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2007年2月14日 (水) 16:45時点における版

細川清氏(ほそかわきようじ、? - 貞治元年/正平17年7月24日1362年8月14日))は日本の南北朝時代の武将で、室町幕府の執事である。父は細川和氏。兄弟に細川頼和細川将氏細川家氏。子は細川正氏。名は元氏で、後に清氏と名乗る。左近将監。伊予守、相模守。

伝記

三河国細川郷(現在の愛知県岡崎市)に生まれる。足利氏の一門である細川氏は、南朝との戦いでは北朝を擁する足利幕府に従い、足利家の内紛である観応の擾乱では将軍足利尊氏に属する。父の和氏は1342年に死去し、清氏は叔父の細川頼春に従い、南朝や足利直義派と戦う。

52年に伊賀国の守護となり、翌53年6月に足利直冬京都へ侵攻した際には殿を務め、近江の塩津において後光厳天皇を背負って山越えをしたと言われる。54年9月には若狭国守護、評定衆、引付頭人に加わり、相模守となる。翌55年の直冬勢の京都侵攻においは本拠の東寺を破り、58年には、2代将軍足利義詮から執事(後の管領の初見)に任命され、幕政の中枢へ進出する。59年12月には河内の南朝勢掃討を立案し、鎌倉から上洛した関東管領畠山国清とともに出陣する。

清氏は寺社勢力や公家の反対を押し切り、分国の若狭において半済を強行するなど強引な行動も多く、幕政では分国を巡る争いのあった斯波氏や、同格の仁木義長らの政敵も多かった。1360年正平15年/延文5年)5月、清氏と国清は南朝掃討のため河内へ出陣するが、兵を返して京都へ迫り、義長を排斥することに成功。

清氏は幕政の実権を握ったが、国清の鎌倉帰還や南朝勢力の進出で反派は清氏打倒を計画し、1361年(正平16年/康安元年)9月には、清氏の留守中に将軍義詮が後光厳天皇に清氏追討を仰ぎ、清氏は弟の頼和、信氏らとともに分国の若狭へ落ち延びる。古典『太平記』では、清氏失脚の首謀者は佐々木道誉であり、清氏に野心があったと記されている。今川貞世(了俊)の記した『難太平記』では清氏は無実で、道誉らの策謀があったと推測している。

若狭へ逃れた清氏は無実を訴えるが、摂津国で南朝方に属する。12月には楠木正儀石塔頼房らと京都を攻略が幕府の反撃に遭い、翌62年(正平17年/康安2年)には細川氏の国人層が強固であった阿波国へ逃れる。清氏は讃岐へ移り、義詮から清氏追討を命じられた阿波守護で、清氏の従弟にあたる細川頼之に対しては、小豆島の佐々木信胤や塩飽諸島の塩飽水軍などを味方に付けて海上封鎖を行い、白峰城(高屋城とも、現香川県綾歌郡宇多津町坂出市)を本拠に宇多津の頼之勢と戦う。古典『太平記』によれば、清氏は頼之の陽動作戦に乗せられて兵を分断され、単騎で戦って討死したとされる。なお、清氏の実子である正氏は、その後も南朝に属して抵抗する。

坂出市には、清氏はじめ被官36名が埋葬された「三十六」や、「細川将軍戦跡碑」などがある。

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