浅野重晟

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浅野 重晟
浅野重晟像
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 寛保3年10月13日1743年12月2日
死没 文化10年閏11月13日1814年1月4日
戒名 恭昭院殿鸞臺種徳大居士
官位 従四位下左近衛権少将安芸守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
安芸広島藩
氏族 浅野氏
父母 浅野宗恒:和泉
兄弟 重晟水野忠鼎長員長包松平定功正室
正室徳川宗勝の5女・邦姫
継室:徳川宗勝の9女・陽姫
斉賢森快温長懋忠順、光樹院、伊東祐民室、浅野長容室、秋元知朝正室、勝子、小笠原長瑶正室ら
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浅野 重晟(あさの しげあきら)は、江戸時代中期から後期の大名安芸国広島藩の第7代藩主。浅野家22代当主。第6代藩主・浅野宗恒の長男。将軍・徳川家重からの偏諱(「重」の字)と、初代・長晟・2代・光晟・3代・綱晟の3名が用いた通字の「晟」により、重晟と名乗る。

生涯[編集]

宝暦7年(1757年)2月15日、将軍・徳川家重に拝謁する。宝暦8年(1758年)11月28日、元服し将軍・家重から偏諱を授かる。従四位下・上総守に任官する。宝暦13年(1763年)2月21日、家督を相続する。同年3月1日、通称を安芸守に改める。同年4月15日、お国入りの許可を得る。明和元年12月18日(1765年)、侍従に任官する。寛政2年(1790年)11月27日、左少将に任官する。寛政11年(1799年)8月21日に隠居して次男の斉賢に家督を譲り、通称を備後守に改めた。

事績[編集]

  • 藩財政を建て直すとともに、社倉法による救荒策や絹・油などの国産振興策をすすめた。
  • 学問に力を入れており[1]、経費削減のため休止していた藩校を再興するため、「学問所」を開設し、頼春水らを教授として登用した。また自らも毎月3回ここで論語などを講じた[2]。この学問所は明治期に「修道館」となり、現在も修道中学校・修道高等学校として続いている[3]
  • 京都から庭師を招聘し、庭園「泉水屋敷」(現在の縮景園)の大規模な改修を行った。この改修により庭園はほぼ現状に近いものとなった。
  • 水主町に新たに中屋敷(水主町屋敷)を造営し、藩政の拠点とした。

系譜[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 25頁。
  2. ^ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1181266 小鷹狩元凱「元凱十著」19頁
  3. ^ 修道中学校・高等学校沿革