深川通り魔殺人事件

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深川通り魔殺人事件
地図
場所 日本の旗 日本東京都江東区森下二丁目(商店街)[1][2]
座標
北緯35度41分16.47秒 東経139度47分58.41秒 / 北緯35.6879083度 東経139.7995583度 / 35.6879083; 139.7995583座標: 北緯35度41分16.47秒 東経139度47分58.41秒 / 北緯35.6879083度 東経139.7995583度 / 35.6879083; 139.7995583
標的 通りすがりの女性・子供[3]
日付 1981年昭和56年)6月17日[1][2]
11時35分ごろ[2] – 18時54分ごろ[2] (UTC+9日本標準時〉)
概要 職に就けず生活に行き詰まった元寿司店員(覚醒剤を濫用していた)が自分を解雇・不採用とした寿司店経営者らを逆恨みし、「自分が殺人を起こして立てこもり、現場に経営者を呼びつけることで経営者らの信用を失墜させてやろう」と決意[4]。商店街の路上で主婦・子供ら6人を次々と刺して計4人を刺殺し、別の主婦1人を人質に付近の中華料理店へ立てこもった[4]
攻撃手段 包丁で刺傷する[5]
攻撃側人数 1人
武器 柳刃包丁(刃渡り約23 cm[注 1][2]
死亡者 4人[2]
負傷者 3人(重傷2人+軽傷1人)[4]
犯人K・G(事件当時29歳[6] / 覚醒剤を使用していた[2]
動機 「自分は高級役人から迫害されている」という妄想的怨恨+自分を解雇・不採用とした寿司店経営者らへの恨み[5]
対処 警視庁が男Kを逮捕・東京地検が起訴[7]
謝罪 判決宣告前に謝罪の意思を示す[3]
刑事訴訟 無期懲役(第一審判決・心神耗弱[3] / 確定[8]
影響 日本国政府保安処分の法制化に積極的な姿勢を見せた[9]
管轄 警視庁捜査一課深川警察署[1]
東京地方検察庁[7]
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深川通り魔殺人事件(ふかがわとおりまさつじんじけん)とは、1981年昭和56年)6月17日東京都江東区森下二丁目(深川地域)の商店街路上で発生した通り魔殺人(無差別殺人)事件[4]

覚醒剤を濫用していた元寿司店員の男が職に就けず、生活に行き詰まったことを「自分を解雇したり、採用を見送ったりする寿司店経営者たちのせいだ」と逆恨みし、商店街で通行人を無差別に襲撃[4]。包丁で路上を歩いていた通行人4人(主婦+幼子2人の母子3人を含む)を刺殺して主婦2人に重傷を負わせたほか、別の主婦1人(軽傷)を人質に取り、逮捕されるまで7時間にわたり近くの中華料理店に立てこもった[4]

刑事裁判では、犯行時の被告人Kの精神状態(責任能力の有無・程度)が最大の争点となり、東京地裁は1982年(昭和57年)12月に「本来なら死刑に処すべき犯行だが、犯行時は心神耗弱状態だった」として、被告人Kに無期懲役判決を言い渡した[8]。被告人Kは控訴しなかったため、1983年(昭和58年)1月に無期懲役が確定した[8]

事件前の経緯

加害者の男K・G(以下「K」と表記)は1952年(昭和27年)2月11日生まれ(事件当時29歳)[6][10]。出身地[11]および本籍[10]茨城県鹿島郡波崎町太田[11][10](現:神栖市太田)。

Kは5人兄弟姉妹の4番目(兄と姉2人・弟)[注 2]で、出生時には家庭が経済的にかなり貧しく、母乳が不足していたため、重湯で育てられた[11]

Kは波崎町で生育し[5]、1967年(昭和42年)3月に町立中学校を卒業すると、集団就職で県外に出ることを決め[注 3][11]、東京都内[5]築地)の寿司屋に就職した[17]。最初の寿司屋では板前見習いとして約3年間働いたが、「他店で修業しよう」と考えて同店を退職[注 4]して以降、都内や千葉県銚子市内の寿司屋・運送会社などを転々とした[注 5][5]。1972年(昭和47年)8月には、恐喝罪懲役刑(執行猶予付き)に処されたが、同年12月には傷害罪などで再び懲役刑に処され、執行猶予も取り消されたことで、両方の刑を併せて川越少年刑務所に服役した[注 6][5]。1975年(昭和50年)9月に出所し[注 7]、都内の運送会社で運転手として就職したが、長続きせず、再び転職を繰り返した[5]。1976年(昭和51年)7月には、暴力行為等処罰ニ関スル法律(暴力行為等処罰法)・脅迫罪[注 8]で懲役10月に処され[25]、1977年(昭和52年)4月まで水戸刑務所に服役した[注 9][5]

その後は郷里に帰り、両親・弟とともにシジミ採りの仕事に従事した[5]。当時は父の後を継ぐことに前向きな態度を見せ、シジミ漁の仕事にも熱心に打ち込んでいたが[26]、やがて粗暴な言動が目立ち始め、両親への家庭内暴力も振るうようになった[15]。そのため、たまりかねた両親が実家のある波崎町から、利根川の対岸(銚子市)にある長男宅へ移住したため、Kはシジミ漁を1人でできなくなり、弟にその仕事を手伝ってもらうこととなった[15]。しかし、1978年(昭和53年)3月ごろからは金回りが良くなり、派手に遊び歩いているうちに波崎・銚子の暴力団と交際し始め[15]覚醒剤も使用するようになった[27]

1978年夏ごろから徒食しているうち、無免許運転で何度も検挙された[5]。一方、同年4月ごろからは親しくなったホステスの1人と同居するようになったが[28]、引っ越した先のアパートで近隣住民とトラブルを起こしたり[29]、自身の漁船を両親・兄弟に無断で売却して得た100万円を別のホステスに貢ごうとして断られたりした[30]。そして同年10月17日には[31]、足繁く通っていたクラブ(銚子市松本町)[32]のナンバーワンホステスに亭主がいたことを知って激怒し、包丁でそのホステスを襲って逮捕された[31]。同年12月18日には傷害・銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)違反・道路交通法違反の罪により、千葉地方裁判所八日市場支部で懲役1年の刑に処され[注 10][25]、1979年(昭和54年)1月5日以降[31]府中刑務所で服役することになった[5][31]が、このころからは次第に強い幻覚妄想といった異常体験に悩まされるようになった[5]。同年11月に出所[注 11]してからは[5]、銚子市内の[31]街路警備会社・水産会社などに勤務したが、粗野な言動・勤務態度の悪さから、いずれも短期間で解雇された[5]。その後、銚子市内の両親の家で兄弟と同居し、ぶらぶらしながら生活していたが[33]、1980年(昭和55年)7月13日には、銚子市内で飲酒運転による人身事故を起こし、無免許運転で逮捕された[注 12][36]。同年9月1日には道路交通法違反・業務上過失傷害罪により、千葉地裁八日市場支部で懲役7月の刑に処され[25]、再び府中刑務所で服役した[5]

1981年(昭和56年)3月21日に刑期を満了し[25]、同年4月21日に出所[注 13]すると、「寿司職人として身を立てよう」と考え、柳刃包丁1丁[注 1]を購入した[5]。同月25日 - 6月13日にかけ、Kは都内および千葉県浦安市内の寿司屋7か所に務めたが、技術が劣っていたことに加え、客・同僚に威圧的で横柄な態度を取ったり、遅刻が多かったりしたため、いずれも短期間(1日 - 20日)で解雇された[5]。このように解雇が重なり、生活にも窮するうちに、幻覚・妄想が次第に増強され、Kは「自分がこんな状態に陥ったのは、高級役人が黒幕になって自分の頭に電波を飛ばしたり、テープに録音された声を流したり、勤め先の上司・親兄弟にまで圧力を掛け、悪口を言わせたり、計画的に自分を解雇させたりして、自分を苦しめているからだ」と確信するに至った[5]。そして、その「黒幕」たちへの妄想的怨恨を募らせながら[5]、自分を解雇したり、採用しなかったりした寿司店の社会的信用を失墜させることも目的に[4]、「いずれどこにも就職できないところまで追い詰められた場合は、女子供を殺して人質を取って立てこもり、寿司屋の経営者らを呼びつける[注 14]。そして、黒幕が誰なのかを白状させ、黒幕を呼び出して対決し、黒幕・寿司屋の経営者らに責任を取らせよう」と考えるようになった[5]

事件発生

6人を無差別殺傷

事件前日(1981年6月16日)、加害者Kは都内4か所の寿司屋に就職を申し込んだが、うち3店は「面接態度が悪い」との理由などから採用を断られた[5]。残る1店からは「翌日、電話で採否を問い合わせてほしい」と伝えられたため、その1店に希望をつないでいたが、翌17日(事件当日)朝に常宿としていた簡易宿泊所[5](東京都江東区森下三丁目5番20号)[2]を出た際には、所持金がわずか195円しかなかった[5]。そのため、Kは「もしあの店で採用されなければ、当分の食費にも事欠く」という事態に追い込まれ[5]、凶行に備えて手が滑らないよう、4月に購入した柳刃包丁(刃渡り約23 cm[注 1]の柄に様布片を巻き付けた上で、11時30分ごろに前述の簡宿を出た[2]。その一方で、この時点ではまだ雇ってもらえる可能性にも期待をかけ、身なりを整えていたが、付近の公衆電話から寿司屋に電話して採否を問い合わせたところ、「採用できない」と断りの返事を得たため、『自分の人生は終わりだ』と思って絶望し、「こうなった以上は、通行人を殺害した上で人質を取って立てこもり、かねてから立てていた計画を実行に移そう」と決意した[2]

11時35分 - 40分ごろまでの間、Kはそれぞれ殺意を有した上で、柳刃包丁[注 1]を使って以下の犯行におよび、主婦2人および子供2人の計4人を刺殺し、主婦2人を刺傷した[4]

  1. 森下二丁目14番3号の喫茶店「ロアール」前路上で、通りすがりの女性X(当時27歳)[注 15]と、Xが連れていた長男Y(当時1歳)[注 16]・長女Z(当時3歳)[注 17]の母子3人を柳刃包丁で多数回刺して殺害した[2]
  2. さらに、「ロアール」から約9 m西方の「三河屋岩永酒店」(森下二丁目14番2号)前路上で、通りすがりの女性A(当時33歳)を襲い、上腹部を1回突き刺して刺殺した[注 18][2]
  3. 「岩永酒店」から約15 m西方の「森下診療所」(森下二丁目17番10号)前路上で、通りすがりの主婦B(当時71歳)を襲い、腹部を1回突き刺して全治3か月の[2]重傷[注 19]を負わせた[4]。次いで、約12 m西方の「花菱化粧品店」(森下二丁目17番8号)から道路に出てきた主婦C(当時39歳)を襲い、同様に腹部をめがけて包丁を1回を突き出し、左前腕を切りつけて全治2週間の[2]重傷を負わせた[4]

立てこもり

このように計6人に対する殺傷行為をした直後、Kは包丁の刃こぼれに気づいたため、「これ以上殺傷行為を続けることは無理だ」と判断し、直ちに人質を監禁する行為に移った[39]。11時40分ごろ、Kは「花菱化粧品店」前から約21 m西方の中華料理店「萬来」(江東区森下二丁目17番7号)[注 20]前路上を偶然通りかかった[2]別の主婦D[4](当時32歳)を襲撃[2]。左腕でDの頸部を抱え、右手で包丁を喉元に突き付けながら、「萬来」の店舗入口から奥6畳間へ侵入した[注 21][2]。そして、中華料理店の経営者[注 22]に対し、「出て行け、お前も殺すぞ」と言いながら、奥の部屋へ立てこもった[1]。そのころから同日18時54分ごろまでの間、Kは同室でDを監禁しつつ、首に包丁を押し当てたり、背中を切りつけたりするなどの暴行・脅迫を加え、Dに全治1週間の怪我[2](軽傷)[注 23]を負わせた[4]。この間、Kはテレビの報道を見て注意を払い、殺傷結果(4人死亡・2人負傷)を確認した上で、Dに対し「4人も死んだ。お前が死んだら5人目だ。5人殺せば死刑だ」と発言していたほか[39]、立てこもっている最中(14時5分)には砥石を差し入れさせ[注 24]、包丁を研いでいた[42]。また、一連の犯行の間は正当な理由なく、凶器の柳刃包丁1本[注 1]を携帯した[2]

11時39分、「ロアール」の女性店員が「ナイフを持った男が通行人を刺して森下町方面へ歩いていく」と110番通報[42]。これを受けた警視庁捜査一課深川警察署は、同45分に現場で前線本部を設置し、周辺の交通を遮断した[42]。その上で捜査一課・深川署員(署長を含む)ら捜査員約100人が現場へ急行し、正午前から犯人 (K) に対し、人質 (D) を解放するよう説得したが[1]、Kは「俺には電波がついている」と意味不明な発言をしたほか[42]、「右翼の小林楠扶[注 25]を連れて来い」と要求[注 26]するなどし[1]、中華料理店の2階道路側6畳間に立てこもり続けた[40]。そのため、警視庁は同日夕方、捜査員2人を寿司店員に変装させて室内に踏み込ませることを決め、タイミングを窺っていた[44]

18時55分、Kの隙を見て人質の女性Dが脱出[注 27][44]。これを機に、捜査員10人がKの立てこもっていた室内へ突入し[42]、Kを取り押さえて監禁致傷などで現行犯逮捕した[44]。Kは身柄を拘束されると、自殺防止のため、タオルを口に押し込まれ[42]、半袖シャツ・ブリーフハイソックス姿で連行された[注 28][45]。Kはまず東京警察病院へ救急車で搬送され、20時14分には病院から深川署へ移された[42]

警視庁は被疑者Kの逮捕後、深川署に捜査本部を設置し、犯行の動機などを追及した[44]。Kは逮捕後、取り調べに対し「寿司職人になろうと面接を受けたが、断られて腹が立った。子供を持つ家族が羨ましかった。子供の父親が来たらいつでも恨みを晴らさせてやる。俺の腹を刺せばいいんだ」「死んだ人間はこれも運命だ。俺はサムライだから、殺された町人も幸せだろう」「昨年7月に道路交通法違反で捕まるまで、覚醒剤をやっていたが、今は(覚醒剤は)やっていない。俺は正常で、今度のことは真剣な気持ちでやった」と供述した[注 29][47]。しかし、科学捜査研究所が被疑者Kの血液・尿を検査した結果、Kの「今は覚醒剤はやっていない」という供述とは異なり、「2, 3日以内に覚醒剤を使用した」とする鑑定結果が出たが[48]、Kは覚醒剤の使用について徹底的に否認[43]。捜査員から供述の矛盾点を問われると、Kは覚醒剤の入手先について「新宿の売人から買った」「銚子のパチンコ店で仲間から分けてもらった」などと供述したが、いずれも虚偽だった[注 30][51]

刑事裁判

犯行の残虐さ・異常さに加え、逮捕直後に被疑者Kの尿から覚醒剤反応が検出されたことから、刑事裁判では犯行時の被告人Kの精神状態(責任能力の有無・程度)が最大の争点となった[4]起訴に前後し、2人の大学教授が検察・裁判所から依頼を受け、それぞれ精神鑑定を実施したが、両者とも「乳幼児の時に脳に障害を受けたことにより、些細なことに激昂し、すぐ暴力を振るうなど性格に異常を来たしていた。これに覚醒剤常用が加わり、犯行時は幻覚妄想状態にあった」と診断した[52]

東京地方検察庁は1981年7月10日に、福島章上智大学教授)に被疑者Kの精神鑑定を依頼[7]。福島の鑑定により、9月9日に「Kには覚醒剤など薬物中毒があった疑いはあるが、犯行時に心神喪失状態だったとまでは認められない」との結果が出たため、東京地検は同月11日に被疑者Kを殺人罪・殺人未遂罪などで被告人Kを東京地方裁判所へ起訴した[7]

公判

被告人Kの初公判は1981年11月24日、東京地裁刑事第7部(中野武男裁判長)で開かれた[38]。Kは罪状認否で、ほぼ犯行を認めた一方、「何年もの間、自分は“張本人”の送る電波・テープの音により嫌がらせを受けていた。自分を解雇したり就職を断った店主らもグルだ。人を殺して、潔く自分の人生に終止符を打とうと思った」などと陳述した[38]。また、Kの弁護人も外形的事実は認めた一方、被告人Kの犯意を否認して「被告人Kは犯行時、高度な幻覚で理非善悪の判断ができない状態で、心神喪失か、少なくとも心神耗弱状態だった」と主張し[38]、再度の精神鑑定を申請した[53]。そのため、東京地裁刑事第7部は第5回公判(1982年2月12日)で[53]、再度の精神鑑定を決定[54]。第6回公判(同月25日)で鑑定人として、風祭元帝京大学教授)を指定した[注 31][57]

第7回公判(同年7月16日)で裁判長が中野から佐藤文哉に交代し、更新手続きが行われた[58]。同日に示された鑑定結果は、「被告人Kは爆発性・情性欠如性・意志欠如性・自己顕示性・自身欠如性などを基調とする異常性格者だ。犯行時の精神状態は異常性格を基盤とした心因性妄想に、覚醒剤濫用の影響が加わって幻覚妄想状態にあったが、自己の行為の理非善悪を弁識し、それに従って行為を制御する能力は正常人より著しく低下していたものの、完全に喪失していたとは認められない」(=心神耗弱状態ではあったが、心神喪失状態ではない)というもので[59]、福島の鑑定結果とほぼ同一だった[4]

無期懲役求刑

1982年10月22日に開かれた論告求刑公判で、検察官は被告人Kに対し、無期懲役刑を求刑した[注 32][62]。東京地検は論告で、「犯罪史上稀に見る極悪非道な犯罪で、本来ならば死刑が相当であるが、被告人Kは異常性格者だったことに加え、覚醒剤の慢性中毒による幻覚妄想状態で、事件当時は理非善悪を判断する能力が低下していた心神耗弱状態だった」と指摘した[注 33][62]。同公判まで被告人Kは死刑判決を言い渡される可能性に恐怖していた[注 34]が、求刑後に弁護人から「統計上、無期懲役求刑事件で死刑判決が言い渡された例はない」[注 35]と説明され、笑い声を上げていた[71]。また、同公判後に拘置先の東京拘置所で弁護人と面会した際、Kはそれまでのぞんざいな態度から一変して「ご苦労様です」などと丁寧な言葉で応対していた[65]

同年11月12日に第11回公判が開かれ[65]、弁護人の最終弁論と、被告人Kの意見陳述が行われ、公判は結審した[72]。弁護人は最終弁論で、「被告人Kは事件当時、心神喪失状態だったため、無罪とすべきだ。仮に有罪だとしても心神耗弱を認定すべき」と述べた[73]ほか、被告人Kは「何の罪もない幼児や女性4人の命を奪い、3人を負傷させて大切な人生を奪ってしまった。今ここで何を語ろうと許される所業ではない。被害者・遺族には本当に申し訳ないし、自分の犯した罪に酌量の余地はない」と述べ、謝罪・反省の念を示した[74]

無期懲役判決

1982年12月23日に判決公判が開かれ、東京地裁刑事第7部(佐藤文哉裁判長)は東京地検の求刑通り、被告人Kに無期懲役刑を言い渡した[4]。東京地裁 (1982) は判決理由で、「各種証拠(被告人の供述・精神鑑定書など)に加え、見ず知らずの通行人を次々と殺傷した犯行態様に照らせば、被告人Kは犯行当時、幻覚・妄想に悩まされ、『自分を迫害している役人や寿司店・水産屋の人間たちに復讐してやりたい』などの心理状態の下で犯行に及んだことは間違いない」と認定した[39]。しかし、その一方で「その幻覚・妄想は精神分裂病に基づくものではなく、異常性格を基盤とする心因性妄想に、覚醒剤使用の影響が加わって生じたと認めるのが相当だ。事件直前、最後の望みを賭けていた寿司店から不採用を言い渡されたことで犯行を決意したことや、包丁の柄に滑り止めの布を巻き付けるなど、清明な意識の下に周囲の状況に対応しつつ、合理的な行動を取っていた。また『5人殺せば死刑だ』などと発言しているため、犯行の社会的影響・刑事責任の重大さも認識していた。逮捕後も捜査官の取り調べに対し、犯行およびそれに至る経緯についてかなり詳細に供述し、その内容も客観的証拠と矛盾せず、犯行前からの記憶は正確だ」などと指摘し、「被告人は犯行当時、幻覚状態にはあったが、精神分裂病などのように人格の中核まで冒されていたわけではなく、重大犯罪を合法的な方法で回避することのできる力はなお残されていた。つまり、幻覚・妄想は犯行動機の形成に重要な役割を果たしており、事理を弁識し、それに従って行為する能力は著しく制約されていたが、それ以上にその能力を失わせるほどの影響力はなかった」として、弁護人の「心神喪失状態だった」とする主張を退け、検察官の「心神耗弱状態だったが、心神喪失ではない」とする主張を採用した[39]

量刑理由については、「悪質極まりなく、犯罪史上稀に見る凶悪な犯行だ。無差別大量殺傷事件として、付近の住民に与えた不安・恐怖や社会に与えた衝撃は重大で、被告人Kは前科・前歴を有しているほか、覚醒剤を濫用するなどして自らこのような精神異常を招いた面も否定できず、動機に酌量の余地は乏しい。刑事責任は誠に重大で、精神に異常をきたしていた事実がなければ極刑をもって処断すべき事案だ」と指摘[3]。その上で、「犯行時、被告人は心神耗弱状態にあったため、法律の規定により刑を減軽しなければならない。しかし諸々の情状を鑑みると、幻覚・妄想の形成要因の一つである異常性格には遺伝的負因や生育環境に規定された側面もあること、現在では一応謝罪の意思を表していることなどを斟酌しても、被告人Kは心神耗弱による法律上の減軽をした場合に科すことができる最高刑(無期懲役)を甘受しなければならない」と結論付けた[3]

なお判決理由の朗読中には、傍聴人が「その通りだ!俺にも聞こえる、電波が!」と叫んで退廷させられた[注 36][76]。被告人Kは判決直後、東京拘置所内で接見した主任弁護人・落合長治弁護士に対し、「自分は心神喪失だから無罪が相当」と判決への不満を述べていたが、落合らは控訴を断念させようとして[注 37]「本来ならば死刑になるべき事件が無期懲役になったのだから、被害者・遺族への贖罪のためにも刑に服すべきだ」と説得し、Kもこの説得を受け入れた[8]。結局、Kは控訴期限の1983年(昭和58年)1月6日までに東京高等裁判所への控訴手続きを取らなかったため、無期懲役判決が確定した[8]

その他

事件後、加害者Kの兄弟たちは「K」姓から改姓した[71]。また、妻子3人(妻X・長男Y・長女Z)を失った男性は事件後、酒の飲みすぎで体調を崩したほか、1982年9月中旬には「この家(事件当時住んでいた家)に居れば、妻や子がいる気がして、部屋で子供とふざけっこする夢を見る」と言い、引っ越した[64]

当時は覚醒剤の第2次乱用期(1970年 - 1980年代)に当たり[78]、覚醒剤中毒者による犯罪も多発して社会問題化していた[注 38]。特に、事件が発生した1981年は覚醒剤事犯検挙者数が22,024人、翌年(1982年)は23,365人におよんでいた[注 39][79]。また、犯人の男が逮捕された時の異様な風体や男の供述に出てくる電波という言葉が世間の耳目を集め、薬物中毒者が起こした象徴的事件とされた[80]。しかし、松本俊彦精神科医)は「この『電波』という現象は、犯人Kが覚醒剤に手を染める以前から存在しており、この事件も覚醒剤が直接の原因ではない」とする意見を述べている[80]

刑法第39条では「責任能力に欠ける心神喪失者の行為は罰せず、責任能力が減退している心神耗弱者の行為は刑を減軽する」と規定している[52]。その背景には「責任なければ刑罰なし」という刑法の根底をなす大原則に加え、「罪を犯した精神障害者も社会の犠牲者」とする考え方があるが、Kが心神耗弱状態に陥った原因は自ら覚醒剤を濫用したことであり、犯行時には力の弱い主婦・幼児ばかりを執拗に狙っていたことなどから、『朝日新聞』(朝日新聞社)は第一審判決を受けて「Kを『社会の犠牲者』と見ることは国民の法感情に反するのではないか?」と指摘していた[52]。また、第一審判決が言い渡されたころには日本国政府禁固以上の刑に相当する罪を犯した精神障害者およびアルコール・薬物中毒患者について、裁判所が「治療をしないでおくと再犯の恐れがある」と認めた場合、強制的に施設に収容して治療させる「保安処分制度」を含めた刑法改正案を翌1983年春の国会に上程しようとしていた[52]が、保安処分制度は2021年時点に至るまで日本では施行されていない。

テレビドラマ化

事件後、佐木隆三が本事件を題材にしたノンフィクション『深川通り魔殺人事件』(旧題:『白昼凶刃』)を執筆したが、これを原作としたテレビドラマ番組『深川通り魔殺人事件』がテレビ朝日系の『月曜ワイド劇場』で1983年(昭和58年)7月25日(月曜日)21:02 - 22:48に放映された。同作品は視聴率約26%をマークし、放送批評懇談会「月間ギャラクシー賞」を受賞した。

オーディションでは、20人ほど面接したプロ俳優とはフィーリングが合わず、21人目に呼ばれた大地康雄が、かつて犯人役として演じた『衝動殺人 息子よ』を、監督の千野が視聴していたことから抜擢された。あまりの怪演に「(犯人K)本人を出したのか?」と問い合わせの電話が鳴る程であり、大地本人も極悪人のイメージがしばらく纏わりつき、4年後の『マルサの女』までは、時々悪役の仕事を貰いながらアルバイト生活を営んでいたという。また、プライベートで飲みに行った先でも、大地は女の子から悲鳴をあげ逃げられるほどであった[81]

脚注

注釈

  1. ^ a b c d e 凶器の柳刃包丁は昭和56年押第1644号の1[2]
  2. ^ ただし、長姉は幼少時に死亡した[11]。また、Kより13歳年上の兄(長男)は[12]、働きながら定時制高校を卒業したが、結婚直後(Kが小学校6年生の時)に酔った友人から妻をひどくからかわれ、たまりかねて注意したところ瓶ビールで殴られたために激昂し、台所の包丁で刺殺する事件を起こし[13]、Kが中学校を卒業した当時は殺人罪で服役中だった[14]。しかし元来の兄は実直かつ真面目に仕事に取り組む人物で[13]、1978年時点では銚子市内に住んでいた[15]
  3. ^ Kが卒業した波崎町立波崎第三中学校(現:神栖市立波崎第三中学校)の高校進学率は当時90%超で、卒業生のほとんどが新設された波崎高校へ進学していた[16]。Kの父親も3人の息子のうち、素直に親の言うことを聞いていた次男のKに最も強い期待を掛けており、Kを波崎高校へ進学させたいと考えていたが、Kは家庭の経済状況の苦しさから「自分だけ上の学校に行くわけには行かない」と考え、就職を希望した[14]
  4. ^ 当時、Kの勤務態度は真面目で、Kが1970年(昭和45年)10月に自ら退職を申し出た際も店主は強く慰留しようとした[18]。一方でKは同年夏、酒に酔って近所の映画館のスチール写真展示のガラスを割り、パトカーで築地警察署へ連行された[19]。この時は店主から刑事たちの前で折檻を受け、強い反省の念を示していたが、この事件を起こした理由は新入りの板前見習い(店主が知り合いの保護司から頼まれて引き受けた少年院仮退院中の少年)との折り合いが悪かったためだった[20]
  5. ^ 最初の寿司屋(築地)を辞めてから初めに就職した店(江戸川区小岩)では就職当初こそ真面目に勤務していたが、仕事中に飲酒して客に絡んだり、背中に刺青を入れていた同僚に憧れ、二の腕に刺青を入れたりしたことから、3か月後に解雇された[21]
  6. ^ 佐木隆三 (1983) によれば、初めて服役するまでの前科は以下の通り(いずれも酒に酔った際の犯行)で[22]、1972年12月から川越少年刑務所で服役した[23]
    • 1971年(昭和46年)6月6日(事件当時19歳)、浅草で通行人を脅して現金を出させる恐喝罪を起こし、東京地裁で懲役2年(執行猶予3年)の判決[22]
    • 1972年3月8日(事件当時20歳)、千住で暴行傷害事件を起こし、東京簡易裁判所で罰金3万円[22]
    • 1972年9月29日、富坂(文京区)で警察官にビール瓶で殴りかかり、かすり傷を負わせる暴行傷害事件を起こし、東京地裁で懲役10か月の判決[22]
  7. ^ 佐木隆三 (1983) は「普通は初犯で、懲役期間が計2年10か月なら、服役態度が良ければ仮釈放されるはずだが、Kは満期出所だった。この間はよほど反抗的だったのだろう。」と考察している[24]
  8. ^ 1976年(昭和51年)5月10日に自棄酒を飲み、文京区の飲み屋で凄んだところ、110番通報されたことに逆上して客・マダムらを相手に暴れ、富坂署員に暴力行為等処罰法違反・脅迫容疑で逮捕された[24]
  9. ^ 同月18日に刑期満了[25]
  10. ^ 同事件は被告人Kが事実関係を争わなかったため、逮捕からわずか2か月後に判決が言い渡された[31]。Kも控訴しなかったため、1979年1月に刑が確定した[31]
  11. ^ 同月17日に刑期満了[25]
  12. ^ 警察官に提示した運転免許証が更新手続き切れだったため[25]。また、同年2月3日には銚子市内で接触事故を起こして相手を殴っていたため、道交法違反と暴行罪を併合して起訴された[34]。その後、同年8月17日にはKの母親が死亡したため、Kは勾留を停止されたが、母親の葬儀の席で大声で喚き散らし、制止した弟と口論・掴み合いの喧嘩になった[35]
  13. ^ 当時は服役中、同囚に暴行を加えたり、職員に暴言を吐いたり、出役を拒否したりするなど反則が多く、7か月の懲役期間より半月あまり遅れて出所となった[37]
  14. ^ 東京地検は冒頭陳述で、動機について「被告人Kは事件の約1か月前から、『次々と寿司店を解雇されたのは、誰かが自分を迫害して追い詰めるために計画的に裏工作しているせいだ。このままでは夢に描いていた家庭も持てず、自分の人生は終わりだ』と悲観したことで、家庭を持てない悔しさもあり、特に女性・子供を殺して人質を取り、自分を解雇した人を呼びつけ、信用を失わせ倒産させようと考えていた」と主張した[38]
  15. ^ 被害者Xは、後方から背部・右胸を1回ずつ突き刺され、12時20分ごろに搬送先の「駿河台日本大学病院」(東京都千代田区神田駿河台一丁目8番13号)にて左肺肺内動静脈切断により失血死した[2]
  16. ^ 被害者Yは、腹部・鼠径部・胸部などを前方から何回も突き刺され、12時5分ごろに「社会福祉法人 あそか病院」(江東区住吉一丁目18番1号)で肺動静脈損傷等により失血死した[2]
  17. ^ 被害者Zは、前方から胸部・腹部などを何回も突き刺され、13時50分ごろに「日本医科大学付属病院」(東京都文京区千駄木一丁目1番5号)で胸腹部臓器損傷により失血死した[2]
  18. ^ 被害者Aは、14時20分ごろに「あそか病院」で肝・下大動脈等損傷による出血性ショックで死亡[2]
  19. ^ 被害者Bは、腹部刺創および小腸・腸間膜・後腹膜各損傷の傷害を負った[2]
  20. ^ 「萬来」は新大橋通りに面した2階建て建物で、1階が店舗になっていた[40]
  21. ^ 当時、中華料理店はランチタイムで数人の客がいたが、KはDに刃物を突き付けたまま店内へ連れ込み、テーブルの間をすり抜けて奥屋敷へ入り立てこもった[1]。またこの直前、Kは付近を通りかかった水道工事店経営者に追いかけられたが、血液の付着した包丁を手に店内へ駆け込んだ[41]
  22. ^ 経営者は当初、妻とともに店の開店準備を始めたところだったが、人質の女性Dを後ろから抱きかかえたKに包丁を突き付けられ、「出て行け、出て行かないとこの女を殺すぞ」と脅されたため、長男(当時:生後9か月)を連れて3人で店を飛び出した[40]
  23. ^ 前胸部・背部・右上腕・右前腕擦過創など[2]。なお、DはKに連れられて店内に入ってきた時点では怪我をしていなかった[40]
  24. ^ 砥石は15時に差し入れられた[42]
  25. ^ 日本青年社右翼団体)会長で、住吉連合暴力団)の常任相談役[1]
  26. ^ このため、警視庁が小林に連絡を取った[1]。しかし、彼はKとは全く無関係な人物で、Kが刑務所内でしばしば聞いていた名前に過ぎなかった[43]。Kは「事件の数年前に駒込で飲んでいた際、彼(小林)と知り合いであるかのように吹聴していたところ、配下の者から『なんで会長を知ってる』と問い詰められて痛い目に遭い、それ以来はテープから彼(小林)の声がしばしば聞こえた」と述べている[43]
  27. ^ Dはその後、救急車で東京警察病院へ搬送された[42]
  28. ^ Kの逮捕をテレビ中継で目撃した佐木隆三は、自著 (2014) で「半袖シャツ・ブリーフ姿で護送車へ連行されるシーンに強烈な印象を受けた。それまで自分が見てきた犯人逮捕の瞬間の中でも、これだけショッキングな光景は珍しい」と述べている[45]
  29. ^ この時のKの態度・言葉について、佐木隆三 (1983) は「取調官の目には、昂奮しているというより、意気がっているように映った」と述べている[46]
  30. ^ Kは「府中(刑務所)を出てからはずっと金がなかったから、覚醒剤は買えなかった」と供述しており[43]、捜査員たちも「Kは4月21日に府中刑務所を出所したが、それから事件当日(6月16日)までに1パケで2, 3万円もする覚醒剤を買えるはずはないだろう」という心証だった[49]。しかし、その一方でKは「吉原トルコ(風呂)には行った」と述べていた[49]。なお、被告人Kは控訴期限前日(1983年1月5日)に弁護人と面会した際に「本当に覚醒剤はやっていないんだな?」と問われ、改めて「絶対にやっていない」と答えている[50]
  31. ^ 第4回公判で[55]、弁護人は鑑定人として中田修・山上皓(東京医科歯科大学教授)を申請した[54]。これは、弁護人が本事件について、「Kは『生きていて何の楽しみもないが、自殺まではしたくないから、残虐な犯罪を犯して死刑になろう。自分は電波・テープに苦しめられているから、楽しそうな家族連れを襲う大事件を起こし、自分を迫害している黒幕を暴いて恥を書かせてから死のう』と考えた」(=拡大自殺)と想定し[56]ピアノ騒音殺人事件(1974年)の被告人(控訴審で「偏執病(パラノイア)」とする精神鑑定結果が出た)との共通点を見出したことに加え、その際の精神鑑定を中田(鑑定人)・山上(鑑定助手)が担当していたためだったが[55]、福島はかつて同大学の犯罪精神医科研究室(主任教授:中田)に所属していたため、裁判所が独自に鑑定人の人選を行った[54]
  32. ^ 佐木隆三 (1983) は「東京地検は論告求刑に当たって東京高検と協議し、死刑と無期懲役のどちらを求刑すべきか激論した」[60]「世論を背景にすれば死刑以外にあり得ない事件だったが、2度の精神鑑定(起訴前及び裁判所の命じた鑑定)から、裁判所が心神耗弱を認定することは確実だった。検察もその鑑定結果を尊重し、無期懲役を求刑したのだろう」と述べている[61]
  33. ^ 人質にされた被害者Dは「自分を人質にしている間、Kは差し入れのカレーライスやジュースを念入りに毒見させており『なんて冷静なんだろう』と思ったほどだ。心神耗弱などとんでもない」と述べた一方[63]、殺害された被害者の遺族の1人は「自分も本音では『死刑にしてほしい』と思うが、無期懲役でもいい。自分の親族は『Kが無期懲役になって一生刑務所の中で苦しむなら、それが償いになる』と言っている」と述べている[64]
  34. ^ Kは「死刑の場合、絞首台には行かない。武士の取るべき道として自決する」と発言していた[65]
  35. ^ しかし、1946年 - 1957年には無期懲役を求刑された被告人に死刑判決が言い渡された事例が複数ある[66][67][68][69][70]求刑#無期懲役の求刑に対する死刑判決の例も参照。
  36. ^ 公判中には判決までに、被告人K(東京拘置所に拘置中)に対し、数人の人物が面会を求め、「自分も幻覚妄想に苦しめられており、被告人を支援したい」と申し出た[75]
  37. ^ 落合ら弁護人2人は、「世間が死刑を求める中、無期懲役にしてもらった」として、Kには控訴させない方針を決めていた[77]
  38. ^ 1975年 - 1985年までには全国検挙人数が69,380人に達し、うち犯罪者数は49,445人(71%)に上っていた[78]
  39. ^ ピークは1984年の24,022人で、1981年 - 1988年まで8年連続で検挙者数は20,000人以上を記録していた[79]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i 朝日新聞』1981年6月17日東京夕刊第3版第一総合面1頁「白昼の通り魔、通行人襲う 深川の商店街で中年男 六人刺す 幼児ら二人死亡 女性人質、ろう城」(朝日新聞東京本社
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 東京地裁 1982, 罪となるべき事実.
  3. ^ a b c d e 東京地裁 1982, 量刑の理由.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 朝日新聞』1982年12月23日東京夕刊第4版第一総合面1頁「Kに無期懲役刑 深川通り魔事件 東京地裁判決 心神耗弱認める」(朝日新聞東京本社
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  8. ^ a b c d e 『朝日新聞』1983年1月7日東京朝刊第14版第一社会面「『深川の通り魔』K 控訴せず」(朝日新聞東京本社)
  9. ^ 佐木隆三 1983, p. 236.
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  39. ^ a b c d 東京地裁 1982, 被告人の責任能力について.
  40. ^ a b c d 『朝日新聞』1981年6月17日東京夕刊第3版第一社会面11頁「江東の通り魔 平和な下町、血と悲鳴 閉ざされたガラス窓 犯人たてこもる『万来』」(朝日新聞東京本社)
  41. ^ 『朝日新聞』1981年6月17日東京夕刊第3版第一社会面11頁「江東の通り魔 平和な下町、血と悲鳴 次々と倒れる人々 乳母車の幼児まで」(朝日新聞東京本社)
  42. ^ a b c d e f g h i 『朝日新聞』1981年6月18日東京朝刊第二社会面22頁「7人殺傷、狂気の通り魔 ドキュメント」(朝日新聞東京本社)
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  69. ^ 河北新報』1947年3月20日夕刊1面「B、Sに死刑 苦竹放火殺人事件 求刑(無期)を覆す判決」(河北新報社
  70. ^ 『毎日新聞』1957年12月28日夕刊3面「二人に死刑判決 少女殺し(田無)と老女強殺(八王子)」(毎日新聞東京本社)
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  72. ^ 『朝日新聞』1982年11月12日東京夕刊第4版第一社会面15頁「深川通り魔事件が結審 来月23日に判決」(朝日新聞東京本社)
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  80. ^ a b 松本俊彦「シャブ山シャブ子」を信じてはいけない 「啓発運動」が差別を助長している」『プレジデント』プレジデント社、2018年11月12日、2面。2020年8月16日閲覧。オリジナルの2020年8月16日時点におけるアーカイブ。
  81. ^ a b 「本人を出した?」と問い合わせも…大地康雄、リアル過ぎた『深川通り魔殺人事件』の犯人役」『テレ朝POST』テレビ朝日、2018年8月3日。2020年8月16日閲覧。オリジナルの2020年8月16日時点におけるアーカイブ。

参考文献

  • 東京地方裁判所刑事第7部判決 1982年(昭和57年)12月23日 『刑事裁判月報』第14巻11・12号829頁、『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:27922217、昭和56年(合わ)第305号、『殺人、同未遂、住居侵入、監禁致傷、銃砲刀剣類所持等取締法違反被告事件(著名事件名:江東区通り魔殺人事件)』、“異常性格を基盤とする心因的妄想に覚せい剤使用の影響が加わって生じた幻覚妄想が動機の形成に重要な役割を果たしていても、犯行はそれに直接的かつ全面的に支配されて遂行されたものでないときは、心神耗弱の状態にあったものというべきであって、心神喪失の状態には立至っていなかったものというべきである。”。
  • 森田昭之助『麻薬中毒 覚醒剤からコカイン、マリファナまで』 27巻(第1刷発行)、健友館〈家庭の医学シリーズ〉、1992年8月25日。ISBN 978-4773702767 
  • 佐木隆三『深川通り魔殺人事件』(第二刷)文藝春秋、1983年7月5日(原著1983年6月15日(第一刷))。ISBN 978-4163074504 
  • 佐木隆三『白昼凶刃 〈隣りの殺人者2〉』小学館小学館文庫〉、1999年12月。ISBN 978-4094037029 
  • 佐木隆三「第十五章 『深川通り魔殺人事件』のK」『わたしが出会った殺人者たち』 さ-11-2(発行)、新潮社〈新潮文庫〉、2014年9月1日、313-342頁。ISBN 978-4101315027 

関連項目

  • ビートたけし - 1980年代に本事件のことを頻繁にネタとして使っていた。
  • 三遊亭小遊三 - テレビ番組「笑点」の「大喜利」内で行う犯罪者ネタは、当人が本事件の犯人Kに顔が似ていたことをきっかけとしている。
  • NIPPS - 「大怪我」という曲に犯人Kの名前が出てくる。
裁判所が死刑を選択したが、被告人が犯行時に心神耗弱であったことを理由に(実際に適用する)量刑を無期懲役へ減軽した事例
※いずれも刑事裁判では本事件と同じく、裁判所が「本来ならば死刑に処すべき犯行だが、被告人は犯行時に心神耗弱状態だったため、無期懲役刑に処する」として無期懲役刑を言い渡した。