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両者の思惑が一致し、「'''ドイツの自由と、スウェーデンへの感謝'''」のスローガンが掲げられ、無き王グスタフ・アドルフの名において、プロテスタント諸侯が結集した。これは、スウェーデンの[[宰相]][[アクセル・オクセンシェルナ|オクセンシェルナ]]の手腕に負うところが大きかった。
両者の思惑が一致し、「'''ドイツの自由と、スウェーデンへの感謝'''」のスローガンが掲げられ、無き王グスタフ・アドルフの名において、プロテスタント諸侯が結集した。これは、スウェーデンの[[宰相]][[アクセル・オクセンシェルナ|オクセンシェルナ]]の手腕に負うところが大きかった。


ところが、この同盟締結に[[フランス王国|フランス]]と[[ザクセン公国|ザクセン公]]が反発した。フランスの宰相[[リシュリュー]]は、ハイルブロンに使者を送り、オクセンシェルナを脅し、強引に盟主を替えさせた。5年前に締結したフランス・スウェーデン間の[[条約]]に違反していたからである。オクセンシェルナは激怒したが、フランスの支援凍結を恐れ、フランスの影響力の下、グスタフ・アドルフの近衛騎兵連隊の指揮官であった傭兵の[[ザクセン・ワイマール公ベルンハルト]]が、ハイルブロン同盟軍の指揮を執る事になった。オクセンシェルナがスウェーデン軍・ハイルブロン同盟軍両軍の総司令官に据えるつもりでいた信頼する[[グスタフ・ホルン]]将軍は、スウェーデン軍の新司令官になった。野心的で積極的なベルンハルトと忠実で慎重なホルンは性格が正反対で、両者は反目を募らせる事になる。これが[[ネルトリンゲンの戦い(1634年)]]でのスウェーデン・ハイルブロン同盟軍(プロテスタント諸侯軍)の大敗の原因の一つとされる。
ところが、この同盟締結に[[フランス王国|フランス]]と[[ザクセン公国|ザクセン公]]が反発した。フランスの宰相[[リシュリュー]]は、ハイルブロンに使者を送り、オクセンシェルナを脅し、強引に盟主を替えさせた。5年前に締結したフランス・スウェーデン間の[[条約]]に違反していたからである。オクセンシェルナは激怒したが、フランスの支援凍結を恐れ、フランスの影響力の下、グスタフ・アドルフの近衛騎兵連隊の指揮官であった傭兵の[[ザクセン・ワイマール公ベルンハルト]]が、ハイルブロン同盟軍の指揮を執る事になった。オクセンシェルナがスウェーデン軍・ハイルブロン同盟軍両軍の総司令官に据えるつもりでいた信頼する[[グスタフ・ホルン]]将軍は、スウェーデン軍の新司令官になった。野心的で積極的なベルンハルトと忠実で慎重なホルンは性格が正反対で、両者は反目を募らせる事になる。これが[[ネルトリンゲンの戦い (1634年)]]でのスウェーデン・ハイルブロン同盟軍(プロテスタント諸侯軍)の大敗の原因の一つとされる。


このように、ハイルブロン同盟は成立当初から危機を内包していたのである。ベルンハルトは、後に[[神聖ローマ皇帝]][[フェルディナント世|フェルディナント(神聖ローマ皇帝)]]と和解し、[[プラハ条約]]に署名したり、フランス軍の指揮官となるなど、スウェーデンとプロテスタント諸侯を振り回すことになる。
このように、ハイルブロン同盟は成立当初から危機を内包していたのである。ベルンハルトは、後に[[神聖ローマ皇帝]][[フェルディナント2 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]と和解し、[[プラハ条約]]に署名したり、フランス軍の指揮官となるなど、スウェーデンとプロテスタント諸侯を振り回すことになる。


[[Category:三十年戦争|はいるふろんとうめい]]
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2007年3月3日 (土) 08:03時点における版

ハイルブロン同盟(Heilbronn Bund)とは、三十年戦争における、スウェーデンプロテスタント諸侯間で、ドイツ帝国都市ハイルブロンにおいて、1634年5月18日に結ばれた軍事同盟

スウェーデンは、1632年君主グスタフ2世アドルフリュッツェンで失った。スウェーデンの勢威は、英主グスタフ・アドルフに依存していたため、彼の死により、急速に勢力を減退させてしまった。ドイツでの戦争で、スウェーデン軍は厳しい状況に立たされた。しかし、その時点での撤退は敗北を意味した。せめて参戦した見返りが得られなければ、国内を納得させることは出来ない。戦争継続の道しかなかったスウェーデンにとって、プロテスタント諸侯との同盟は不可欠であった。

一方、ドイツにおけるプロテスタント諸侯も、グスタフ・アドルフの死に動揺した。しかしプロテスタント諸侯は、スウェーデンを見捨てなかった。外国勢力の支援が無くなれば、皇帝が弾圧に乗り出してくる。選帝侯クラスであれば、生き残れるかもしれなかったが、小貴族クラスの諸侯では、皇帝軍の前には一溜まりもない。ボヘミアでの反乱貴族の運命を見れば、運命は明らかであった。

両者の思惑が一致し、「ドイツの自由と、スウェーデンへの感謝」のスローガンが掲げられ、無き王グスタフ・アドルフの名において、プロテスタント諸侯が結集した。これは、スウェーデンの宰相オクセンシェルナの手腕に負うところが大きかった。

ところが、この同盟締結にフランスザクセン公が反発した。フランスの宰相リシュリューは、ハイルブロンに使者を送り、オクセンシェルナを脅し、強引に盟主を替えさせた。5年前に締結したフランス・スウェーデン間の条約に違反していたからである。オクセンシェルナは激怒したが、フランスの支援凍結を恐れ、フランスの影響力の下、グスタフ・アドルフの近衛騎兵連隊の指揮官であった傭兵のザクセン・ワイマール公ベルンハルトが、ハイルブロン同盟軍の指揮を執る事になった。オクセンシェルナがスウェーデン軍・ハイルブロン同盟軍両軍の総司令官に据えるつもりでいた信頼するグスタフ・ホルン将軍は、スウェーデン軍の新司令官になった。野心的で積極的なベルンハルトと忠実で慎重なホルンは性格が正反対で、両者は反目を募らせる事になる。これがネルトリンゲンの戦い (1634年)でのスウェーデン・ハイルブロン同盟軍(プロテスタント諸侯軍)の大敗の原因の一つとされる。

このように、ハイルブロン同盟は成立当初から危機を内包していたのである。ベルンハルトは、後に神聖ローマ皇帝フェルディナント2世と和解し、プラハ条約に署名したり、フランス軍の指揮官となるなど、スウェーデンとプロテスタント諸侯を振り回すことになる。