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'''ヴァイマール伯''' ('''Graf von Weimar''')は、現在の[[ドイツ]][[テューリンゲン州]]に存在した独立した政治勢力及び当該地域の領主の[[爵位]]である。[[949年]]の記録に残る[[ヴィルヘルム1世 (ヴァイマール伯)|ヴィルヘルム]]が最初のヴァイマール伯として知られている。ヴァイマール伯家の出自は明らかではないが、[[バーベンベルク家]]と親族関係にあると推測されている。ヴィルヘルムの息子[[ヴィルヘルム2世 (ヴァイマール伯)|ヴィルヘルム2世]](大ヴィルヘルム、治世: [[963年]] - [[1003年]])の治下、ヴァイマール伯は、テューリンゲン地方で最も有力な貴族の一門となった。[[ヴィルヘルム4世 (ヴァイマール伯)|ヴィルヘルム4世]](治世: [[1039年]] - [[1062年]])は、[[ザクセン]][[宮中伯]]および[[マイセン辺境伯]]をも手に入れた。子供を遺さずに亡くなったヴィルヘルム4世の跡を弟の[[オットー1世 (ヴァイマール=オーラミュンデ伯)|オットー1世]](治世: [[1062年]] - [[1067年]])が継いだ。彼は、ヴァイマールの統治開始前、既にオーラミュンデ伯となっていた。彼は両領域を統合し、これ以後[[ヴァイマール=オーラミュンデ伯]]と呼ばれる。このうちの少なくともヴァイマール側の所領は1365年まで存続した。
'''ヴァイマール伯''' ('''Graf von Weimar''')は、現在の[[ドイツ]][[テューリンゲン州]]に存在した独立した政治勢力及び当該地域の領主の[[爵位]]である。[[949年]]の記録に残る[[ヴィルヘルム1世 (ヴァイマール伯)|ヴィルヘルム]]が最初のヴァイマール伯として知られている。ヴァイマール伯家の出自は明らかではないが、[[バーベンベルク家]]と親族関係にあると推測されている。ヴィルヘルムの息子[[ヴィルヘルム2世 (ヴァイマール伯)|ヴィルヘルム2世]](大ヴィルヘルム、治世: [[963年]] - [[1003年]])の治下、ヴァイマール伯は、テューリンゲン地方で最も有力な貴族の一門となった。[[ヴィルヘルム4世 (ヴァイマール伯)|ヴィルヘルム4世]](治世: [[1039年]] - [[1062年]])は、[[ザクセン公国|ザクセン]][[宮中伯]]および[[マイセン辺境伯]]をも手に入れた。子供を遺さずに亡くなったヴィルヘルム4世の跡を弟の[[オットー1世 (ヴァイマール=オーラミュンデ伯)|オットー1世]](治世: [[1062年]] - [[1067年]])が継いだ。彼は、ヴァイマールの統治開始前、既にオーラミュンデ伯となっていた。彼は両領域を統合し、これ以後[[ヴァイマール=オーラミュンデ伯]]と呼ばれる。このうちの少なくともヴァイマール側の所領は1365年まで存続した。


== ヴァイマール伯 ==
== ヴァイマール伯 ==

2007年9月8日 (土) 04:23時点における版

ヴァイマール伯Graf von Weimar)は、現在のドイツテューリンゲン州に存在した独立した政治勢力及び当該地域の領主の爵位である。949年の記録に残るヴィルヘルムが最初のヴァイマール伯として知られている。ヴァイマール伯家の出自は明らかではないが、バーベンベルク家と親族関係にあると推測されている。ヴィルヘルムの息子ヴィルヘルム2世(大ヴィルヘルム、治世: 963年 - 1003年)の治下、ヴァイマール伯は、テューリンゲン地方で最も有力な貴族の一門となった。ヴィルヘルム4世(治世: 1039年 - 1062年)は、ザクセン宮中伯およびマイセン辺境伯をも手に入れた。子供を遺さずに亡くなったヴィルヘルム4世の跡を弟のオットー1世(治世: 1062年 - 1067年)が継いだ。彼は、ヴァイマールの統治開始前、既にオーラミュンデ伯となっていた。彼は両領域を統合し、これ以後ヴァイマール=オーラミュンデ伯と呼ばれる。このうちの少なくともヴァイマール側の所領は1365年まで存続した。

ヴァイマール伯

ヴィルヘルム4世以降は、ヴァイマール=オーラミュンデ伯を参照のこと。