「石上家成」の版間の差分

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== 経歴 ==
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父が低い身分のうちに早世したために、左大臣の孫でありながら、[[外官]]に叙され、外従五位下から[[従五位下]]に遷されたのは、[[天平宝字]]8年([[764年]])の[[恵美押勝の乱]]鎮圧の功績によるものであった。この時併せて武功により勲六等を受けている。[[神護景雲]]2年([[768年]])に[[上総国|上総]][[国司|守]]・[[勅旨少輔]]に任じられた。[[宝亀]]年間に入ると、[[従五位上]]から[[正五位下]]に進み、[[民部少輔]]・[[宮内大輔]]を経て[[天応]]元年には[[従四位下]][[民部大輔]]に昇った。この年、[[権大納言]]の[[石上宅嗣]](家成の従兄弟)が没したため、[[石上氏]]の事実上の[[氏上]]となるが、外官出身が災いして[[議政官]]になることは無かった。
父が低い身分のうちに早世したために、左大臣の孫でありながら、[[外官]]に叙され、外従五位下から[[従五位下]]に遷されたのは、[[天平宝字]]8年([[764年]])の[[恵美押勝の乱]]鎮圧の功績によるものであった。この時併せて武功により勲六等を受けている。[[神護景雲]]2年([[768年]])に[[上総国|上総]][[国司|守]]・[[勅旨少輔]]に任じられた。[[宝亀]]年間に入ると、[[従五位上]]から[[正五位下]]に進み、[[民部少輔]]・[[宮内大輔]]を経て[[天応 (日本)|天応]]元年には[[従四位下]][[民部大輔]]に昇った。この年、[[権大納言]]の[[石上宅嗣]](家成の従兄弟)が没したため、[[石上氏]]の事実上の[[氏上]]となるが、外官出身が災いして[[議政官]]になることは無かった。


その後、[[大宰少弐]]や[[衛門府|衛門督]]、[[内蔵頭]]、[[宮内卿]]などを務めて[[従三位]]に列したが、[[散位官]]のまま死去した。
その後、[[大宰少弐]]や[[衛門府|衛門督]]、[[内蔵頭]]、[[宮内卿]]などを務めて[[従三位]]に列したが、[[散位官]]のまま死去した。

2007年7月15日 (日) 09:32時点における版

石上 家成(いそのかみ の いえなり、養老6年(722年)-延暦23年6月20日804年8月3日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての官人。左大臣石上麻呂の孫で正六位上石上東人の子。

経歴

父が低い身分のうちに早世したために、左大臣の孫でありながら、外官に叙され、外従五位下から従五位下に遷されたのは、天平宝字8年(764年)の恵美押勝の乱鎮圧の功績によるものであった。この時併せて武功により勲六等を受けている。神護景雲2年(768年)に上総勅旨少輔に任じられた。宝亀年間に入ると、従五位上から正五位下に進み、民部少輔宮内大輔を経て天応元年には従四位下民部大輔に昇った。この年、権大納言石上宅嗣(家成の従兄弟)が没したため、石上氏の事実上の氏上となるが、外官出身が災いして議政官になることは無かった。

その後、大宰少弐衛門督内蔵頭宮内卿などを務めて従三位に列したが、散位官のまま死去した。

父親の身分の極端な低さや仕事は精勤するもののそれ以上の才が無かった事から公卿には昇ってもついに要職を任される事無く没した。これが以後の石上氏の衰退の大きな要因の一つとなる。