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== 略歴 ==
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沼津城に初めて本拠を置いた近世大名は、[[相模国|相模]][[小田原藩]]主・[[大久保忠隣|大久保相模守忠隣]]の叔父に当たる[[大久保忠佐|治右衛門忠佐]]である。忠佐は[[慶長]]6年([[1601年]])2月、[[上総]]茂原から2万石で入るが、入封からわずか12年後の慶長18年([[1613年]])に死去し、嫡子の[[大久保忠兼|因幡守忠兼]]も同年に父に先立って死去していたため、無嗣断絶で[[改易]]となった。そのため、大きな事跡は残されていない。
沼津城に初めて本拠を置いた近世大名は、[[相模国|相模]][[小田原藩]]主・[[大久保忠隣|大久保相模守忠隣]]の叔父に当たる[[大久保忠佐|治右衛門忠佐]]である。忠佐は[[慶長]]6年([[1601年]])2月、[[上総国|上総]]茂原から2万石で入るが、入封からわずか12年後の慶長18年([[1613年]])に死去し、嫡子の[[大久保忠兼|因幡守忠兼]]も同年に父に先立って死去していたため、無嗣断絶で[[改易]]となった。そのため、大きな事跡は残されていない。


その後、沼津の地は[[駿府藩|駿河府中藩]]が置かれたときはその領地となり、それ以外の時期は幕府領となり、城も破却された。
その後、沼津の地は[[駿府藩|駿河府中藩]]が置かれたときはその領地となり、それ以外の時期は幕府領となり、城も破却された。


沼津に再び大名の本拠が置かれるのは[[安永]]6年([[1777年]])11月6日、水野出羽守忠友が[[三河]][[大浜藩]]より2万石で転封してきたことによる。忠友は[[享保]]10年([[1725年]])に殿中刃傷により改易となった[[信濃国|信濃]][[松本藩]]主・[[水野忠恒 (大名)|水野隼人正忠恒]]の従兄弟であり、[[寛保]]2年([[1742年]])に忠恒の名跡を継いだ父・[[水野忠穀|出羽守忠穀]]の後を継ぎ、[[明和]]5年([[1768年]])に加増により大浜で1万3000石を領して大名に復帰していた。沼津転封後幕府の命により当地に築城したのである。なお、忠友は[[天明]]元年([[1781年]])9月18日に5000石を加増され、天明5年([[1785年]])5月29日にも5000石を加増された。
沼津に再び大名の本拠が置かれるのは[[安永]]6年([[1777年]])11月6日、[[水野忠友|水野出羽守忠友]]が[[三河国|三河]][[大浜藩]]より2万石で転封してきたことによる。忠友は[[享保]]10年([[1725年]])に殿中刃傷により改易となった[[信濃国|信濃]][[松本藩]]主・[[水野忠恒 (大名)|水野隼人正忠恒]]の従兄弟であり、[[寛保]]2年([[1742年]])に忠恒の名跡を継いだ父・[[水野忠穀|出羽守忠穀]]の後を継ぎ、[[明和]]5年([[1768年]])に加増により大浜で1万3000石を領して大名に復帰していた。沼津転封後幕府の命により当地に築城したのである。なお、忠友は[[天明]]元年([[1781年]])9月18日に5000石を加増され、天明5年([[1785年]])5月29日にも5000石を加増された。


第2代藩主・水野忠成は[[徳川家斉]]時代に[[老中]]として権勢を奮い、[[田沼意次]]以上に賄賂を横行させる「賄賂政治」を行なった人物として有名である。なお、忠成も[[文政]]4年([[1821年]])11月11日に1万石の加増を受け、文政12年([[1829年]])12月6日にも1万石の加増を受けた。
第2代藩主・[[水野忠成]]は[[徳川家斉]]時代に[[老中]]として権勢を奮い、[[田沼意次]]以上に賄賂を横行させる「賄賂政治」を行なった人物として有名である。なお、忠成も[[文政]]4年([[1821年]])11月11日に1万石の加増を受け、文政12年([[1829年]])12月6日にも1万石の加増を受けた。


忠成の死後、第3代藩主・水野忠義や第4代藩主・水野忠武らは、[[天保の改革]]を行なった[[水野忠邦]]から家斉派に対する粛清として、様々な普請を負担するという報復を受けた。
忠成の死後、第3代藩主・[[水野忠義]]や第4代藩主・[[水野忠武]]らは、[[天保の改革]]を行なった[[水野忠邦]]から家斉派に対する粛清として、様々な普請を負担するという報復を受けた。


第6代藩主・水野忠寛は[[井伊直弼]]に同調して[[側用人]]として幕末期に権勢を奮った。第7代藩主・水野忠誠は佐幕派として功を挙げた。第8代藩主・水野忠敬は[[慶応]]4年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]で新政府に協力したが、[[徳川家達]]が東海地方に入ってきたため、新政府の命により、[[明治]]元年([[1868年]])7月に[[上総]][[菊間藩]]に移封され、沼津藩は廃藩となったのである。
第6代藩主・[[水野忠寛]]は[[井伊直弼]]に同調して[[側用人]]として幕末期に権勢を奮った。第7代藩主・[[水野忠誠]]は佐幕派として功を挙げた。第8代藩主・[[水野忠敬]]は[[慶応]]4年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]で新政府に協力したが、[[徳川家達]]が東海地方に入ってきたため、新政府の命により、[[明治]]元年([[1868年]])7月に上総[[菊間藩]]に移封され、沼津藩は廃藩となったのである。


== 城地 ==
== 城地 ==

2007年9月19日 (水) 10:02時点における版

沼津藩ぬまづはん)は、江戸時代の一つであり、静岡県沼津市沼津城を居城とした。

略歴

沼津城に初めて本拠を置いた近世大名は、相模小田原藩主・大久保相模守忠隣の叔父に当たる治右衛門忠佐である。忠佐は慶長6年(1601年)2月、上総茂原から2万石で入るが、入封からわずか12年後の慶長18年(1613年)に死去し、嫡子の因幡守忠兼も同年に父に先立って死去していたため、無嗣断絶で改易となった。そのため、大きな事跡は残されていない。

その後、沼津の地は駿河府中藩が置かれたときはその領地となり、それ以外の時期は幕府領となり、城も破却された。

沼津に再び大名の本拠が置かれるのは安永6年(1777年)11月6日、水野出羽守忠友三河大浜藩より2万石で転封してきたことによる。忠友は享保10年(1725年)に殿中刃傷により改易となった信濃松本藩主・水野隼人正忠恒の従兄弟であり、寛保2年(1742年)に忠恒の名跡を継いだ父・出羽守忠穀の後を継ぎ、明和5年(1768年)に加増により大浜で1万3000石を領して大名に復帰していた。沼津転封後幕府の命により当地に築城したのである。なお、忠友は天明元年(1781年)9月18日に5000石を加増され、天明5年(1785年)5月29日にも5000石を加増された。

第2代藩主・水野忠成徳川家斉時代に老中として権勢を奮い、田沼意次以上に賄賂を横行させる「賄賂政治」を行なった人物として有名である。なお、忠成も文政4年(1821年)11月11日に1万石の加増を受け、文政12年(1829年)12月6日にも1万石の加増を受けた。

忠成の死後、第3代藩主・水野忠義や第4代藩主・水野忠武らは、天保の改革を行なった水野忠邦から家斉派に対する粛清として、様々な普請を負担するという報復を受けた。

第6代藩主・水野忠寛井伊直弼に同調して側用人として幕末期に権勢を奮った。第7代藩主・水野忠誠は佐幕派として功を挙げた。第8代藩主・水野忠敬慶応4年(1868年)の戊辰戦争で新政府に協力したが、徳川家達が東海地方に入ってきたため、新政府の命により、明治元年(1868年)7月に上総菊間藩に移封され、沼津藩は廃藩となったのである。

城地

沼津城 静岡県沼津市大手町

沼津城は狩野川の右岸に築かれた。当時の東海道は城と川に挟まれた場所を通る形となっていた。遺構としては、市内の寺院に移築と伝えられる門がある。

歴代藩主

大久保(おおくぼ)家

  • (慶長6年(1601年)-慶長18年(1613年))

譜代。2万石。

  1. 大久保治衛門忠佐(ただすけ)

水野(みずの)家

  • (安永6年(1777年)-慶応4年(1868年))

譜代。2万石→3万石→5万石。

  1. 水野出羽守忠友(ただとも)〔小姓組番頭・御側役・若年寄・側用人・老中〕
  2. 水野出羽守忠成(ただあきら)〔奏者番・寺社奉行・若年寄・西丸御用人・老中(首座)・勝手用掛〕
  3. 水野出羽守忠義(ただよし)
  4. 水野出羽守忠武(ただたけ)
  5. 水野出羽守忠良(ただよし)
  6. 水野出羽守忠寛(ただひろ)〔奏者番・側用人〕
  7. 水野出羽守忠誠(ただのぶ)〔奏者番・寺社奉行・若年寄・老中〕
  8. 水野出羽守忠敬(ただのり)〔江戸城大手御門番・甲府城代〕

関連事項