。

※実際には、東海大学の関係者は、他にも幾つかの大学に新リーグ参加の誘いを行なっていたことが関係者の談話からうかがい知れる。青山学院大も1963年夏ごろに密かに誘われたが、当時監督の残留意思により、その後の正式な誘いの席に着くことなく立ち消えになった。またその時点では、既に明治学院大からは時期が来たら合流する賛同の内諾は受けていた。当時の内諾を受けた関係者の談話からは、実際に脱退行動を起こす以前の新リーグ草案の目論見としては、成蹊大・成城大・武蔵大・学習院大・明学大・青山学院大学・上智大学・東京教育大などを組み入れてのイメージ先行型のリーグの盟主になる事だったのが推測される。 尚、招聘時の誘い文句としては、以下の通りであったといわれており、当時の東都下部所属校にすれば実に魅力的だったと言える。

  1. 新リーグ設立による選手権への出場が容易になる
  2. 新宿御苑に新球場設立がほぼ確かなのでその球場を占有できるのは確実
  3. 東京六大学野球連盟並みのしっかりした組織運営(当時は確かに東京六大学野球連盟の運営は頭一つ以上図抜けていた。)

上記1は早期に実現され、3は徐々に整備されていったが、2は実現されることなく現在に至っている。(但し、東海大学関係者は盟主としての責任を果たすべく、その後もリーグ運営の為に孤軍奮闘の尽力を重ねた。)


参考:1964年春季リーグ開始直前(脱退騒動直前)のリーグ構成

  • 1部:専修大学、中央大学、日本大学、芝浦工業大、駒澤大学、國學院大學
  • 2部:東洋大学、東京農業大学、青山学院大学、学習院大学、亜細亜大学、国士舘大学
  • 3部:上智大学、東京経済大学成城大学、成蹊大学、日本体育大学明治学院大学
  • 準加盟1部:一橋大学、順天堂大学、東京工業大学、武蔵大学東海大学
  • 準加盟2部:拓殖大学、大正大学、立正大学、武蔵工業大学、東京教育大学

伝統の一戦

早い時期から入れ替え戦制度を採っていた東都大学野球連盟では、東都と同じ同じ旧制大学野球リーグ以来から続く東京六大学野球での早慶戦や、現在の関西学生野球の関関戦同立戦のような知名度の高い伝統的な組み合わでの対戦カードは存在し得なかった。しかし、それでも一部の関係者やファンの間では伝統の一戦と呼ばれる対決が存在する。以下に例を記す。(伝統的な定期戦交流をしている場合でも当該校同士でのみのものは対象外。)

  • リーグ創世記の専修大・中央大・日本大学の3強時代の流れを汲むもの(東都御三家との異称もある[2]
    • 専修大学対中央大学
    • 中央大学対日本大学
    • 日本大学対専修大学
  • リーグ創世校同士のライバル校の流れを汲むもの
    • 東京農業大学対國學院大學
    • 國學院大學対日本大学
  • 昭和後半期での優勝争いにまつわるもの
    • 東洋大学対駒澤大学
    • 東洋大学対亜細亜大学
    • 亜細亜大学対駒澤大学

これら東都の中でも比較的人気の高い対校戦を集め固定した試合をオフシーズンに準公式戦として開催、定期戦化していこうという動きが一部関係者の中で存在していたこともある。

東都六大学

一部の新聞や雑誌、ネット上のサイト内記述や東都所属校野球部OB、さらには著名な野球解説者[3]でさえも稀に「東都六大学」という用語を使用しているケースがある。さらにはかつては国会答弁の中でもその表現が使われたことがある[4]。但し、所属校も6校限定ではないことから、東都大学野球連盟では公的にも、また(国内の一部の連盟に見られるような)ローカルな愛称や通称としても「六大学」の呼称は使用しておらず、完全にスラングである。

連盟創設に関する諸説

東都大学野球連盟発足の経緯は、関係者の回想や現在は閲覧できない(第二次世界大戦時の空襲などで文献が焼失しているなどのケースが多い)資料を孫引きした二次資料によるものが多く、参考となる一次資料に乏しいため、比較的信用できるとされている文献ですら、事実であったかどうかの検証が難しく、謎のままとなっている。そのことがさらにファンによる空想を書き立て、いろいろな異説がまことしやかに流れているのが現状となっている。以下の内容はこうした状況を踏まえた上で、比較的信用できる文献で使用されている説を反論も踏まえて列記したものである。

最も有力な説は、日本大学や國學院大學、専修大学は東京六大学野球連盟へ加盟申請を度々行っていたが拒否され続けたため、やむなく他の大学を誘い東都大学野球連盟を設立したというものである。加盟申請自体は実際に行われていたことが比較的信用出来る資料として残存している。しかし、もし加盟できなかったので別の連盟を設立したというこの説が事実であるならば東都連盟発足当初の運営主軸は日本大学などになるはずで、連盟の中心が中央大学であったという事実が説明できない。

また、東都の母体である新五大学野球連盟が創設される以前、『東京帝国大学法典論争をしていた中央大学は東京六大学野球連盟への加盟要請を拒否、同じく拒絶した日本大学・専修大学とともに東京六大学野球連盟に対抗する野球連盟を作ることを発起した。これに東京大学と農学分野で覇を競っていた東京農業大学が参加、日本大学と関係が深かった國學院大學も参加することになり、東京五大学野球連盟が結成された。さらに官立商科大学として東京大学と対立していた東京商科大学もこれに賛同、東都大学野球連盟として成立した。』という異説も伝わっている。この異説であるが、中央大学が当時法典論争が元で東京帝国大学とあらゆる分野で同席する事を断固拒絶する学内風潮が強く、そのため現在の東京六大学からの加盟打診を検討する段階で自ら拒否したのは幾つかの文摘の記述によりほぼ事実であり、東京商科大学が東京帝国大学への吸収合併騒動[5]の影響によって当時、東京大学との関係が悪化していたのも事実である。さらに東京農業大学も農学に対する考え方[6]をめぐって東京帝国大学と対立状態にあったのもこれまた事実である。しかし一方で、信頼性の高い文献には日本大学や國學院大學、専修大学が東京六大学野球連盟へ加盟申請を度々行っていた事も記載されている。もしこの異説が事実であるならば、自ら望んだ東京六大学野球連盟加盟を自ら拒絶したということになり、重大な矛盾が生じることになる。

さらに以上とは別に、当時の関東の大学野球で東京六大学各校に準じる実力を持っていた大学は、日本大学と國學院大學の二校であったという説がある一方で、そうではなく、中央大学・専修大学・日本大学・東洋大学・上智大学などであり、國學院大學や東京商科大学はそれほどではなかったという説も残っている。しかし、これらも関係者間の伝承やそれを元にした記述程度の文字通り自己顕示的な逸話でしかないため信憑性の是非は今となっては問うのは難しい。

当時の早稲田大学野球部は、どちらかといえば大学野球連盟(現在の東京六大学野球連盟を意味している)の拡大には他校より積極的な考えを持っていたが、既存の他加盟校の反対(とりわけ明治大学や東大が反対したといわれている)によって日本大学や國學院大學などをはじめとした他の新規加盟がならなかったことを残念に思い、後日の新連盟(新五大学野球連盟)設立には積極的な支援をしたともされる。新五大学野球連盟の発足式は早大戸塚球場で実施をされているが、これもその早稲田大学側の意思の表れの一例とされている。一方、現代書館刊「六大学野球」という文献には東大加盟に至るまでとその後の加盟校の選定・決定には、当時の早大野球部監督の飛田忠順の意思が最終的には大きく影響していたという記述もある。

脚注

  1. ^ 球場の優先使用に関しては明治神宮野球場にも詳細を記述。
  2. ^ asahi.com:「東都の御三家」すべてが姿消す 大学野球 - スポーツウェブ魚拓保存版
  3. ^ ttp://emoyan-yan.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_d0cb.html 江本孟紀 エモやんの“いごっそう”日記 2007年5月29日 (火) タイのエース
  4. ^ 衆議院会議録情報 第048回国会 体育振興に関する特別委員会 第4号
  5. ^ 申酉事件を参照のこと
  6. ^ 東京帝国大学が学問としての農学を重視したのに対し、東京農業大学は「農学栄えて農業滅びる」と唱えていた。

外部リンク