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アリ・ラハバリAli Rahbari, 1948年 - )は、アレクサンダー・ラハバリAlexander Rahbari)の名で世界的に著名なイラン出身の指揮者作曲家としても活動している。ペルシア語ではعلی رهبری (ʿAlī Rahbarī; アリー・ラフバリー)。 

イラン国立音楽院でヴァイオリン作曲を学ぶ。17歳で、恩師ホセイン・デフラヴィーの指揮する芸術省管弦楽団の首席ヴァイオリニストに選ばれる。国立音楽院を卒業後、イラン文化芸術省より奨学金を得てオーストリアに留学。ウィーン音楽アカデミーゴットフリート・フォン・アイネムハンス・スワロフスキーカール・エスターライヒャーらに師事。

それから数ヵ月後にイランに帰国し、1973年にペルシア国立音楽院院長に就任し、1974年から1977年までテヘラン音楽院院長を務めた。この間に、イランの新進気鋭の音楽家と共同で青少年オーケストラを設立、その音楽監督と終身指揮者に着任。テヘラン交響楽団やイラン国立放送室内管弦楽団、テヘラン歌劇場管弦楽団を指揮した。

1977年に再び渡欧、同年にフランスブザンソン指揮者コンクールの覇者となり、1978年には国際ジュネーヴ指揮コンクールで銀メダルを獲得。同年、ニュルンベルク交響楽団を指揮して、「ペルシャの交響詩 Symphonische Dichtungen aus Persien 」と題した3枚組みのLPを発表、自作を含む6人のイラン出身の作曲家による管弦楽曲を録音した。

1979年は、招かれてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮、生涯でもっとも重大な転機となる。1980年ザルツブルク音楽祭では、ヘルベルト・フォン・カラヤンの助手を務めた。1988年から1996年まで、ブリュッセルのBRTN(ベルギー国営放送局)フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務め、任期中にディスカヴァー・レーベルを設立して数々の重要な録音を残すとともに、数々の無名ながら実力ある演奏家を発掘、また、メジャー・レーベルから廃盤となった名演の復活にも取り組んだ(同レーベルはコッホ・インターナショナルに吸収された)。ディスカヴァー・レーベルにおけるベルギーBRTNフィルとの録音はキングレコードにより、「エヴァンゲリオン・クラシック」シリーズの音源に転用された。現在はザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任している。また、ベルギーBRTNフィル退任後の1997年には、イラン革命によって欧米に亡命したペルシャ人演奏家を結集して、ペルシャ国際フィルハーモニー管弦楽団を創設した。

姉妹のソーレ・ラハバリはサクソフォーン奏者。

主な作品

  • ヴァイオリン協奏曲(ペルシア風交響曲、交響詩、とも称される)
  • 9つのフルートのための《ベイルート》
  • 人権のために
  • ペルシア風バレエ
  • ト調による《ペルシャの神秘》

参考文献・関連サイト

  • "Persian Musicians" (vol.1); By Pejman Akbarzadeh. Navid-e Shiraz Publications, Tehran/Shiraz, 2000.
全て英文サイトから