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1927年、[[田中義一]]改造内閣で[[高橋是清]]蔵相が辞任したため[[三土忠造]]文部大臣が蔵相に就任。三土の代わりに文部大臣に就任するが、[[久原房之助]]の入閣に反対して辞表を提出するが、後に「[[昭和天皇]]の慰留で辞表を撤回した」と発表し、これが「[[天皇]]の政治利用」だと非難されて大臣辞任に追い込まれた([[水野文相優諚問題]])。 |
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日本最初の[[著作権法]](いわゆる[[旧著作権法]])を起草するなど、[[著作権]]の保護を推進した人物として著名。 |
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[[平岡定太郎]]は大学の同級生。 |
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2007年8月3日 (金) 07:03時点における版
水野 錬太郎(みずの れんたろう、慶応4年1月10日(1868年2月3日) - 昭和24年(1949年)11月25日)は日本の官僚・政治家。内務大臣などの要職を歴任した。秋田県出身。
略歴・人物
秋田藩藩士の家に生まれ、秋田中学(現在の秋田県立秋田高等学校)、第一高等中学校などを経て、東京帝国大学(現在の東京大学)法学部を卒業し、内務省に入省。
その後、寺内正毅内閣・加藤高明内閣・清浦奎吾内閣で内務大臣を務めた。
1927年、田中義一改造内閣で高橋是清蔵相が辞任したため三土忠造文部大臣が蔵相に就任。三土の代わりに文部大臣に就任するが、久原房之助の入閣に反対して辞表を提出するが、後に「昭和天皇の慰留で辞表を撤回した」と発表し、これが「天皇の政治利用」だと非難されて大臣辞任に追い込まれた(水野文相優諚問題)。
日本最初の著作権法(いわゆる旧著作権法)を起草するなど、著作権の保護を推進した人物として著名。
平岡定太郎は大学の同級生。
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