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室蘭時代に、[[吉野作造]]や[[安部磯雄]]の著書に親しみ、キリスト教社会主義に関心を持つようになる。やがて[[1914年]][[友愛会]]室蘭支部が結成され、松岡は発会式に訪れた会長[[鈴木文治]]の人柄に感銘を受け入会する。松岡もまた鈴木に見込まれ、[[1917年]]鈴木の要請に応え、友愛会専従となるため日鋼を退職し上京。友愛会の労働組合化に尽力し、[[1921年]]友愛会は日本労働総同盟と改称された。
室蘭時代に、[[吉野作造]]や[[安部磯雄]]の著書に親しみ、キリスト教社会主義に関心を持つようになる。やがて[[1914年]][[友愛会]]室蘭支部が結成され、松岡は発会式に訪れた会長[[鈴木文治]]の人柄に感銘を受け入会する。松岡もまた鈴木に見込まれ、[[1917年]]鈴木の要請に応え、友愛会専従となるため日鋼を退職し上京。友愛会の労働組合化に尽力し、[[1921年]]友愛会は日本労働総同盟と改称された。


筋金入りの非妥協的反共主義者で、[[1923年]][[10月]]には総同盟内部における左派台頭に反発して主事兼会計を辞任するが、翌[[1924年]][[6月]]には中央争議部長として早くも復帰。[[1925年]]には中央委員として、関東地方評議会等の左派組合の除名に際し主導的な役割を担った。その一方で[[野田醤油労働争議|野田醤油(現・キッコーマン)争議]]([[1927年]]~[[1928年]])など多くの争議を指導し、消費組合等の事業活動も推進した。[[1926年]]には[[社会民衆党]]の設立に参画し中央委員となる。[[1932年]]総同盟会長に就任。穏健派労働組合の大同団結を図るべく、[[1936年]]全日本労働総同盟を結成し、引き続き会長を務めた。
筋金入りの非妥協的[[反共主義]]者で、[[1923年]][[10月]]には総同盟内部における左派台頭に反発して主事兼会計を辞任するが、翌[[1924年]][[6月]]には中央争議部長として早くも復帰。[[1925年]]には中央委員として、関東地方評議会等の左派組合の除名に際し主導的な役割を担った。その一方で[[野田醤油労働争議|野田醤油(現・キッコーマン)争議]]([[1927年]]~[[1928年]])など多くの争議を指導し、消費組合等の事業活動も推進した。[[1926年]]には[[社会民衆党]]の設立に参画し中央委員となる。[[1932年]]総同盟会長に就任。派労働組合の大同団結を図るべく、[[1936年]]全日本労働総同盟を結成し、引き続き会長を務めた。


[[満州事変]]以降、労働運動に対する体制側の圧迫は厳しさを増し、労働運動の存続を図るため、[[1937年]]には'''ストライキ撲滅'''等の銃後三大運動を決議するなど、時流への迎合を余儀なくされた。その後官製の産業報国運動が展開されると、松岡は労働組合解消につながるとして強く反対。官憲の圧迫が執拗に加えられるなか、[[1940年]]断腸の思いで総同盟を解散する。[[1942年]]の[[翼賛選挙]]に非推薦で立候補したが落選した。
[[満州事変]]以降、労働運動に対する体制側の圧迫は厳しさを増し、労働運動の存続を図るため、[[1937年]]には'''ストライキ撲滅'''等の銃後三大運動を決議するなど、時流への迎合を余儀なくされた。その後官製の産業報国運動が展開されると、松岡は労働組合解消につながるとして強く反対。官憲の圧迫が執拗に加えられるなか、[[1940年]]断腸の思いで総同盟を解散する。[[1942年]]の[[翼賛選挙]]に非推薦で立候補したが落選した。
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1958年8月14日、肝臓病のため逝去。享年70。
1958年8月14日、肝臓病のため逝去。享年70。


松岡は争議にあたっては資本家・経営陣側の立場も考慮し、時には労働者側に不利な条件で妥結することもあったため、反対派からは「ダラ幹」呼ばわりもされたが、個人的にはおよそ腐敗とは縁遠く、特に金銭の取り扱いについては極めて厳格であったという。首尾一貫、左右いずれの観念的な思想に与することなく、現実主義・漸進主義を貫いた人生であった。
松岡は争議にあたっては資本家・経営陣側の立場も考慮し、時には労働者側に不利な条件で妥結することもあった。そのため、反対派からは「ダラ幹(「堕落した幹部」の意味)」呼ばわりもされたが、個人的にはおよそ腐敗とは縁遠く、特に金銭の取り扱いについては極めて厳格であったという。首尾一貫、左右いずれの観念的な思想に与することなく、現実主義・漸進主義を貫いた人生であった。

左派優位の社会党では長らく評価は低く、松岡の流れは思想的にも組織的にも、[[民社党]]に色濃く受け継がれたと言える。

==外部リンク==
*[http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/dglb/matsuokak.html 大原社研マルチメディア・データベース 松岡駒吉ファイル]
*[http://www.yuairodorekishikan.jp/11.html 友愛労働歴史館HP]([[日本労働会館]]、松岡が初代代表の団体)


==関連文献==
==関連文献==

2007年3月28日 (水) 17:21時点における版

松岡 駒吉まつおか こまきち1888年4月8日 - 1958年8月14日)は大正昭和期の政治家、労働運動家。第39代衆議院議長(在任期間・1947年5月21日 - 1948年12月23日)。戦前日本の右派労働運動の代表的存在。

来歴・人物

鳥取県岩美郡岩井村(現・岩美町)に、温泉旅館「岩井屋」を経営していた松岡常次郎の三男として生まれる。1902年岩井高等小学校を卒業するが、家業が傾き、上級学校への進学は果たせなかった。しばらく地元で石油の行商、郵便局集配人を務めた後、1904年舞鶴海軍工廠の職工となる。舞鶴時代に、教会の英語教室に通い始めたのがキッカケで1906年キリスト教に入信する。その後機械工としてのステップアップを図るべく、大阪の鉄工所、朝鮮総督府鉄道管理局竜山工場臨時工を経て、1910年室蘭日本製鋼所に入る。

室蘭時代に、吉野作造安部磯雄の著書に親しみ、キリスト教社会主義に関心を持つようになる。やがて1914年友愛会室蘭支部が結成され、松岡は発会式に訪れた会長鈴木文治の人柄に感銘を受け入会する。松岡もまた鈴木に見込まれ、1917年鈴木の要請に応え、友愛会専従となるため日鋼を退職し上京。友愛会の労働組合化に尽力し、1921年友愛会は日本労働総同盟と改称された。

筋金入りの非妥協的反共主義者で、1923年10月には総同盟内部における左派台頭に反発して主事兼会計を辞任するが、翌1924年6月には中央争議部長として早くも復帰。1925年には中央委員として、関東地方評議会等の左派組合の除名に際し主導的な役割を担った。その一方で野田醤油(現・キッコーマン)争議1927年1928年)など多くの争議を指導し、消費組合等の事業活動も推進した。1926年には社会民衆党の設立に参画し中央委員となる。1932年総同盟会長に就任。右派労働組合の大同団結を図るべく、1936年全日本労働総同盟を結成し、引き続き会長を務めた。

満州事変以降、労働運動に対する体制側の圧迫は厳しさを増し、労働運動の存続を図るため、1937年にはストライキ撲滅等の銃後三大運動を決議するなど、時流への迎合を余儀なくされた。その後官製の産業報国運動が展開されると、松岡は労働組合解消につながるとして強く反対。官憲の圧迫が執拗に加えられるなか、1940年断腸の思いで総同盟を解散する。1942年翼賛選挙に非推薦で立候補したが落選した。

終戦とともに労働組合再結成に動き、1946年8月日本労働組合総同盟が結成され、会長に就任する。また同年の第22回衆議院議員総選挙日本社会党公認で旧東京2区から出馬し当選。以後当選6回。1947年衆議院議長に就任。初の無産政党出身の議長であり、新時代の到来を強く印象付けた。

1958年8月14日、肝臓病のため逝去。享年70。

松岡は争議にあたっては資本家・経営陣側の立場も考慮し、時には労働者側に不利な条件で妥結することもあった。そのため、反対派からは「ダラ幹(「堕落した幹部」の意味)」呼ばわりもされたが、個人的にはおよそ腐敗とは縁遠く、特に金銭の取り扱いについては極めて厳格であったという。首尾一貫、左右いずれの観念的な思想に与することなく、現実主義・漸進主義を貫いた人生であった。

左派優位の社会党では長らく評価は低く、松岡の流れは思想的にも組織的にも、民社党に色濃く受け継がれたと言える。

外部リンク

関連文献

  • 中村菊男・松岡駒吉伝記刊行会編『松岡駒吉伝』(1963年、経済往来社)

外部リンク

松岡駒吉先生の胸像(鳥取県岩美町ウェブサイト)

先代
山崎猛
衆議院議長
第39代: 1947 - 1948
次代
幣原喜重郎